井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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量子力学における「コト」的世界観と、オートポイエーシス

今日のゼミでは、『SFC YEAR BOOK』の撮影があった。「YEAR BOOK」というのは、卒業アルバムのようなものであるが、全学年を対象としているので、SFCでは「YEAR BOOK」と呼んでいる。これまで、研究会撮影のときは、教室内で撮影することが多く、そうでなくても教室のすぐ外で撮影していた。だが、今回はキャンパスにある大きな池「鴨池」をバックに撮ろうということになり、食堂前のスペースへと移動しての撮影となった。今日は休んでいる人が多かったのが残念だが、なかなかいい写真だ。

ilab2008spring


さて、今日の輪読は、『世界が変わる現代物理学』(竹内 薫)と、『動きが生命をつくる:生命と意識への構成論的アプローチ』(池上 高志)の2冊。どちらもそれぞれ刺激的な本だ。これまで研究会で読んできた社会論やメディア論とは全く異なる分野の本であるが、『リキッド・モダニティ:液状化する社会』などとも深いレベルでつながる内容の本だ。

Book-Takeuchi.jpgここではまず、『世界が変わる現代物理学』(竹内 薫, ちくま新書, 2004)の方について書くことにしたい。

『世界が変わる現代物理学』では、相対性理論や量子力学の簡単な解説とともに、現代物理学がもつ「思想」が論じられている。この本が刺激的なのは、単なる解説本を超え、その「思想」について論じているためである。


量子力学について少しだけ解説しておくと、「量子」とは、世界を構成する超ミクロな存在であり、電子や光子などのことである。量子は、「粒子」の性質とともに「波」の性質も併せ持っている。しかも、古典力学(ニュートン力学)が想定するような「確定性」ではなく、「不確定性」がその根本原理に含まれている。このような「粒子と波の二重性」や「不確定性」という特徴が、古典力学的な感覚に慣れ切っている僕たちにとって、量子力学の考え方を理解しがたいものにしているといってよい。

しかし、翻ってみると、この慣れ切っている古典力学の感覚こそが、ひとつのパラダイムにすぎないということを示しており、量子力学のパラダイムで捉えれば、世界はまったく違ったふうに見えてくるのだ。そう考えると、物理学的な細かい点を抜きにしても、そのパラダイムがもつ思想性に注目し、それを理解して感覚をつかむことが、重要だといえる。『世界が変わる現代物理学』は、まさにその点を追求している本である。

実は、この点は、まさに僕がこの秋に担当する「量子的世界観」 (Quantum Perspective) という授業と同じ方向性である(この授業では、僕が社会論とのつながりを考え、同僚の内藤さんが生命論とのつながりを論じる予定)。日常感覚では理解できないような量子力学的な現象が実際に観察されている以上、それをどう理解すればよいのかということを、思考の上でつくっていくことが求められている。まだ仮説段階のものも多くあるが、それも含めて思考実験をすることは意味があるだろう。

量子力学の話で僕が特に興味深いと思うのは、古典力学では扱うことのできなかった要素の「生成」と「消滅」の話が登場する点だ。

「量子力学を勉強していくと興味深い概念に出会います。量子の生成と消滅です。」(p.152)

「量子力学においては、量子は生成・消滅します。量子論においては、「真空」という言葉さえ、古典物理学とは別の意味をもつようになります。古典物理学においては、真空というのは、「物質が何もない」状態のことです。・・・ですが、このような真空状態でも、量子論的には、ここかしこに量子がウジャウジャと存在しています。なぜかというと、何もないところからでも、瞬間的に陽電子と電子が対になって生成されて、観測される前に対消滅を起こして消え去る確率がゼロではないからです。イメージとしては、真空は、沸騰するお湯のようにぶつぶつと泡ができては消えているような感じでしょう。このような量子は、ある意味、存在以前の存在であり、仮想粒子(バーチャル・パーティクル)と呼ばれています。」(p.154)

この量子の生成・消滅ということに注目すると、「存在するモノがどのような作用をするのか」を論じてきたのが古典力学であり、「存在するモノがどのように生まれてくるのか」を論じるのが量子力学だと捉えることができる。固体として存在(being)するモノが出発点なのではなく、ゆらぎをもった動きの上に成り立つ生成的(becoming)なものとして世界を捉えるという視点。竹内さんは、これを「モノ」的視点から「コト」的視点の転換と呼ぶ。僕は、後に書くように、コト的な視点が、オートポイエーシスの視点と通ずるものがあるという点に注目している。

「現代物理学の思想性は、量子重力理論という最前線の研究においてもっとも鮮明なかたちであらわれます。そこでは、すべての「モノ」が消え去り、すべては「コト」になるのです。」(p.11)

「われわれは、通常、モノとモノの間の「関係」としてしかコトが存在できないと思い込んでいます。ですが、たとえば粒子という概念よりもエネルギーという概念のほうが基本的だとするならば、少なくとも物理学の構造を見るかぎり、必ずしもモノがなければコトがないとはいえないことがわかります。むしろ、話は逆で、もしかしたら、人類の知の歴史は、世界の基本構造が(実は)モノではなくコトであることに気がつく過程だったのかもしれません。」(p.225)

この点がもっとも鮮明になるのは、「ループ量子重力理論」という最先端の理論においてである(『世界が変わる現代物理学』の後半で取り上げられている)。この理論では、「時間と空間の概念がきれいさっぱり消え去って、世界の根源には『抽象的なネットワーク』あるいは『ループ』しか残らない」(p.187)。つまり、あらかじめ時空を仮定しないのであり、時間や空間は二次的に導き出されるものだというのである。もはや、想像力の限界を超えていると思うが、もう少し踏ん張って読み進めると、次のような言葉に行き当たる。

「ノードとリンクは、いったい、どこに存在するのでしょう? その答えは意味深長です。「どこ」という言葉は、空間というモノが存在してはじめて意味をもつのです。しかし、ノードとリンクは、その空間を紡ぎ出す抽象的な概念装置にすぎないのです。ですから、ノードとリンクは「どこにも存在しない」のです。「どこ」を問うことはできません。」(p.214)

空間が原初から存在するのでなく、二次的な概念である以上、空間のなかの位置を示す「どこ」という問いは不適切だということになる。この点は、論理的には理解できるが、感覚的には納得できないかもしれない。しかし、同じようなことが、オートポイエーシスの議論においても論じられているということは注目に値する。『オートポイエーシス:生命システムとはなにか』(H.R.マトゥラーナ, F.J.ヴァレラ, 国文社, 1991)の訳者 河本英夫さんの「解題」を、以下に引用することにしよう。

「空間的関係を一切導入しないで、システムを規定している点で、オートポイエーシス論は位相学的だと言われるのであり、またシステムが空間に場所を占めるようにするために、繰り返しオートポイエーシスの実現について語られなければならなくなっている。『実現』という言葉は、空間内の現実の存在になる、という程度の意味である。」(p.269)

「オートポイエーシス・システムは、みずからの産出する構成素をつうじて空間化するのであり、構成素はシステムを空間に具体的単位体として構成するのである。空間内に存在する現実の構成素と、それらの間に成立する諸関係が、システムの『構造』である。」(p.269)

先ほどの、ループ量子重力理論における話と同じことを言っているといえないだろうか。このほかにも、社会システム理論における「コンティンジェンシー」の概念も、量子力学の不確定性の話に通ずるものがあるように思う。オートポイエーシスの概念は、しばしば言葉の上の戯言のように思われることがあるが、現代物理学の最先端の量子力学と同じことを言っているとなると、少しはその可能性についての評価も変わってくるのではないだろうか。そのようなことを考えるために、僕はいま量子力学を学んでいる。
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『音楽を「考える」』(茂木・江村)

Book-MogiEmura.jpg このブログは、いくつか記事が書かれたかと思うとしばらく更新されなくなって、またバババッと書かれては間があいて・・・ということを繰り返しているが、再開する理由はだいたいいつも同じだ。それは、僕が面白い本に出会ってしまったときだ。みんなに紹介せずにはいられなくなって、再び書き始める。そんなわけで、今回も紹介したい本が出てきた。最近出た茂木さんの対談本だ。

『音楽を「考える」』 (茂木健一郎, 江村哲二, ちくまプリマー新書, 筑摩書房, 2007)

この本は、江村哲二さんというクラシックの作曲家と、茂木さんの対談の本だ。茂木さんもさることながら、江村さんの話が非常におもしろい。

「なぜ音楽が頭の中で響き渡るのか、そもそも空気の振動としての音ではない、脳内にあるいわば仮想としての響きを聴いているということは一体どういうことなのか。」(p.10)

江村さんがそんなことを考えているときに、茂木さんの『脳とクオリア』を読んで、まさに同じことを考えている科学者がいる!と興奮したそうだ。そして今回、10年越しで実現したというのが、この本の対談だ。江村さんは、音大ではなく、工学部出身というユニークな作曲家。「サイエンスは大学で、音楽は独学で、両方やっていました」(p.15)という。そのような経歴の持ち主であるからか、作曲行為や音楽について語る際に、内と外の両方の視点を併せ持っている感じがして、とても興味深い。そして、茂木さんもそれをうまく引き出している。最近イチオシの一冊なので、ぜひ読んでみてほしい。

この対談では、創造性、作曲、クラシック音楽、科学、教育など、さまざまな話題が取り上げられているが、ここで紹介したいのは、「創造」の本質についての話だ。この本では全体を通じて、創造とは、自分の内なるものを「聴く」ということ、そして「傷つき」ながら生み出すということだ、と語られている。

江村 「自分の体内から出てくる何らかの響き、新しい響きを聴きだすことが、作曲という営みではないか。じっと耳を澄まして自分の内なる音を聴くということ。それが自分の音楽であり、それを楽譜にするというプロセスこそが作曲ではないか、と思い至りました。」(p.81)

江村 「『きく」も、『聞く」ではなく『聴く』、つまり hear ではなく listen です。つまり音に対して自発的に向かっていかなければ聴こえない。自分が音に向かうことで、そこに『聴く』という創造が生まれてくる。」(p.44)

茂木 「現代には『聴く』が欠けている。僕の経験からしても、何か新しいことを思いつくときは、たしかに耳を澄ませています。内面から聴き取ったことが、僕の場合は、ある概念や考えという形になって外に出ていくんだけれども、江村さんはそれを音楽で表すわけです。『聴く』ということは、自分の内面にあるいまだ形になっていないものを表現しようとすることだと思うんです。」(p.33)

しかし、このような自分の内なるものを「聴く」ということは、容易なことではない。なぜなら、それは日常生活で保たれているバランスをあえて失わせ、自分の心を切り裂いて、その奥へダイブしていくような行為だからである。それはある意味、危険な行為でもある。

江村 「作曲ということの一つには、自分の心の奥底にある、ある意味では決して開いてはいけない部分に、何かを探って切り裂いていく、そういう過程があるんです。」(p.20)

江村 「見たいんだけれども見てしまったらだめで、全てが終わってしまうようなこと。ここでぎりぎりに止めておくのか、それともあっちの世界に行っちゃうのか、その境界線のところが創作という行為の本質だと思います。自分の胸を切り裂いていくことに近いものがあります。それを茂木さんは『自分が傷ついていくこと』と表現しています。自分が傷つくことをやっていながら、『傷ついている』ことそのものを表現してしまったらおもしろくともなんともない。その『傷ついていく』プロセスが何か新しいものを生み出すわけです。いわばぎりぎりの境界線上に位置しながら生み出し続ける。」(p.21)

僕も、自分の創作活動の経験から、同じようなことを感じていた(プロとしてはでなく趣味的な創作ではあるものの)。作詞をするとき、小説を書くとき、絵本を描くとき・・・そういう創作に取り組んでいるときは、ギリギリのところまで自分を追い詰めていく。表面的な思考では、つくるものも表面的になってしまう。そうではなく、表現したいものの奥の方まで降りていかなければならない。しかし、日常生活の自分を保ったまま、そのレベルに降りていくことはできない。そこで心のなかであえてアンバランスな体勢をとって、日常の自分から抜け出すことが必要となる。

この感覚は、なんとも表現するのが難しいのだけれど、歌詞の話でいうとわかりやすいかもしれない。本当は失恋していないのに、失恋した主人公の歌を書くことは容易くない。そのためには、まるで自分が失恋したかのような感情へと、自分を追い詰めていく必要がある。その状況に立ってみて初めて、リアルな歌が生まれる。もちろん、歌詞を書くには、そこで感傷的になるだけでなく、表現者としての自分を発揮しなければならない。それがきわめて、きわどい精神状態を強いることは想像に難くないだろう。しかし、そういう状況に自分をさらすことが、ものをつくる、ということなのだと思う。それがわかっているからこそ、なかなかすぐには創作モードに入ることができない、というのが最近の僕の実感だ。

その意味では、僕にとって、本を書くということは作品をつくることにほかならないので、この創作モードに入ることが必要となる。本気で本を書くというのは、短い論文をたくさん書くのとは全く異なる行為なのだ。そう考えると、逆に、論文を書くというのは、作品をつくるというよりは「手紙」を書くのに近いといえる。同時代の研究者への手紙。きちんと伝えたいことを書いて、しかも少しだけ魅力的でありたいと思う。しかし、本は「作品」なのだ。だからこそ、本を書くのが楽しくもあり、つらくもある。そのモードにどっぷり入れないとなかなか筆が進まないのは、そういうことがあるのだと思う。言い訳ではなく (たぶん)。

茂木 「表現者として何が必要な条件かと考えたときに、色々あると思うんだけど、生命体としての強さというのは間違いなくあると思う。切り刻むことで、自分の中から何かを表出する。それができる人は本当に強い人なんですよ。・・・もちろん、強いと言っても、図々しいとか傲慢だとかそういう意味ではなくて、ある程度自分の中のもろさとか弱さというものをきちんとさらけ出せるんだけれども、塀の外側には落ちないというか、安定を保つというか。」(p.53)

茂木 「大変な嵐の中にさらされて、脳内に大変な運動が起こっているという状況のなかで、その軌跡として出てくるものが創造性だとすると、それを得るために必要なものは何かがわかります。まず一つは、嵐の中に身をさらす自分の勇気。もう一つは強靭な自我。この両方がそろったときに、創造性というものが生まれるのではないか」(p.175)

この点についても、まさにそのとおりだと思う。「自分を保つ」ということは、「自分がつくる」ということを実現するためには、とても重要なことだ。失恋の悲しさに負けてしまって、表現できなければ意味がない。そのきわどく過酷な精神状況でも、なお前に進み続ける力がなければならない。創造のアスリート的側面だ。

しかし、日常の社会生活を行いながら、そのようなバランスを欠くような聴く行為をするということは、とても難しい。そう考えると、その難しさを理解したうえで、それを実行できるのが「プロ」というものなのだろう。本当のプロは、社会生活と創作上のアンバランスな状況を両立させるために、環境や時間のつくり方をきちんと心得ている。

今月は僕もその点にこだわって、本を書き進めたいと思う。(ということで、多少バランスを欠いているときがあるかもしれないけど、あしからず。笑)
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