井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

<< January 2015 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

Creative Reading:『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志)

今回は、保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作の最終巻である『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2012)を取り上げたい。

Hosaka3.jpg『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2012)


この三部作を通じて、小説家・小島信夫さんの話がたくさん出てくるのであるが、次のエピソードで語られていることは、実に興味深い。

そのとき話がはじまってすぐに私がちょうどそのときに読んでいたメルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』のページを開いて、
「ソナタ奏者の演奏がソナタたりえるのはソナタに奉仕しているからだ。」
という意味のことが書いてある箇所を小島さんに見せて、
「小島先生の小説が小説たりえているのは、先生が小説に奉仕しているからなんだと思う。」
と言ったら、
「そんなことを誰の前でも軽々しく言ったらいけない。みんな小説を自分一人の力で書いていると思っているんだから。」
と小島さんが答えた (p.121)

この部分を読んで、もしかしたら僕のつくるパターン・ランゲージがパターン・ランゲージたりえるのは、パターン・ランゲージに奉仕しているから、と言えるのではないか、と感じた。そして、よいパターン・ランゲージを書けないで悩んでいる人は、もしかしたら、自分がつくっているものをどうするかに頭を悩ませているばかりで、パターン・ランゲージというもの・方法に奉仕していないからかもしれない。

僕は、そのときどきのテーマのパターン・ランゲージをつくりながら、同時に、パターン・ランゲージとは何なのか、どのようにパターン・ランゲージをつくることができるのかについて絶えず考えている。そして、パターン・ランゲージをより知ってもらったり、活用されたりするためにはどうすればいいかも考えている。これを先ほどの「奉仕」という言葉で表現するならば、奉仕していると言うことができるのではないか。

成果だけでなく、同時にそのつくり方もつくることの重要性は、僕もこれまで考えていたけれども、「奉仕」ということは考えていなかった。でも、これ、とても大切なことだと思う。


ハイデガーを取り上げた章で、次のようなことが書かれている。

人間が芸術を作るのではなく、芸術によって人間が作るようにしむけられる。とはいっても、ただ子どもが大人に言われるままにわけもわからず何かをするような仕方ではなく、覚悟をもってその困難に進み入ってゆく (p.248)

このことは、宮崎駿が、映画をつくっているはずが映画の奴隷になってつくらされる、ということを言っているのと重なるし、僕自身が本気で何かをつくっているときの経験とも重なる。パターン・ランゲージをつくっているときも、パターン・ランゲージの記述が、まるでパズルのピースがぴったりはまるように、適切かつ生成力をもつようにつくっていく。

別の箇所で紹介されているモーツァルトの話も興味深い。

モーツァルトのてがみは言う―――構想は心の中に全体として姿をみせる。(p.301)


全体のイメージがどこからかやってくる。ある瞬間に気がつくと、それはすでにそこにある。全体をさまざまな角度からしらべ、必要なディテールを発見するのは、ゆっくり進行するプロセスであるのがふつうである。時間をかけることが問題なのではない。ディテールが全体の機械的な分割にとどまらず、相対的に独立した運動をもつことによって、逆に全体はディテールの集合から独立した次元を獲得する。こうして、はじめにあらわれた全体のイメージを超えることが必要なのだ。このことなしには、作曲は実行にあたいしない、ゆめみるだけで充分なものになってしまう。(p.301)

ここには、全体と部分の関係がつくる過程でどのように変容していくのかが書かれていると思う。全体は部分の寄せ集めではない。部分は全体によって規定されるのだ。しかし、最初からそのすべてがどこかからやってくるのではない。全体がまず先にあり、それが実際に存在できるように部分(上述の言葉でいうと「ディテール」)をつくり込んでいく。完成のイメージはあいまいであるが全体が先にあるのであるが、実際につくることができるのは部分=ディテールでしかない。しかし、部分=ディテールを集めたものが全体なのではなく、全体は全体として存在する。まだ正式なかたちを伴っていない段階から、それは全体なのである。

そして、そのようにつくられた小説にはリアリティが宿る。ただし、現在の事実にもとづくというよりも、それはもっともらしく、自分の未来に実際に起きそうであると感じるという意味でのリアリティである。

小説はリアリティがあるからおもしろいのではなく、おもしろい小説には何らかのリアリティがある。この関係を間違ってはいけない。(p.84)

パターン・ランゲージも、似たようなことを言えるだろう。リアリティがあるから「共感」できるのではなく、「共感」できるからリアリティがでる(を感じることができる)、と。

そして、それは新しい価値を提示する。


小説を書くということは社会全体に流布している価値とは別の価値による領土を作ることだ。(p.328)

これはパターン・ランゲージにも言える。パターン・ランゲージをつくるということは社会全体にすでにあるような価値とは別の価値の領土をつくることなのだ。例えば、プレゼンテーションが伝達だと思われているときに、伝達ではなく創造である、と捉えることや、認知症になるということは、家族と過ごす時間が増えたり、いろいろな挑戦をする機会を思い切って増やすことができるという意味で、「新しい旅」だと捉えることができる、というような、普通と異なる価値の領土をつくるということである。

そして、この別の価値というものを、作家はあらかじめ明確に理解しているわけではない。書く・つくることで、それが見えてくるのである。いや、それを見るために書く・つくるのである。

小説家は「いま書きはじめてこの話が小説として成立するのか」という先が保証されない時間の中で文章を書いている。
家を建てるのだったら、まず土台をしっかり作り、次に柱を立てて、その次に屋根を骨組みを作って、という順番があるけれど、小説を書くというのはとりあえず柱を一本立て、その柱を一本立てたことが同時に土台を少し作ることにも屋根を少し作ることにもなるような、手順が保証されていない作業であって、とりあえず立ててみた柱がダメそうなら、別のところに柱を立てるか、それより短い柱にしてみるかというような試行錯誤なのだ (p.412)

これは、創造的な過程の本質だと思う。そして、それが井庭研でやっていることや、SFCで僕らが教えられ・実際にやってきたことはまさにこういうことである。いわゆる一般教養から始めて基礎から積み上げる大学教育ではなく、いきなり柱を立て、その柱の下の基礎だけを同時につくっていくような学び方。これがSFCが25年間やってきたことだと思う。

そして、おそらく、パターン・ランゲージが支援しようとしているのも、そういうことだろう。アレグザンダーが、住民が建築生産のプロセスに参加できるようになるための方法としてパターン・ランゲージを考案したことからもわかるように、しっかりした基礎と自分自身の膨大な経験に基づくのとは異なるやり方で、いきなり柱をつくろうとしても全体として高い質が実現できるような方法を目指して、パターン・ランゲージがつくられたのである。

パターン・ランゲージを読むことによって全体性を感じとり、その上で部分=ディテールをつくるために個々のパターンが寄与する。アレグザンダーの実践は道半ばで終わってしまった感があるのは事実であり、その試みの続きは、僕ら後継者が続けるべきことだろう。
Creative Reading [創造的読書] | - | -

Creative Reading:『小説の誕生』(保坂 和志)

前回に続き、保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作の二作目にあたる『小説の誕生』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2011)から気になる部分を抜き出して考えたい。

Hosaka2.jpg『小説の誕生』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2011)


本書でも、「小説的思考とは何か? 小説が生成する瞬間とはどういうものか? 小説的に世界を考えるとどうなるのか?」ということが問われている。

評論的思考は俯瞰し一望するタイプのものだけれど、小説的思考は森の奥へ奥へと勇気を持って突き進むものだ。その先に何があるのか?なんて関係ない。突き進むという行為自体に意味がある。というか、小説を書くとはひたすら突き進む行為そのもので、それは人生であり、この世界に生きることに等しい。人生や世界は決してその外に出て俯瞰することはできない。(p.14)

興味深いのは、この小説論自体が、小説的に奥へ奥へと進むように書かれているということだ。

小説論は評論でなく小説の変種だから、私は毎回、最初の数行を書いたらその運動に任せて、考えを前に進めることだけを実践した。(p.4)

そのような小説的な書き方で、小説について考えているのが、この『小説の誕生』という本、そして、この「小説をめぐって」の三部作なのである。このような再帰的なかたちの取り組みは、まさに僕らがパターン・ランゲージをつくるためのパターン・ランゲージをつくっているのと同じような構造になっている。

前回取り上げた『小説の自由』でも書かれていたことだが、文体は文章の表面的な特徴を言うのではなく、それを生み出す奥にあるものである。

小説における文体とは書かれる要素の種類と量とその順番などのことであって、センテンスの長-短、言葉使いの硬-軟などの表面的なことではない。それら表面的なことだけにとらわれる文体観は、小説を形式と内容に分ける考え方に基づいた発想なのだが、小説においては形式と内容という二分法は意味がない。表面的なものだけをみて文体と考える発想は詩から移入されたものだろう。散文は韻文ではない。散文は韻文と別のメカニズムによって作られていくこのだから、小説は散文としての独自の意識を持つ必要がある。小説にとって必要なのはひたすら散文という意識だけなのではないかと私は思う。(p.34)

この詩の捉え方が、詩人の側から見てどう思うのかは僕はわからないが、「形式」と「内容」に分けるという発想がそもそも違うという指摘は興味深い。(小説・散文における)文体というのはそれらの二分法的な区分では捉えられないというわけである。そして、散文であるパターン・ランゲージの文章もまた、「形式」と「内容」は不可分だということになる。

それでは改めて、小説を書くということは、どういうことなのだろうか。

小説とは小説家の中にあるイメージというか何か言葉にならないものを、人物の動きや情景や出来事の連鎖によって読者の中に作り出そうとする表現行為のことだ。だから小説は言葉によって書かれているものではあるけれど、音楽や絵画と同じように、言葉によっては再現することができない。(p.66)

小説は、音楽や絵画と異なり、言葉で表現されるので、まるで「言葉にならない何か」を言葉で記述できたかのように思えてしまう。しかし、それは誤解であって、音楽や絵画と同じように、そこに文字として書かれていることが、表現したかったそのものではない。その文字を追うことで立ち現れてくる世界こそが、小説によって表現したいことなのだ。だから、現前性ということが問題になるのである。

文章は事実を書けばそれが事実としてそのまま読者に伝わるようなものではない。(p.303)

書かれた文字を逐一追っていく読者の行為にとって、書かれていることが読みながら生起するように書かなければならない・・・そうしなければ読者はそれを経験せず、ただ事後報告として読むだけだ。(p.303)

同様のことが、パターンの文章を仕上げるときにも言える、と僕は思う。パターンには、よりよい方向に進むための秘訣のようなものが言葉で表現される。しかし、そこに書いてある言葉そのものを共有したいというよりは、その記述が生むより感覚的なものを共有したいために文章にしている。

いま引用した部分の書き方を踏襲するならば、「事後報告としてのパターン」は、読んでいて、過去にあったことを文字として読んでいるに過ぎない。しかし、パターンを読んだときに自分のことであると感じさせたり、今もしくはこれから起きると感じさせる(思わせるのというよりも感じさせる)ことができるかどうかが、パターンの文章の命である。この違いを意識しているか、それを書き分けることができるのかが、パターンを仕上げたときのクオリティに大きく違いを生む。

だからこそ、パターン・ランゲージを読むということは、ある面では小説や哲学を読むということに近いのである。

哲学とは結論を読むものではなくて思考のプロセスを読むものだ。結論というのはプロセスそのものの中にあるとしか言えない。小説になるともっとプロセスしかない。音楽を聞くときに「結論は何か?」と考えないのと同じようなものだとでも言えばいいだろうか。音楽でも絵でもそれをいいと思っている人は言葉を必要としていない。音楽や絵の前で言葉を必要とする人はそれをどう受容していいかわからない人たちだ。(p.61)

音楽を聴くときに「結論は何か?」を考えない、というたとえは実にわかりやすい。パターン・ランゲージもそれを「感じる」ときには、小説や哲学を読み、音楽を聴くようなことに近い。そうやって読むことで、パターン・ランゲージが生成しようとする世界を感じて味わうことができる。(パターン・ランゲージは、その上で、後から個々のパターンを実践に活かすことができるような形態でまとめられている。)

それぞれの小説は、世界を立ち上げるという意味で、ひとつのまとまりをもった(閉じている)ものであるが、他方で、現実世界に対して「開かれている」。

小説は現実の世界に対して閉じてはいけない。それは考えることを放棄して【ただ作品を書く】ことでしかない。世界がどういうものであるかを考えるための方法や道具を作り出すのが小説で、世界とは自分の働きかけに応えてくれないものであるという前提で生き、それでも世界に働きつづけるにはどうしたらいいのかを考えるために小説がある、というのが私の小説観だ。(p.40)

フィクションのリアリティとは、現実でそれが説明されることでなく、それが現実を説明する原型になることだ。
現実の中にそれを置いてみて、どんなに荒唐無稽に見えることであっても、フィクションの中で読者の気持ちを掻き立てられればそれは何らかのリアリティを持っているはずで、そのリアリティが現実をそれまでと違った風に見えるようにする。(p.481)

つまり、小説は現実世界とは関係のない架空の世界の話として終わるわけではなく、それが現実世界の見方をも変容させていく。小説家が小説を書きながら自分自身が変わっていくように、読者もまた、小説を読みながら変わっていくのである。

文学というのはどれだけ絶望的な状況を書いても、この世界を肯定しようとしていなければならない、というのが私の文学観だ。息苦しい状況をひたすら息苦しく書いたり、悲惨なことをただ悲惨に書いたりするのは、文学を文学たらしめる何かが欠けている。私は「世界はいいものだ」「人間は素晴らしい」と書かなければいけないと言っているのではない。・・・『音の静寂 静寂の音』で高橋悠治が書いている、
「人間であることのくるしみをくるしみとしながらも
くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽」
という意味で、世界を肯定しようとする強い意志がなければならない。小説―――広く芸術一般――ーを世界に向かって開くことができるのは、この意志なのだと思う。(p.317)

世界を肯定する。その気持ち、よくわかる。パターン・ランゲージは現在よりもよりよい状況を生もうとして書かれる。しかし、それは世界の否定ではない。世界を肯定しているからこそ、パターン・ランゲージを書き、よりよい状況になると信じているのである。もし世界を肯定しようという意志がないのであれば、パターン・ランゲージなど書くこともなく、絶望に打ちひがれたり、やけになって破滅的な行動をとるかもしれない。パターン・ランゲージをつくるというのは、世界を肯定しようという意志の表れなのである。
Creative Reading [創造的読書] | - | -

Creative Reading:『小説の自由』(保坂 和志)

年末年始に保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作、『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』を読んだ。とても面白かった。

もちろんそのままの内容も面白いのだが、僕の場合は「パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている」ということを、なんとか言葉にしたいと思いながら読んでいたので、その意味での面白さもある。絶えず小説の話をパターン・ランゲージのこととして読み替えながら読んだのだ。

重要な箇所がたくさんありすぎてすべては取り上げられないが、そのなかでも、パターン・ランゲージをつくるということを考えるときに、とても重要だと思う部分を引用しながら考えていきたい(保坂さんも、これらの三部作では、とにかくたくさん文献を引用しまくり、そこで考えることをどんどん展開していくという書き方をしているので、その本をさらに引用しながら僕の考えを進めることも、ある意味正当化されるだろう)。

まず、今回は『小説の自由』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2010)から始めたい。

Hosaka1.jpg『小説の自由』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2010)


この本では(そして三部作全体でも)、小説とは何なのかということが問われている。

小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ。作者の意見・思想・感慨の類いはどうなるのかといえば、その運動の中にある。(p.73-74)

言葉遣いやセンテンスの長短やテンポは、いったん書き上げた段階でいくらでも直すことができるけれど、文章に込められた要素 ――― つまり情景に込められた要素 ――― はそういうわけにはいかない。小説にはいったん書き上げたあとに修正可能な要素と不可能な要素があり、修正不可能な要素が小説世界を作る、というか作者の意図をこえて小説を【どこかに連れていく】。それが小説における表現=現前性で、文字とは抽象化されたものなのだから、見た目の印象は小説にとっての現前性ではなく、韻文にあるような響きも小説にとっての現前性ではなく、文字によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて現前性が起こる。(p.88)


それゆえ、

小説は読んでいる時間の中にしかない。(p.89)

のである。しかも、作者も読者と同じように、初めて文字になったものを読むことでその現前性に触れることになるという。

あたり前のことを言うようだが、文章というのは実際に文字で書いた状態を目で読まないかぎり感触が確かめられない。それは書いた一行一行から来る現前性の問題で、直前に書いた文を読むとき作者は読者と同じく、はじめてその文を読む。文がまだ頭の中にしかないときには、そこにある要素の現前性の感触を作者自身得られていない。(p.287)

だからこそ、自分で書いた論文やパターンを、何度も読み直して、そこに確かな手応えがあるかどうかを何度も確認しなければならないのである。他の人の書いた論文を何度も赤入れするとき、よく感じる疑問は、その書き手が本当にそれを「読み直して」いるだろうか、ということだ。

こういうと、「もちろん何度も読み直していますよ」と答えるだろうが、ここで問うているのは、本当の意味で「読み直している」のかということである。ただ文字面を目で追い、なでるように見ているだけで、そこで気にしているのは文章が表現として成り立っているか、頭のなかで考えていたことと一致しているか、ということではないか。「読み直す」ということは、それでは足りないのである。

小説とは書き手と文字として書かれたものとの休みないかけひきの産物なのだ。(p.152)

書かれた文章は書き手のイメージの写しではない。(p.153)

書かれた文章は書き手のイメージの写しではなくて、書き手は半分は書かれた文章からその先を書くヒントを得る。という意味での「かけひき」だ。(p.154)

自分が書いたものは、自分の頭のなかにそこに書かれたことに対応する内容がすでにある。ところが、読者のように「読み直す」ということは、その頭にある内容を知らない振りをして、初めて読む人になりきって文章を読むということである。そして、その内容を飲み込み、理解し、味わうということを実際に行うことである。これは、単に文字面を表現のレベルでなでているのとは違う。その文章に初めて出会い、初めて読み、初めて理解するということなのである。自分で書いた文章であるにもかかわらず!

小説とは、絵画や彫刻や音楽や映画や演劇やダンスや詩や……それらと同じく芸術なのだから、運動が不可欠な要素としてある。ただ、詩も含めてここに列挙したすべてと小説が違っているのは、小説の運動が、字面という視覚的なものや言葉の響きという聴覚的なものなど、感覚的身体的な、即物的な次元を頼りと刷ることができず、すべての文字が頭の中で処理されるその過程で生まれるということだ。(p.319-320)

小説家が頭のなかにイメージをもっていて、そしてそれに対応するものを書いたとしても、言葉は言葉の運動性があるので、単なるイメージのコピーにはならない。そのイメージと無関係であるとは言わないが、文章の側には文章の側の流れや質感が生じる。そうなると、作者は、書いたあとに、それを読み直すことで初めてその文章から立ち上がる情景や世界を感じられるのである。そして、読み直したときに初めて、その言葉たちに世界を立ち上げる力があるのか、質を感じさせる力があるのかが実感されるのである。

小説を書くことは、自分がいま書いている小説を注意深く読むことなのだ。小説家はどんな読者よりも注意深く、自分がいま書いている小説を読んでいる。(p.191)

しかも、「読み直す」ということは、実際にすでに書いた部分の文章を読んでいるだけでなく、その内容・展開を何度も「読む」。

小説家には、自分がいま書いている小説のことだけが頭にある。だから仮に小説家Aが一日二時間しか机に向かわないとしても、小説家Bが二日に一度しか机に向かわないとしても、小説家は小説を書いているかぎり、いま書いている小説のことを考え続けている。机から離れていても最近何日間かで書いた分 ――― だいたい二〇〜三〇枚だろうか ――― の情景や会話が頭の中にあって、それゆえ小説家は自分が書いた原稿を【繰り返し読んでいる】。(p.192)

何度もその世界がリピートされる。絶えずその世界を何度も何度も頭のなかで「読み直す」。これは、パターン・ランゲージを編み上げているときに、僕が必ずやっていることでもある。

私が小説家であることを知ると、純朴な人たちは「自分が考えていることを人に伝わるように書くって難しいですよね」と言うのだけれど、自分が考えていることがすでに形となっているのなら書くことはたいして難しくない。そうではなくて、「自分が考えようとしていることが、どういうことなのか自分自身でもよくわかっていない」ことを書くから、書くことは難しい。(p.358)

パターン・ランゲージをつくるのが大変なのも同じ理由だ。個々のパターンが何を言うべきかが、よくわかっていないからこそ、それを書くことで理解しようとしている。そして、パターン・ランゲージ全体で何を表そうとしているのかも、つくっている段階ではよくわからない。よくわからないからこそ、何度も読み直し、何度も書き直すなかで、それをつかもうと努力するのである。

「書く」というのは「文字を使って書く」ことだ。文字というのは人間の外にあって人間と別の原理によって動く体系であって、火を使ったり、道具を製作して使ったり、楽器を演奏したり、動物を飼育したり、植物を育てたり、数学を使ったり、三段論法などの論理的思考法を持ったり、家を建てたり、船で海に乗り出したり、車輪を持ったり、水車という動力を使うようになったり、蒸気機関を発明したり、電話を発明したり、パソコンを使うようになったりするのと同じように、人間と別の原理によって動くものによって人間もまた動かされることで、それらひとつひとつを自分のものとするたびに人間はそれ以前の人間とは別の思考の仕方や世界との別の関わり方をするようになった。(p.359)

この「人間と別の原理で動く」ということが大切だ。

考えることは文字なしで頭の中だけでもできる。しかし頭の中だけでは論旨をゆっくりと進めることしかできない。頭の中だけの考える作業としてたぶん最も向いているのは、要素を記憶しておいて、それらが思わぬ結合をして、大転換でも小さな転換でもいいが、とにかく“転換”をともなったインスピレーションが生まれるのを待つことだ。
それに対して書くことは転換はあまり期待できないが、論を短時間に進めることができる。頭の中で訪れるインスピレーションが、「頭の中」といいつつ、風が窓を叩く音など、案外、ちょっとした外からの刺激が必要なのに対して、書いて考えるときには外からの刺激なしに進めていくことができる。断片だった考えや、書かなければ頭をよぎっただけでそれが熟すのはまだしばらく先になったようなことが、書くことで集められ、留め置かれて、それらが先に進められる。(p.362)

保坂さんのかっこいい表現でいうならば、「書くことは前に進むこと」(p.375)なのである。

文字を使って確認するように書いていくことで、自然と先が用意されたり、確認のつもりで書いていることが・・・すでに先のこと、一種の答えのようなものだったりする。書くというのはそういうことだ。あたり前のように感じる人が多いかもしれないが、これは書くことの大変な特性で、小説と哲学はこの特性によって小説が小説たりえ、哲学が哲学たりえることになる。小説も哲学も、数学の計算のように最後の答えだけが問題なわけではなくて、答えようとする道筋、もっと言ってしまえば、世界に対する不可解さを問いの形にまでするところにしかその仕事はない。不可解さが、整った問いの形をとることができたとしたら、たぶんもうあんまり答える必要はないのだ。(p.362-263)

このことをパターン・ランゲージで考えるとどうなるだろうか。パターン・ランゲージの目的は、そのパターン・ランゲージで記述されているデザイン・実践をすることによって実現できる「質」(名づけ得ぬ質)を生み出すことである。個々のパターンは、そのための手段に過ぎない。なので、パターン・ランゲージを状況における問題に陥らないための解決策(秘訣・ヒント)を単に共有・示唆するためのものだと思っていては、大切なことを見落としているということになる。パターン・ランゲージ(全体)が目指していることは、それらのパターンで示されている解決策たちを実践することによって生成される「質」を実現することである。

そう考えると、個々のパターンの記述を読むということは、その質へと至る道を進んでいくようなものである。つまり、個々のパターンを理解しながら、理想的な状態の質を感じることが重要であるといえる。その意味で、小説同様に、パターン・ランゲージも「答え」を得るために読むのではなく、そのプロセスこそが大切だと言えるのかもしれない。

小説は、・・・その小説の中で特異な思考の組み立ての手順が実現されることであって、それによって、その小説が書かれる前には読者が考えていなかった問いやこの世界に対する不可解さが浮かび上がってくる。それらは【小説を通じて】実現されるのであって、【小説の外から】持ち込んでくるのではない。(p.393)

ある小説が、その小説が書かれる前から社会の中でじゅうぶんに認知されている問題を、社会と同じ視点から書いても、問題の質的転換は起こらず、すでに用意されている問題が強化されたり、固定されたりするだけだ。(p.393)

僕がパターン・ランゲージをつくるときにも同じようなことを考える。僕らがつくった学びのパターン・ランゲージ「ラーニング・パターン」は、つくることによる学びである「Creative Learning」という視点を生んだし、プレゼンテーション・パターンは、「プレゼンテーションは伝達ではなく創造である」という「Creative Presentation」という捉え方を生んだ。認知症のパターン・ランゲージは、認知症になった後の生活を「新しい旅」だと捉えよう、という視点を生み出した。

これらは、始めからそう考えてつくっていったわけではなく、パターンを書き、パターン・ランゲージを編み上げていく段階で見えてきたものである。つくるなかで生まれたのである。こういう質的転換が起きたパターン・ランゲージは、やはり、僕からするとよいパターン・ランゲージであると感じる。

小説が外から持ち込むのは、意味や問いではなくて、風景や音や人物の口調や動作の方法だ。(p.394)

まさに、個々のパターンにおける解決やアクションは、インタビューや自分たちの経験から得たものたちで、いわば「外から」持ち込まれる。しかし、それらのパターンが集まって、パターン・ランゲージ全体としてどのような質を生むのか、ということは、外から持ち込まれるのではない(強引に持ち込むことができないわけではないが、それをやると全体の”生命”を殺してしまい、記号にはなっても質にはならない)。

小説、音楽、絵画、彫刻、写真、芝居、映画……これらすべての表現形態は、手段として、文字とか音とか色とか線とか具体的なものしか使えないのだけれど、それを作る側にも受けとめる側にも具体性をこえたものが開かれ、それが開かれなければ何も生まれない。
その抽象性だけを強調してしまうと、安易な宗教性に陥ってしまうだろうし、作る側は作品にただ“念をこめる”わけでは全然なくて、具体的な作業をつづけてひたすら具体的な物を作るわけだけれど、その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている。(p.232)

この「その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている」というのは、実にかっこいい表現であるが、単に表現がかっこいいだけでなく、本質を捉えている。パターン・ランゲージの内容をただ理解するだけというのは残念なことであって、それが生成する質に向かっていく力を込めることが重要なのである。では、それはどのように「力」を生むのだろうか。

「文体」について書かれている以下の部分が、関係するかもしれない。

小説における文体とは、センテンスの長-短、言葉づかいの硬-軟など、物理的に簡単に測定できるようなもののことではない。(p.334)

散文は韻文とは違うのだ。

韻文は、言葉のリズムであったり響きであったり、言葉の音楽的=物質的な要素を基盤にしていて、意味は音楽性のあとからくるか、音楽性と同時に音楽性に乗って生まれてくるのだが、散文は音楽的要素を基盤としない。(p.334)

それでは散文では何が文体=語り口になるのだろうか。

小説と哲学書は散文で書かれているといってもやっぱりある密度を持っている。その密度によって、読み進めるうちに作品固有のテンポを読者が共有するようになって、読みはじめの段階よりも著者が書いていることの輪郭がはっきりして理解が容易になったり、昂揚したりするわけだけれど、散文における“固有のテンポ”とは音楽性でなく、”思考の癖”とか、”思考を組み立てていく手順のパターン”のようなもののことだ。(p.335)

このことは、実によくわかる。例えば、ルーマンにはルーマンらしい”思考を組み立てていく手順のパターン”があり、アレグザンダーならアレグアンダーらしい”思考を組み立てていく手順のパターン”がある。そしてそれが文章に表れている。彼らに影響を受けて、彼らのような「文体」で論考を書こうと思っても、言葉づかいなどを真似るだけでは、似たようなものにはならないだろう。そうではなく、文章の表現に裏で関係している”思考を組み立てていく手順のパターン”を真似なければならないのである。

このように、表面的な表現ではなく、その表現を生む(生成する)背後にある「パターン」を抽出し、そこを真似できるようにする。これがパターン・ランゲージで目指していることである。単に、結果としての表現を真似するためのものではない。人間行為のパターン・ランゲージ(パターン・ランゲージ3.0)では、ここでいう「表現」というのは「行為」(action)と置き換えられる。つまり、パターン・ランゲージ3.0は、結果としての行為を真似するためのものではなく、その行為を生む(生成する)背後にある「パターン」を抽出し、そこのレベルから参考にできるようにすることが目指されているのだ。

全体を読み終わってから書くのが筋だと思われるかもしれないが、読み終わると遠のいてしまう高揚感が小説にはある。
小説でも哲学書でも、それを楽しんだり理解したりするために、読んでいるあいだにいろいろなことを自然と思い出したり強引に思い出したりしているもので、読み終わるとそれの何分の一かしか残っていない。(p.109)

こういうことがパターン・ランゲージを読むときにもある。ただし、小説と違うのは、パターン・ランゲージにはパターン名というインデックスが残る。読んだときに一度通過した部分部分を、パターン名というインデックスで思い出すことができる。パターン名の重要性は、この点にあるといえる。

パターン・ランゲージ全体のなかに個々のパターンがある。そして、それに名前がついている。これは決して、逆ではない。つまり、バラバラのパターンが集まってパターン・ランゲージになるのではない。それではバラバラなものが寄せ集められたにすぎないのであって、全体性を生むことはない。パターン・ランゲージ全体が、パターンをもつのである。この点はとても重要である。

パターン・ランゲージをつくっているとき、個々のパターンを書いていた段階から、あるとき、視点を変えて、(未だ見ぬ)パターン・ランゲージ全体からの視点に切り替えて、それに合うように個々のパターンを書き換えたり並べ替えたりするときが来る。これが僕が仕上げるとき「魔法がかかる」といわれる作業で起きている視点の変化である。部分を見ていた段階から、全体をみて、それに合うように部分を用意する、という視点の切り替えである。これができないと、パターンはバラバラのままで編み上げたようにはならず、寄せ集めにしかならないのである。

この本でも、「小説は部分の集積ではない」という節で、この点について述べられている。

小説というものを部分の集積だと考えている人がいるけれど、小説は部分の集積ではなくて何よりもまず全体として小説家に与えられる。もっと実感に即していうと、“全体”でなく、“全体の予感”とか“全体の気配”とかそういう、おぼつかなくておぼろげな感じなのだが、それでもやっぱり全体であって、絶対に部分ではない。これはもちろん、音楽、絵画、彫刻、映画……すべての表現にあてはまること…(p.237)

小説家本人としてもよくわかっていない何かが浮かんできて、それは小説家本人もまったく全体像をつかめてはいないのだけど、それはなんだか動かしがたいものであって、人物も物語も時代も場所も選択の余地があるものではない。構想の段階でも書きはじめてからでも、小説家は人物、物語、時代、場所……等をいろいろいじって書き直すわけだけれど、それは作り手の自由裁量として、「より面白くする」ためにいじったり置き換えたりしているのではなくて、「それしかない」と感じられるものが見えていないから、いじらざるをえないということなのだ。実際の作業としては、一行一行文字を埋めていくことだから、部分の「積み上げ」をしているように見えてしまいがちだけれど、“全体”がさきにあったうえでの”部分”であって、それは、積み上げられたり足し算されたりしていく“部分”とは全然違う。(p.237)

まさにこのあたりが、パターン・ランゲージを編み上げることが、小説を書くことに似ているという部分である。ここで、「パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている」ということは、パターン・ランゲージが小説と同じであることを主張しているのではない。しかも、パターン・ランゲージをつくる全行程が、小説を書く全行程と同じであると言っているのでもない。そうではなく、パターン・ランゲージをつくる全行程のなかの「編み上げる」ことで仕上げる部分が、小説を書くことに似ていると言っているのだ。

僕がパターン・ランゲージ編み上げるときの感覚は、小説家が小説を書くときに、「こうしてやろう」という作為ではなく、小説世界のなかで自然に流れるように動くのをイメージして、それを書いてく感覚に近い。

たとえば小説と小説家の関係は、羊の群れと牧羊犬のようなものだ。何十頭かの羊たちが気ままに草を食べながら移動しているその群れを、評論家は能力が高い牧羊犬がきちんと誘導しているように読むのだが、小説家自身は出来の悪い牧羊犬でいたいと思っている。(p.190)

小説家の能力を優秀な牧羊犬のように群れを制御する能力と思っているかぎり、小説の外枠しかわからない。羊の群れを制御=抑制する能力で小説が書けるのなら、小説家は一日一〇枚、一年で三〇〇〇枚は書ける。羊の群れの気ままな移動に身を任せようとするからこそ、小説家は一年で一〇〇〇枚が書けない。(p.193)

小説家が小説を書くときに確かなものがあるとしたらそれは何を指すのか。それは、事前の構想にしたがって羊の群れを制御=抑制することではなくて、羊の群れの気ままな動きに身を任せることなのだ。それは【一見】最も不確かなやり方に思われるが、小説家と小説の関係ではそれが最も確かなやり方となる。(p.207)

これと同じことは、村上春樹やスティーヴン・キング、宮崎駿など、多くの作家が同様のことを言っている。自分の作為で物語が進むのではなく、物語が自ら展開しようとする、それを私は追っているだけだ、と。はたしてそれは、どういうことなのだろうか。本書は、そのあたりについて重要な指摘がなされている、本書のタイトルにもなっている「小説の自由」、つまり、小説を書くときにおける「自由」とはどういうことか、という話である。

羊の群れに任せて書いて、うまくいかないと思ったら破り捨てて書き直せばいいのだ。小説は人前でするコンサートではないのだから、何度でも書き直してうまくいったテイクだけを残していけばいい。
ここで「うまくいく」というのは、登場人物たちがそれぞれの個性をじゅうぶんに発揮することであり、その情景にある風景や物などの要素が小説の流れを事前の青写真をこえて引っぱっていくことだ。小説がうまくいかないのは、登場人物たちが勝手なことをやったり言ったりするからではなく、お行儀よく作者の青写真の範囲内で振る舞ってしまうからだ。
作者に必要なことは登場人物たちが勝手に振る舞える場を与えることなのだ。それは大変なことだからしょっちゅう失敗する。しかし失敗したら書き直せばいい。小説を書くことは工場労働と違うのだから、時間も労力もいくら無駄にしても誰からも文句は言われない。(p.209)

登場人物たちに思いっきり勝手なことをさせると言っても、一番大まかな輪郭なり流れなり ――― これはそれぞれの小説家に固有のイメージのような体感のような何とも言葉にしがたいものなのだが ――― 小説の全体を決めている何かがあって、それが非常に緩やかなレベルで、人物や出来事や風景という書かれるすべてを統制しているから、本当の本当に収拾がつかない滅茶苦茶バラバラにはならないものなのだ。(p.211)

「勝手」という言葉にはすでに悪い響きがこめられてしまっているが・・・「勝手なこと」をしていいとなると、人間は悪いこと、ろくでもないことをすると決まっているのだろうか。小学校で「勝手にしていいよ」と言ったら、その途端にワーッと大騒ぎになるだろう。けれど、その状態は一時間かせいぜい二時間しかつづかないだろう。そこにファーブルがいたら、彼は騒ぎから抜け出して校庭の隅で虫を見ているだろう。本が好きな子は本を読み出し。ほとんどの男の子はきっとサッカーか野球をはじめるだろう。(p.212)

だから「小説の中で登場人物たちに思いっきり勝手なことをさせる」というのは、小学校の教室で子どもたちがワーッと大騒ぎすることではなく、その次にくるファーブルが虫の観察に没頭している状態のことなのだから、きっと小説は【何か】に向かって進むだろう。その【何か】とは作品ごとに個別にあらわれるもののことだから、いまここで具体的にこういうものだと言うことはできない。その【何か】は作品を書きはじめる前に作者として考えていることをこえる広がりを持っている。(p.213)

また、このことを、保坂さんは本書の別のところで、次のように端的にまとめている。

小説の中で登場人物たちに「勝手なこと」をやらせたり言わせたりすることを私は“悪”を為さしめることだと思っていない。それはサッカー選手がフィールドで【自由に】動き回るというときの「自由」と同じ意味だと思っている。「自由」とは最大に力を発揮することだ。それは無秩序な動きでは実現しない。(p.248)

登場人物は、それぞれ、自分のパターンに従って、自由に行為する。

作者は、何かの行為を登場人物に「させる」のではなく、登場人物自体が自ずからそう行為する。

自由であるから、そう行為することが可能なのだ。

これが「小説(を書くとき)の自由」なのである。


『小説の自由』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2010)
Creative Reading [創造的読書] | - | -
CATEGORIES
NEW ENTRIES
RECOMMEND
ARCHIVES
PROFILE
OTHER