井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている。

なぜここ数年「小説を書く」ということにずっと興味がある。それは、僕もそろそろ小説を書きたいなぁと思っているからではない。そうではなく、パターン・ランゲージを編み上げることが、小説を書くことに似ていると感じているからである。いくつものパターンを組み合わせ、ひとつの全体としてのパターン・ランゲージを仕上げるときにやっていることが、小説を書くことに似ていると感じるのである。これは、直観的に感じているということであって、まだ論理的に説明できるレベルにはないが。

僕は小説を書いたことがあるわけではないし(自作映画のストーリーのようなものはいくつか書いたことがあるけれども、それらは小説ではない)、パターン・ランゲージは小説ではない。しかしながら、小説家が「小説を書く」ということについて語っているものを読むと、自分がパターン・ランゲージを仕上げるときに行っていることに近いと感じるのである。


井庭研でパターン・ランゲージをつくるとき、僕は、映画で言う「プロデューサー」(製作総指揮)のような立場をとる場合と、「ディレクター」(監督)のような立場をとる場合の二種類がある。

プロデューサーとして関わったのは、Generative Beauty Patternsやチェンジ・メイキング・パターン、パーソナル・カルチャー・パターンなどである。プロデューサー的に関わるというのは、あくまでも、作品としてのパターン・ランゲージは、学生メンバーのリーダーのセンスでまとめあげてもらい、僕はその環境を整えたり、それを世の中に出す手助けをすることを行う。

ディレクターとしてつくった、ラーニング・パターン、プレゼンテーション・パターン、コラボレーション・パターン、旅のことば(認知症とともによりよく生きるためのヒント)である。パターン・ランゲージ作成プロジェクトでにディレクターをするときには、チームでつくってきた作品の細部に至るまで、しっかりと自分のセンスに照らして仕上げていく。具体的に言うと、すべての文章に手を入れ、すべてのイラストに手を入れる。もちろん、それまでにもずっと指示や要望を伝えてきてはいるけれども、すべてのパターンのすべての項目のすべての文を自分の手で書き直す。

この段階で、それまでのものから一気にクオリティが上がる。単にパターンの集まりであることを超え、ひとつのランゲージとして世界観をもつものになる。井庭研メンバーはそれを「先生が魔法をかけた」という言い方で表現をしている。たしかに、僕の感覚としても、ひとつひとつのパターンに命を吹き込んでいくという感じなので、「魔法」という表現はまんざら間違った表現ではないと思う。


さて、パターン・ランゲージを編み上げることと、小説を書くことはどう似ているのか。

パターン・ランゲージには小説の主人公のような登場人物はいないし、話の展開もない。パターンごとに区切られた秘訣の記述が集まったものだ。それがどう小説を書くことに似ているのだろうか。

まず最初に断っておきたいのは、「パターン・ランゲージが小説に似ている」と言っているのではない、ということだ。パターン・ランゲージと小説はまったく異なる表現である。パターン・ランゲージは小説ではないし、小説はパターン・ランゲージではない。そうではなく、「パターン・ランゲージを編み上げる」ということが「小説を書く」ということに似ていると言っているのである。

また、「(個々の)パターンを書く」ことが小説を書くことと似ていると言っているのでもない。個々のパターンは、インタビューや自分たちの経験から掘り起こして書いていく。なので、個々のパターンを書くことは小説を書くこととは異なるプロセスで行われる。ここで言いたいのは、「(個々の)パターンを書く」ことがではなく、「パターン・ランゲージを編み上げる」ということが「小説を書く」ということに似ているということである。

「パターン・ランゲージを編み上げる」というのは、すでに、個々のパターンの状況・問題・解決の記述があり、パターン名があり、それらがたくさん書き上がった状態から、互いに関係し合うひとつの全体にまとめ上げる作業のことである。このとき、パターン・ランゲージのパターンが冊子に収録されるということが重要になる。

僕らは、パターン・ランゲージを冊子に収録するときに、前から読んで読めるような順番でパターンを並べる。前から読み進めたときに、「飛んだ」感じがせず自然な流れになるように、それぞれのパターンの内容を踏まえながら収録順番を決めていく。そして、その収録順番に応じて、パターンの通し番号がつけられる。そのため、パターンとパターンがどのような関係にあるのかを見定め、そういう順番に並べていく。そして、その順番に合うように、パターンの内容を修正する。

パターン群をパターン・ランゲージに編み上げるというのは、部分を単に連結して組み立てるという作業ではなく、全体を想定しながら部分をつないでいき、そしてそれらがつくる全体を確認しながら、個々の部分を修正・調整していく、という、往ったり来たりのプロセスとなる。

そのとき、自然な感じというのは何かというと、そのパターンの「奥」にある世界で出来事がうまく流れるかどうか、ということである。パターン・ランゲージというものは、読者がパターンを読んで、自分の世界(生活)で実践してみることが期待されてつくられている。つまり、読者がパターンの冊子を前から読んでいくなかで、自分の世界の流れに照らして、イメージしやすいように書かれなければならない。もちろん、読者は多様な状況のなかでパターンを適用するので、その状況や流れを一意には決めることができない。そうであったとしても、より多くの人が自然な流れであると感じる並べ方はあるのであって、それを模索するわけである。

パターンの「奥」というのは、僕がパターンの順番を考えているときの感覚は、パターンの記述の「奥」に照射された世界での流れをつかもうとしていることから、そう表現した。ここでの「奥」の世界では、おぼろげながら登場人物がいて、その人たちが、そのパターンを読んでいたり、実践していたりする。『旅のことば』であれば、認知症のご本人や、家族が、そこには登場する。そして、日々の生活をしている状況を思い描く。

パターンの「奥」の世界の登場人物たちは、僕の意図を超えて、自由に動き回っている。そして、このパターンを読んだとき、どう感じるだろうか、どういう行動をとるだろうか、このパターンを実践した人が、次にこのパターンを実践しているのというのは、自然な流れだろうか。このパターンの次にこのパターンを読んだとして、まさにこれが必要だと思うだろうか。そういうことを何度も何度もシミュレーションする。これは、まさにパターンの奥にある世界の「物語」をつくり動かしているということである。

このときの感覚が、小説家が「小説を書く」ということについて語っていることにかなり近いと感じるのである。最終的に僕らは、パターン・ランゲージを作品とし、思い描いた物語たちはすべて背景に退いてしまう。というよりは、物語世界は最終的に消えゆく運命にあり、パターン・ランゲージにはその痕跡や残り香のようなものしか残らない。ここが、作品としてのパターン・ランゲージと小説の大きな違いとなる。


このような感覚は、コラボレーション・パターンで少し感じ始め、『旅のことば』でかなり実感し、意識できた。その意味で、僕のこれまでのパターン・ランゲージ作成の経験のなかで、『旅のことば』は別格というか、新しい展開の始まりであると思っている。


そのようなわけで、ここ数年、「小説を書く」ということについて本を読みまくっている。なんとかこの感覚を言葉にしたいと考え、読みながら考え、読みながら考えを繰り返している。これからも、Creative Reading(創造的読書)でいろいろな本を取り上げ、その力を借りながら、なんとか言葉で表現することを試みたい。
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