井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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瞑想とオープンダイアローグ:ティク・ナット・ハン『ブッダ「愛」の瞑想』を読んで

ティク・ナット・ハン師の『ブッダ「愛」の瞑想』を読んだ。瞑想についての理解が深まるだけでなく、そこに書いてあることは、オープンダイアローグに通じる話であった。

僕はこれまでも、オープンダイアローグの状況においては、対話のなかでマインドフルネスの状態が起きているだろうと感じていたが、ティク・ナット・ハン師のこの本のなかで、まさにそれに関係する記述を見つけた。やはり通じていると思う。

サンスクリット語で「サムヨジャーナ」というう「苦しみのかたまり」についての箇所で、次のように語っている。

「『サムヨジャーナ』とは、わたしたちの心の中にあう『苦しみのかたまり』のことであり、『心のしこり』とも訳されます。」(p.60)

「わたしたちの日々の言動の中には、愛する人の中にしこりを残すようなものもあるかもしれません。そのままにしておくと、その苦しみや痛みのかたまりは大きくなっていくことがあります。すると、あなたの愛する人はいつ爆発してもおかしくない、爆弾のような存在に変わってしまいます。たったひと言二言が引き金となって怒りを爆発させるので、そのうちそばに近寄ることも話しかけることもこわくなってしまいます。実はその人は苦しみでいっぱいだから、爆発してしまうだけなのですが---。」(p.60)

「ふだんの生活の中で深く聴くことは、瞑想そのものです、気づきの呼吸を実践し、自分の中に平和で安定した生きた慈悲を持ちつづけたいと本気で願うなら、深く聴けるようになります。」(p.61)

「人の苦しみは、誰かに本当に話を聴いてもらうまで終わりません。あなたが愛する人にとって、それができるのはあなたです。あなたこそ、その『だれか』なのです。」(p.61)


オープンダイアローグでは、本人の《体験している世界》について理解を深めようと、本人の話を《じっくりと聴く》。そこに本人にとって大切な家族もいる。また、家族のそれぞれが《体験している世界》についても、それぞれの話を《じっくりと聴く》。こうして、傾聴し合う場がもたれる。そうすると、ハン師の言う「苦しみのかたまり」「心のしこり」がほぐれていく。その結果、最終的には、問題が解消してしまう(精神病の場合には症状が出なくなる)。

オープンダイアローグにおける対話においては、互いに瞑想的な状態になり、相手の存在に「気づき」(マインドフルネス)、心の奥底に沈み込んだ「苦しみのかたまり」「心のしこり」がほぐれていく。

恐れについて語っている別の箇所では、このような記述もある。

「わたしたちの意識の奥底にはあらゆる恐れの種が埋もれている」(p.94)

「けれども、わたしたちは恐れに浮かび上がってきてほしくありません。つらいからです。そこで抑圧します。苦しみを奥底に押しやり、ネガティブなエネルギーが「居間」にす姿を現すことが決してないように、ほかのエネルギーを招き入れて部屋をいっぱいにしようとします。テレビをつけあtり、小説を読んだり、電話をかけたりして。これでは自滅作戦を遂行しているようなものです。自分の中にあるネガティブな種を見て見ぬ振りし、拒否しつづけるなら、やがて悪循環が始まります。」(p.94)

「むりやり抑えつけるやり方を取っているかぎり、恐れや怒り、絶望、苦しみといった『心の形成物(思い)』はくり返しわいてきます。意識の中がちゃんと循環していないと、鬱やストレスなど、心の病的な症状が現れてきます。」(p.95)


そこで、瞑想によって、その苦しみに向き合い、ほぐしていくということが推奨されるわけである。一人では、なかなか難しいので、瞑想の仲間である「サンガ」とともに。このとき、フィンランドのセイックラさんたちなら、「(オープンダイアローグの)ミーティングをしよう」となるのだろう。

これまでセラピーでは、つらいことそのものを語ると強化されてしまうので、なるべくその話題には触れないようにしてきたという。これに対してオープンダイアローグでは、みんなで一緒にその苦しみに向き合っていく。瞑想が一人の心的システムと身体とのカップリングで行うとすると、オープダイアローグは、それに対話というコミュニケーション・システムがカップリングするのである。オープン・ダイアローグがなぜ効くのか、ということは、この瞑想の話と結びつけて理解していくと、最も大切な対話の本質部分の理解がしやすくなるかもしれない。

この本は、薄い本であるが、「呼吸の瞑想」というものがどういうものかということが、非常にわかりやすく書かれていて、上記のような興味・関心が重なる人が、マインドフルネスに関して最初に読む本としておすすめできるのではないかと思う。

坐って行う瞑想だけでなく、日常生活のなかの歩くときの瞑想や水を飲みながらの瞑想など、いま・ここの自分に本当の意味で「気づく」(マインドフルネス)ということの意味がとてもわかりやすい。それに関連して、おっと思う箇所がったので、最後に引用しよう。

「水を飲みながら、『今、自分が水を飲んでいる』という事実に気づいているなら、そこには『気づき』があります。英語では「マインドフルネス」といいます。マインドフルネスは、仏教でいう「念」のこと。漢字を見ると明らかなように『今』に「心」がある状態です。息を吸いながら、自分が息を吸っていることに気づいているなら、そこにはマインドフルネスがあります。マインドフルネスとは常に、『何かへの気づき』なのです。」(p.85)


ここは、読んでいて「おおーっ!」となった。「いま・ここに生きる自分に気づく」ということがマインドフルネスであり、それを漢字で書くとき「念」という字が出てくるのであるが、そこで少し離れた感じがいつもしていなのだが、確かに「今」と「心」から成り立つ字であった。なるほど〜、面白い。


『ブッダ「愛」の瞑想』(ティク・ナット・ハン, 角川学芸出版, 2014)

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