井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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Creative Reading:『絵本作家のアトリエ 3』(福音館書店母の友編集部)

『絵本作家のアトリエ 3』は、絵本作家のアトリエを訪れ、その作家の辿ってきた道やこだわりについて聞き、それをアトリエの写真とともに紹介している本だ。

どの方の話も、それぞれ世界への好奇心と絵への思いにあふれていて面白かった。もの静かに絵本を書いている人もいれば、豪快な人もいた。

豪快といえば、五味太郎さんの話は特に面白かった。つくった絵本は400冊を超えるって、すごい。

五味さんは、そこに「おれがいる」という感覚、それこそが「絵本の仕事を続けている原動力」だという。そして、つくるプロセスについて、次のように語る。

よく、アイデアはどこから来るんですかって聞かれるけど、そんなもの、どこからも来ない。まず描いてみて、なんでこんなものを描くのだろう、と考える。その疑問をつなげていって、あ、ここにおれがいるな、と感じれば本になるし、なければやめちゃうだけ。


そして、何かから「影響を受ける」ときの共鳴について、ほんとその通りだ!と思うことを言葉にしれくれていた。

… 『影響』ってよく言うよね。『あなたの作風に影響を与えたのは?』『だれそれです。』みたいさ。でも、もともとその作品を受け止める資質がこっち側にもあったから、いいと思えるわけじゃない? 本でも絵本でも、自分の中に相手と同じ感覚がもともと準備されていたから、共感できると思うんだ。逆に言えば、その準備ができていない段階で出合っても、良さはわからない。


僕が「書こう」とするときに、本を読みまくるのもそういうことだ。本から何らかのネタを得ようとしているわけではない。そういうセコい話ではない。本に共鳴する自分のなかの思い・考えを探るために読む。自分が言葉にできずにいたことに似たようなことを考えている人の言葉を刺激として、自分の思い・考えにかたちを与えていく。そういうことをするために読んでいる。だから、その文献の ”正確な” 読解ではないし、網羅的に理解しようともしていない。自分に共鳴しない部分はさっと目を通すだけで通りすぎる。書くための読書というのは、僕はそういうものだと思っている。

そういうわけで、書くための読書で、「うぉー!そうなんだよ!」とか「わ〜!この人もこう考えるんだ!」というのを見つけると、うれしくて楽しくて、つい筆が走ってしまう。それでよい。そのために読んでいるのだから。

で、五味さんの話に戻ると、上述の話のあと、こんな面白いことを言っている。

そんなふうに思っているから、美術館に行くと大変だよ。”気が合う”作品を見つけたら『今度お茶でもしませんか?』って絵の前で言っちゃうね。でもいいなと思っても、「この人とはつきあえない」っていう作品もある。音楽で言うなら、モーツァルトと俺の相性はいまいちだろうな


実に面白い。でもその気持ち、すごくわかる。

五味太郎の絵本は基本的には『おれはこういうのがいいと思うんだけど、お前ら、どう?』と言ってるだけなの。まったくぜいたくな話しだけど、ここ十五年くらいは、世界を相手に、おれと趣味が合うやつはどれくらいいるのかなって遊んでる感じだよ


すべての作品が、仕事が、そうであるべきかもしれないと思った。もしかしたら。

そこを、そういう気持ちもない人を説得したり、その気にさせたり、ということは、どこか歪んでいるのかもしれない。

いろんな考え方、いろんな表現があって、それらがたくさん織り合わさって世界ができている。そういう方が幸せな世界なのかもしれない。

だからこそ、次のような気持ちなのだろう。

絵本をずっと作ってきたけど、『幼い子どもに本を与えよう』なんてことには興味がない。本との出合いって個人個人の人生における事件だと思うんだ。その出合いはお見合いみたいなものじゃなくて、もっとドラマチックなものだと思うんだよ。

おれはね、単に、ガキのころの、あの自由な魂をもっとふくらましてやればいいと思ってるんだ。人間には生まれついての『生きていく能力』が内在していると思う。もう持っているのであって、後から与えられるものじゃない。でも、その力は成長する過程で薄れていく。だからその力を守るような、くじけそうなときに支えになるような、そういう本を準備しておいてやりたいなと思うんだよ。それが俺の野望。


与えるのではなく、準備して、手に取れるところにそっと置いておく。本を読んで取り入れるのではなく、自分のなかにあるけれども弱ってしまった力を共鳴させて強めることを支援する。

パターン・ランゲージの役割もそこにあると、僕は思っている。経験がまったくないものは、パターンを読んでも理解できない。頭で理解できても、自分のものにならない(しかし、その視点だけはもつことができるので、未経験のパターンを知ることは、別の効果があるのであるが)。

だからこそ、パターン・ランゲージを用いた対話ワークショップでは、僕は、「子どものころから今までのすべての経験を思い出してください。小学生のときの経験でも、高校の部活の経験でもよいのです。」ということを言っている。

みんな、本当はどこかでかなりのパターンを、多かれ少なかれ実践しているのだ。でも、「大学で行うことだから」とか「仕事だから」ということで、そういう経験は別ものだと決めつけて、切断してしまう。そうやって、自ら「初めてのこと」にしてしまって、わからないからできない気持ちになったり、○○メソッドみたいなやり方に自分を合わせたりする。

そうではなくて、自分がもともともっている小さな経験に意味を与え、それを、今/これからの力にして、実践へと促す。個々のパターンは忘れかけている弱くなってしまった経験を「注目に値するもの」として、それを増幅させ、自分への自信やこれからの実践の支えとなるように強くする。パターン・ランゲージにできることは、そういうことなのだと思う。

五味さんの他の話も、他の作家たちの話も、まだまだ面白い話がたくさんあったのだが、それを取り上げ始めると切りがないので、今回はここまで。読みやすい本なので、紅茶でも飲みながら、ゆったりとした気持ちで読んでみるとよいかもしれない。

PictureBook.jpg『絵本作家のアトリエ 3』(福音館書店 母の友 編集部, 福音館書店, 2014)
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Creative Reading:『遊ぶヴィゴツキー』(ロイス・ホルツマン)

先日、ロイス・ホルツマンの『遊ぶヴィゴツキー:生成の心理学へ』
(Vigotsky at Work and Play)を読んだ。異色のヴィゴツキー研究者でありアクティビストである著者が、通常着目されるのとは異なる仕方でヴィゴツキーに着目し、ソーシャルセラピーや即興的なパフォーマンスと絡めて論じている本である。

この本のスタンスというか方向性に、僕はかなり共鳴する。そして、そこで取り上げられるヴィゴツキーの引用やその解釈にしびれた。

例えば、本書で何度も取り上げられるヴィゴツキーの次の言葉。

探求の方法は、人間独自の心理活動の形態を研究するという企図にとって、最大限に重要な問題となる。この場合、方法論は、前提であると同時に産出物でもある。つまり研究の、道具であると同時に結果そのものなのだ(Vygotsky, 1978, p.65)


これを受けてホルツマンは、「私たちはヴィゴツキーの道具と結果の弁証法に強く触発された」と語り、次のように述べる。

私たちは自分たちのやり方で、ヴィゴツキーの方法論についての記述を解釈した。人間は道具を作り利用するだけではなく、新しい【種類】の道具 ――― 【道具と結果の道具】をも作り出すと考えた。そればかりでなく、人間の発達も道具と結果の方法論に従う。ヴィゴツキーは大人との言語ゲームとごっこ遊びによって、乳幼児が言葉の話し手となることを示した。この2つの活動においては、道具(プロセス)と結果(プロダクト)が同時に出現する。(p.ii)


実に興味深い指摘であり、そして、僕もとても共感する。

ヴィゴツキーによれば、人間科学としての心理学は、客観-主観の二元論にもとづくかぎり、発展は望めないのである。こうしてヴィゴツキーは、科学的探求の方法そのものを問うことになった(ここでいう方法は、個別の研究テクニックではなく、方法論的アプローチ全体を指している)。(p.12)

流通している科学では、方法とは適用され、結果を生み出す道具であるが、ヴィゴツキーはきわめてラディカルに、このような科学のパラダイムを捨て去るように提案した。流通科学では、方法と結果は一方向的であり、道具主義的で二元論であり、ニューマンと私は、これを【結果のための道具方法論】(tool for result methodology)と読んでいる(Newman & Holzman, 1993)。ヴィゴツキーは、質的に異なる方法概念を提唱した。これは適用される道具ではなく、道具も結果も同時に生み出す、持続的プロセスとしての活動(「探求」)である。道具と結果は、二元論的に分離されないが、しかし同じものでも一つのものでもない。むしろ、それらは、弁証法的な統合性/全体性/総体性の構成要素なのである。ヴィゴツキーが主張したのは、適用されるテクニックではなく、実践される方法論なのである。この概念の弁証法的関係性を捉えるために、ニューマンと私は、これを【道具と結果の方法論】(道具であると同時に結果 tool-and-result methodology)(Newman & Holzman, 1993)と呼んでいる。この新しい方法概念は、明らかに客観主義でも主観主義でもなく、二元論の囚われの外にある。そこにこの方法の可能性と力がある。(p.13-14)


こういう場合の「tool」は、日本語でいう「方法」と「道具」の両方の意味をもつから、「道具も結果も同時に生み出す」は、「方法も結果も同時に生み出す」と捉えてもよい。

僕の研究に引きつけて言うならば、パターン・ランゲージとは「方法」でもあり「結果」でもある、という話になる。パターン・ランゲージをつくるということ自体が、自分たちのなかを深く掘っていき学ぶ(組織学習も含む)ということであり、その結果、使用が可能になる言語が生まれる。どちらが大切なのかと聞かれれば、両方大切なのだ。それらは不可分であり、どちらか一方のために他があるわけではない。

メタにみても、井庭研で日頃やっていることは、個々のテーマのパターン・ランゲージをつくりながら、その「つくり方」もつくっている。すでに確定し固定されて「適用」するような作成方法があるわけではなく、そのたびごとに適した方法を生み出しながら、パターン・ランゲージの作成にとりくんでいる。その意味で、方法と結果の二重の「つくる」を同時にまわしているということになる。

つくられたパターン・ランゲージを使う、というときも同様のことが言える。パターン・ランゲージの使い方には、こうしなければならないという固定的な方法があるわけではない。パターン・ランゲージを使うときには、その使い方自体も考え、生み出しながら、使うことになる。つまり、「方法」(使い方)と「結果」(使って得られるもの)の両方を同時につくっていることになる。

このことは、パターン・ランゲージの応用がまだ始まったばかりだから、未開拓でよく研究されていないから、そういうことになっているのだ、と多くの人は思うかもしれない。しかし、「生成的な」(generative)なことを大切にするパターン・ランゲージは、このような「方法」と「結果」を同時につくるようなプロセスの方が、より適していると言える。

よりよいパターン・ランゲージをつくりたければ、どうつくるのかという方法も同時につくる。パターン・ランゲージを使うというときには、どう使えばよいのかという方法も同時につくる。このことが本質的に重要なのである(もちろん、広く一般に普及させるためには、道具主義的に容易に「使える」ことも大切なので、そのあたりのバランスは戦略的に考えて実践することになるとは思う)。

在ること(being)と成ること(becoming)については、本書にも登場する。ホルツマンは、ヴィゴツキーを、心理学で定番となっている見方とは異なる視点で捉えていて、それを次のように説明する。

私をヴィゴツキーの仕事を……心の理論ではなく、【成ることの理論】(theory of becoming)と理解している。彼の発達概念の構想に関するかぎり、それは全体における質的転換に関わっていた。それは存在の状態というよりも生成に関わるものであった。活動によって、心理学は「であるもの」の研究から「生成しつつあるもの」(「であるもの」をもたらす)の研究に移行する基礎が与えられる。人間発達の弁証法的概念(生成の活動)とそれを研究する方法論(道具と結果)を創造しようとするヴィゴツキーの企ては、人間発達の問題の枠組みを、それが本質的にもつパラドクスを引き受けるものへと変更した。すなわち、どのようにしてい、あるものがそれであると同時に、それでないものでもあるのかというパラドクスである。(p.25)

幼い子どもが母語話者になる様子をヴィゴツキーが記述しているが、ニューマンと私は、これを世界に関する知識獲得のための媒介手段をマスターするプロセス(すなわち手段としての道具の使用)とは見ない。発達のための環境と発達そのものを同時に(つまり道具も結果もともに)創造していると理解する。私たちは在ることと成ることの弁証法がどのようなものであるかを垣間みているのである。幼児が、自分たちが誰であるかと同時に、誰でないか(どのような人になろうとしているか)に、同時に関わるしかたを見ているのであり、これこそが発達のプロセスなのである。(p.26)


ここから、ヴィゴツキーの有名な「発達の最近接領域」(ZPD)の話につながっていく。

ヴィゴツキーの発達の最近接領域(米国では`zpd’と省略され、`zoped’と呼ぶところもある)は、現在のヴィゴツキー研究者のあいだでは、世界への働きかけを可能にする環境であるとされる。問題は、それがどのようにして【集合的に構成されるか】である。ヴィゴツキーは、学習が発達の後を応のではなく先導するような、学習と発達の弁証法的統合を強調するために、この概念を作った(Vygotsky, 1978, 1987)。(p.39)

… ヴィゴツキーは、学習と発達の社会性が集合的であることを強調している。… zpdにとって鍵となるのは、人びとと一緒に何かをすることなのである。(p.42)


このあたりから、他者との関係、とくに協働的な関わりが強調されることになる。

「ともに実践する集合形態」としてのzpdというアイディアは、ヴィゴツキーの概念の理論的重要性と実践可能性を大いに拡大した。学習が先導する発達は【集合的に創造される】とヴィゴツキーは述べているのだ。これはzpdを時空間的な実体というよりもプロセスとして、現実の領域や空間、距離というよりも活動として理解するとき、より有用になると示唆している。… 私にとってzpdは、道具と結果の弁証法的活動であり、ゾーン(環境)を作ることであると同時に、創造されるものでもある(学習が先導する発達)。(p.43)

zpdの集合的な創造は、人間生活の弁証法(「在ること」と「成ること」の弁証法)を示している。それは、人びととつながることが、やり方をまだ知らないことも可能にし、自分たちにできること以上のことが可能になるようにすることを意味する。(p.44)


これらは、ヴィゴツキーの幼児や障害児の例や、ニューマンやホルツマンのソーシャルセラピーの例でもみられるという。

どちらの場合も、普通の人びとは環境を作り上げる創造的な方法論を使って、自分自身との、仲間との(モノ的な、また心理的な)道具との、そして世界の事物との関係性を組織化し再組織化する。彼らは、【生成】を可能にする「領域」を構成するのだ。(p.44)


パターン・ランゲージをつくるということは、他の人とともに集合的に、自分たちの環境(生成を可能にする領域)をつくるということにほかならない。それは、人間の発達に関わる。各人がもっていた理想の状態(質)の断片をもちより、ひとつの(仮想の)理想の状態を構成し、それに向かって成長する。フューチャー・ランゲージの場合も同様に、自分たちのなかに断片的になった理想の未来を可視化し、それに向かってともに成長することが含意されている。

パターン・ランゲージをつくるということは、ヴィゴツキーのいう「遊び」の一種として捉えることができるだろう。ヴィゴツキーは子どもの発達を考えたので言葉遊びやごっこ遊びになるが、パターン・ランゲージをつくることは、大人にとっては、子どもの言葉遊びやごっこ遊びと同じような、一種の「遊び」と捉えることができる。ここでいう「遊び」は、仕事とは異なり、ある種の冗長性をもつ活動のことである。それには多少の難しさもともなうが、それらは克服され、楽しさも生み出す。あえて強調しておくが、ヴィゴツキーは「遊び」が発達・成長に本質的に重要だと言っているのであり、パターン・ランゲージをつくることが「遊び」であるということは、その意味においてである。

例えば、企業のなかで「顧客とのよい関係づくり」のパターン・ランゲージをつくったとすると、パターン・ランゲージをつくることそのものは、顧客との関係づくりそのものではないので、いわゆる「仕事」ではない。それとは違う活動である。パターン・ランゲージをつくるということは、社内における一種の「遊び」的活動であるとも言える。しかしながら、その場でしかない思考が生まれ、交流が生まれ、学びがあり、発達・成長へとつながる。これは必要な「遊び」であり、そういうものを(「暗黙知の共有」ということで説得的に)組織に持ち込めるのが、パターン・ランゲージである、ということができる。

ところで、本書で紹介されるグループセラピーの考察でとても興味深い部分があった。というのは、僕がふだん行っている創造的コラボレーションでも同じことが起きているからだ。パターン・ランゲージをつくるプロジェクトにおいても同じことが起きているのだ。

… 20分ほど過ぎると、会話の焦点は変化し、グループは、彼女の使うことばが何を意味するのかを探求し始めた(…)。そして、そのことを語ることがどういうことなのかを探求した(…)。彼らの語り合いの特定化された文脈のなかで特定の語やフレーズを探求することで、グループは「意味作り」を開始したのだ。真実がどうかを語ことを止めて、グループは一緒に話し合いをするという活動を探求し始めたのだ。ここで活動は、真実を発見することから意味の創造へと大きく変わった。集合的に真実を確認するというよりも、グループにとっての新しい意味の感覚を生み出すことに変化したのだった。(p.63)


パターン・ランゲージをつくっているとき、僕らは最初、自分たちの経験やインタビューで得た情報をもとにパターンを書いていく。でもあるときから(かなり後半)、単に事実を書くということを超えて、まさに「意味をつくる」感覚となる仕上げの段階がある。これは、井庭研メンバーが「先生が魔法をかけた」という時期に僕がやっていることだと思う。自分たちの経験やインタビューで出てきた、各人に帰属するバラバラのパターンを、ひとつの理想的な状態(質)を生み出す一連のパターン体系とするために、パターンの軸足を向こう側(理想的な状態=質が実現されたという想定上の世界)へと移し、それが成り立つように「意味をつくる」。最初から「意味をつくろう」としてしまっては、経験や語りの断片から大切なことを「聴く」ことができないが、最後までそれらの断片に寄り添っていると、体系を欠いたバラバラなものができてしまう。だから、あるときから、軸足を移して、「意味をつくる」ことに注力することが必要となる。

先ほどの言葉のあと、ホルツマンはさらに次のように締めくくっている。

この活動に携わることで、真実の発見がそもそも不可能であり、意味は集合的に創造されるものであり、自分たちが意味を創造する力をもつことを、深く理解するようになる。(p.63)


僕や井庭研メンバーが体験しているのは、まさにこのことで、「自分たちが意味を創造する力をもつこと」を実感しているのではないか。だから、あんなに(とても大変なのに)いきいきとしているのではないかと思う。

最後に、本書を通じて再認識した、二元論的思考を超えるということについて。

ヴィゴツキーは、いくつもの(二元論的)二分法を乗り越えようとした。生物学と文化、行動と意識、考えることと話すこと、学習と発達、個人と社会などの二分法である。彼はこの心理学のこの種の二元論的概念化を拒否し、それに強く対抗する議論を展開して、弁証法的方法論をとるように求めた。(p.4)


僕が惹かれる学者たちはみな、二元論を乗り越えようとしている。そういうことをみても、僕が二元論ではない道に関心があることは間違えない。でも、これだけ多くの学者たちが乗り越えようと試みたにも関わらず、世界がいまだに変わっていないのはいったいなぜなのだろう。まだ準備が不十分でこれから飛躍があるのだろうか。現実の根は深く変われないのであろうか。あるいは、そもそもそのような試み自体が意味のなことなのだろうか。疑問は尽きないが、少なくとも、僕は理論と実践を展開するなかで、少しでも前に進めたいと思っている。なんとかそれが実際に実を結ぶことをイメージしながら。僕が生きているうちに、変わった世界を見ることができるだろうか。できるといいな。

AsobuVygotsky.jpg『遊ぶヴィゴツキー:生成の心理学へ』(ロイス・ホルツマン, 新曜社, 2014)
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Creative Reading:『形の発見』(内田義彦)

内田義彦 著の『形の発見』を読んだ。もともとはずいぶん昔に出版された本だが、改訂新版が出たということで1年ほど前に書店に並んでいるのを見つけた。

この本のなかに収録されている 丸山眞男 × 木下順二 × 内田義彦の鼎談は、僕にとって、思いがけず刺激的であった。

伝統芸能について語り合っているなかで、 内田が次のように語る。

芸を掘り下げていく。すると、そのなかでこそ―――内容分析ではなく、形の掘り下げという操作のつみ重ねのなかで、まさに形の発見という形で表現すべき中身に到達するという。この場合、何を表現するか、中身の問題は外されて―――あるいは議論の外に置かれているわけね。形から自然に内容がという形になっている、言葉通りとると。……形式をひたすら追求することで内容が自然に出る(そのように形を追求する)といういい方、あるいはやり方ね。……形をやってるうちに自然に、という言い方をすることに含まれている意味を思い切りふくらませて理解する必要があるんじゃないか。ヨーロッパでも達人の場合は、やっていくうちに内容が自然に出てくるなんていう。そこのところが強調されている。


そして、そこから社会科学における文体の重要性について、話が展開している。

【丸山】… 文語のよさはやはりリズムだよね。ぼくが文体がなくなっちゃったと感じるのは、あのリズム感だね。 …
【内田】… 社会科学でも同じと思うんだな。いま、ことばのリズムの問題が出てきたけれども、思考それ自体のリズムの問題もあるよね。
【丸山】それと不可分なんだな。
【内田】不可分なんだ。たとえば正確ということばとはちょっと違ったもので、的確ということばがあると思うんですよ。的確かどうかは、リズムの問題を抜いてはいえない。文体のリズムの問題でもあるし、現実にある事物を把え表現しようとする思考者のリズムの問題として。 …
・・・
【内田】ぼくは、社会科学でもそういうリズムのある表現様式をとらなければ人に伝わらないと思う。人に伝わらないだけでなくて、自分を納得させるというか、ほんとうに自分をことばで納得させることは不可能だからね。
【丸山】「ほんとうは」そうなんだ。しかしそれは例外だな。そういうふうに考えているほうが(笑)。社会科学をやっている連中で、だいたい文体のことなんか考えている奴はいないんじゃないか(笑)。
【内田】しかし文体のことを考えないと、ほんとうにはものはつかまえられない。ものそれ自体がつかまらないよ、つかまえたもの―――内容ーーーをどう表現するかなどと考える以前に。形を与え得たかぎりで理解しうる。
(p.82-85)


そしてしばらくして、社会科学の本を書くときのプロセスの話として、この話がふたたび登場する。


【内田】…たとえば、ぼくは章立てを最初にやって、このための参考資料は何で……というやり方が苦手なんですよ。ばあっと書いてしまってから、全然新しく書き直すという作業をくりかえすというやり方でね。…
・・・
【内田】…いちばん言いたいことは何か、ということになると、さあ、それが循環というか、書きなおしの作業のなかで、ああこれであったなという形できまる。内容があらかじめきまっていて表現を、というわけではない。…そういう形ーーー一定の形式をもった表現を手中にする努力のなかでしかつかめない内容というのがぼくらの方でもあるのじゃあないか。われわれの仕事でも、思想に関するかぎり、あらかじめ内容があって、それを表現を抜きにして語っても、無意味とまでは言わないけれども、いちばん奥底のところはつかめない、ということがある気がするんだけれどね。
・・・
【内田】 …形から内容をつかむというやり方、様式のなかにひそむ方法の問題、様式をやっているうちに、その様式を生み出してきたものがわかるというか、そういう意味の内実の問題なんだな。つまり、内容とは、言いたいこと―――表現したいこと―――であると同時に、表現と別個にその以前に、内容のすべてがあらかじめ確定しうるとは、ぼくには考えられない。内容と形の双方をからめて、双方から進めて進めてゆかないとね。
・・・
【内田】少なくともぼくら社会科学には内容の側を一方的に過重視する面があって、そこに伝統芸術のやり方から聴くべきを聴く問題が残っているように思うんだ。…
(p.88-89)


これは、僕が本を書いたり、パターン・ランゲージをつくるときに感じていることであり、また、作家(小説家)たちが語っていることと非常に近い。村上春樹も、自分の文体に通して書いてみることで初めて理解ができる、だから書くのだ、というようなことを語っている。このようなことを作家たちが語るのはよく目にするが、社会科学の記述も同様であると語っているの初めて読んだかもしれない。そう、僕もそう思うのだ(作成中のライティング・パターンのなかに、そういうパターンがある)。

そして、次のような「伝統の継承」という話題も出ていた。

【内田】伝統の継承というのは…意図してではなくて結果として行われるもんだ。…先生を継承する場合でもそう。たとえばシューベルトとベートーヴェンの伝承関係でも、やっぱりそうだよね。…」
・・・
【内田】…ヴェートーヴェンが新しく創りつつあって一般世人なり音楽愛好者が認めていない音楽を継承する自覚に立ったとき、創造者シューベルトが意識するのは、ベートヴェンはこういう仕事をしたので、自分はそのうちでこういうところをとり、こういうところを否定して自分の仕事をするというふうではない。ベートーヴェンへの全面的傾倒であり、同時に、自分が音楽と思うものへの全面的没入―――その意味でベートーヴェン音楽の全面的否定―――なんだな、創造者シューベルトにあるのは。結果が、後から整理すると、ベートーヴェンという伝統の―――ある面がとられある面がすてられた―――追究になっている。……一代限りでの伝承のところをとってみても、伝承は先生の場合はこうで、自分の場合にはこうだ、と明確に区別してそのよきものを取るという意図的行為ではない。つまり全面的傾倒だな、作るのは他でもない自分だという自覚に立っての。全面的傾倒であるがゆえに、かえって個性的になる。ここまでは先生で、ここから変えなきゃいかんといったら、ほんとうに個性的なものはできないんじゃなかろうか。それが創造者の立場なんだ、一般に。
(p.60-61)


このことはすごくわかる。僕はニクラス・ルーマンとクリストファー・アレグザンダーをそれぞれかなり(僕なりに)忠実に継承していると考えているが(本気で)、その上でそれを突き詰めることで、二人の書いたものを突き抜けてしまった。ルーマンの方は社会のシステム理論を超えて創造のシステム理論を構築したという意味において、アレグザンダーの方は建築分野を超えて他分野への適用とシステム理論との接合という意味において。どちらの場合も、ルーマンやアレグザンダーを否定して乗り越えたのではなく、ルーマンやアレグザンダーを徹底したところ、そうなってしまったのだ。だから、奇妙な言い方になるが、僕は、ある意味では、ルーマン(の思考・著作)よりもルーマン的、アレグザンダー(の思考・著作)よりもアレグザンダー的という自負はある。全面的傾倒の結果、個性が出てしまうということは、そういうことだろう。

このように、自分の実感をあらためて再確認したわけだが、ほかにも次の2つのことを考えた。

一つには、井庭研でメンバーによく、「僕との差異(井庭先生や井庭研のこれまでの○○ではできなかったことを僕はやろうとしている、というような)をしょうもないレベルで強調しないで、もっと大きな意味で差異が生まれるように突き抜けろ」という話をするのだけれども、それはまさにこのことだ。男子学生のなかには大学3・4年くらいになると、教員である僕とは違う意見やアイデアをちらつかさせて僕との差異を確かめ・強調し、その結果、一見自立しているようで実際は伸び悩むということがしばしば起こる。そういう研究会の内部での細かい差異に気にするのではなく、もっと大きな視点での個性を考えるべきだ、と言っている。この話は、まさにこのことに通じる。個性を出したいのであれば、井庭本人よりも井庭的であるくらい、徹底して突き抜けてほしい。

そして、もう一つ考えたのは、パターン・ランゲージが創造的に機能するということはどういうことか、ということだ。上述の考え方でいうならば、共有されたパターンのひとつひとつを取捨選択して取り入れるというようなことではなく、すべて受け入れて実践した先に、自分なりのパターンが見えてくる、というのが本当のところなのではないだろうか。これは、井庭研メンバーを見ていても感じる。とにかく、ラーニング・パターンにせよ、プレゼンテーション・パターンにせよ、コラボレーション・パターンにせよ、すべてまるごと受け入れて実践している人の方が、最終敵にはそれらを超えて個性的で創造的な「自分なりのパターン」をつかんでいるように思える。最初から取り入れるときに取捨選択してそのレベルにとどまっていると、伸び悩んでしまう。

形を追究し、全面的にそこに没入していくことで、内容がかたちになり、結果として新しいものが生み出される。実に興味深いことである。

KatachinoHakken220.jpg 『形の発見』(内田 義彦, 藤原書店, 改訂新版, 2013)
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Creative Reading:『言葉の外へ』(保坂 和志)

本屋でたまたま見つけた、保坂和志さんの『言葉の外へ』を読んだ。いまの僕にとってめちゃくちゃ面白くて、刺激になった。

僕は保坂さんの小説にまつわるエッセイ・論考が好きで、読んでいると共感とも刺激とも言いがたい気持ちになる。保坂さんの小説についての文章を、僕はパターン・ランゲージやフューチャー・ランゲージをつくる(書く)ということに重ねて、自分ごとのように読んでいる。

パターン・ランゲージやフューチャー・ランゲージは、小説がもつ方向性と一部重なっていると、僕は感じている。しかし、それらは同じものではない。差異がある。どこまでが同じでどこからが違うのか、そういうことを考えながら読んだ。これはまさに、本を「メディア」として考える、ということだろう。

このように、勝手に刺激を受けて自分のやってることについての理解や発想を大胆に展開していくという本の読み方を、僕はCreative Reading(創造的読書)と読んでいる。その本の言わんとしていることを超え、本をきっかけに、自分の思考の世界を豊かにするのである。


例えば、次のような記述がある。

…「記述する」ということが、そもそも対象の持っているダイナミズムを奪うような、生きているものも死んでいるようにしか描けない行為なのだ。


その通りだと思う。その例として、この本では、以下の例が挙げられている。

たとえば私が友達について語るとき、その友達からしか得られない生き生きとしたものを伝えるために、私はみんなが共通に知っている言葉しか使うことができない。友達のためにすべての形容詞を作り、新しい文法まで作ったら、誰にも理解されない。理解されるためにはつまり、友達をいったん一般性(という一種の“死”)に還元しなければならないのだ。
自然を見て感動したときだって同じで、感動した自然を語るのに感動していないときと同じ言葉しか使うことができない。そのときにあった内的な力や音楽的な高揚は再現することができない。


そして、次のように続く。

私達は客観的な、冷めた、科学的な言葉によって物事を認識することがあたり前だと思っているけれど、科学的な言葉とはつまりは機械論的な世界観のことであって、その中ではじつはすべてが死んでいる。本来の世界とは、明晰な記述と無縁の、力の場なのだ。きっと。


よく「小説」(芸術)と「科学」は対置される。しかし、この二分法を超えることはできないのだろうか。このことこそが、僕がパターン・ランゲージ(またはフューチャー・ランゲージ)で挑戦しようとしていることなのだと思う。そして、同じようにクリストファー・アレグザンダーも挑戦しているのだと思う。

僕にとっては、小説は世界観を共有するにはあまりにも重たい表現だと思ってしまう。

小説というのは本来、作者と読者が一緒に考えていくもののことだ。評論のように抽象概念だけを使って考えるのではなくて、読者の経験の中でじゅうぶんに思い当たる具体的な情景の中で一緒に考える。


だからこそ、「芸術作品というものが、作るのにも受け取るのにもすべて、その人の経験と現在の思考を動員することを要請している」のである。

曖昧であることは解釈の幅を生み、〈帝国主義〉でも〈共産主義〉でも何でもかまわないが、大きな概念に回収され、利用されてしまう契機となる。小説はそれに抗して「簡単に要約できないもの」を生み出すことで、評論とはそれに着目する作業だ。作品に描かれたことが、作品を離れて一人歩きせずにあくまでも作品を読むという行為の中に繋ぎ止められることが、小説の生命なのだ。


まさに。この「作品を通じてしか感じとれない・考えられない」というのは、たしかに僕にとっても魅力である。

しかし、それと同時に、既存の表現とは違うかたちで、対置される二つの存在の間(あいだ)から、新しい方向に向かうことはできないのだろうか。そこに僕は関心がある。

先ほどの例で言うならば、「友達のためにすべての形容詞を作り、新しい文法まで作ったら、誰にも理解されない。」というが、ギリギリ理解できるかたちで「友達のためにすべての形容詞を作り、新しい文法まで作った」らどうなるだろうか。新しい言葉・言語ではあるけれども、より「いきいき」を捉えることができ、かつ理解可能なギリギリのラインを狙う。そういうことを、パターン・ランゲージやフューチャー・ランゲージで、僕は挑戦しているのだと思う。

本書の別の箇所で、「知る」とは何かということを書いている箇所がある。ここがまたいい。「知る」ということは、「それは私にとって「生きる」を意味している。」という。まったくもって同感であるが、このことを実にわかりやすく表現してくれていた。

「進化論を知る」とは「進化論を生きる」のことであり、「構造人類学を知る」とは「構造人類学を生きる」ということで、もう少し丁寧にいうと「進化論を生きる」とは、「はじめにそれを言ったダーウィンのように世界が見えるようになる」ことであり、「構造人類学を生きる」とは「レヴィ=ストロースのように世界が見えるようになる」ことで、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読んで感心したのはレヴィ=ストロースにとって目にするものが本当にすべて「構造」のレベルに還元されていることだった。紋様を見ると彼はそれの装飾的要素をいっさい取り払って最もシンプルな幾何学図形に還元し、家族構成を聞けばそれがほかの家族とどのような交わり方をしているかにごく自然に、これもまた幾何学図形的に還元する作業をしていて、不断のこの作業というか性癖がなければレヴィ=ストロースはない。


まさにそういう「認識のメガネ」を、パターン・ランゲージによって実現したいのである。(ちなみに、ここで挙げられている例と同様に、僕はニクラス・ルーマンの「社会システム理論を生きる」ということを実感してきた。それは、「認識のメガネ」として実際に世界を見る目を変えてくれた。)

そして、この世界観の話は、哲学の話へとつながる。保坂さんのこの本においても、小説とは何かだけでなく、哲学とは何かという問いが登場する。

しかしだいたいにおいて、哲学というのは、もともと何か、世界なり概念なりを解析的に記述し、定義を辞書的に定着させる要請によって生まれたものだったのだろうか。そのような「世界を定義したい」という意思の産物なのではなくて、哲学とは、「世界を実感したい」という熱意の産物だったのではないだろか。


この部分にも、グッと来た。まさに。パターン・ランゲージもフューチャー・ランゲージも、定義したいからつくるのではなく、実感したいからつくっている。それは間違いない。パターン名やフューチャー・ワードのカタログができるのは、結果としてできるのであって、それをつくるためだけにプロジェクトで必死に活動しているわけではない。「探究」や「つくることによる学び」ということは、まさにそのようなことに関係する。いきいきとしていない事例で、自分が実感したくないような対象については、よいパターンなど(よいフューチャー・ワードも)書けるはずはない。「よい学び」「よいプレゼンテーション」「よいコラボレーション」を実感したいから、それらを探究しながら、そのパターン・ランゲージをつくってきた。

そして、もうひとつ、「考える」ということについても、とても大切なことが書かれていた。

先ほど引用した「小説というのは本来、作者と読者が一緒に考えていくもののことだ。評論のように抽象概念だけを使って考えるのではなくて、読者の経験の中でじゅうぶんに思い当たる具体的な情景の中で一緒に考える。」の後に続くのは、実は次の文であった。

それが最後に、答えに辿り着くかどうかは、少しも本質的な問題ではない。
考えるということは「答えること」ではない。考えるということは「疑問を出すこと」だ。考えることが「答えを出すこと」だと思っている大人は、すでにそれだけで学校教育の悪い面におかされている。答えが一つしかないと思っている人は、もっとひどくおかされている。


パターン・ランゲージもまさに「答え」だと思ってしまう人がいる。どうすればうまくいくのかの秘訣の「答え」が書かれていると。そうではなく、これは「問い」であり、世界への眼差しの「投げかけ」であり、そして、それによって得られる「実感」への「足がかり」でしかない。しかし、実際には、知れば簡単に実践できる「答え」のように捉えられてしまうことが多い。このあたり、どう説明してよいのかいつも困るところだが、もう少しでうまく言語化できそうな気もしている。

そして、このことは、僕の創造プロセスの話とも、チャールズ・S・パースのプラグマティックな「探究」の話ともつながっている。このあたりをどんどんつなげていきたい。

この本にいは、他にも、とても大切な指摘がたくさんなされていて、そういうものを読むたびに、「そうそうそう!」「よくぞ言葉にしてくれた!」と感動・共感しまくり。創造的な読書でした。感謝!


Kotobanosotohe.jpeg『言葉の外へ』(保坂 和志, 河出文庫, 河出書房新社, 2012)
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