『芸術と政治をめぐる対話』(エンデ × ボイス)がかなり刺激的だった
『芸術と政治をめぐる対話(エンデ全集16)』(岩波書店, 1996)を読んだ。ドイツのファンタジー作家であるミヒャエル・エンデと、同じくドイツの現代美術家・社会活動家であるヨーゼフ・ボイスが行なった1985年の対談である。二人ともすでに亡くなっていることもあり、かなり貴重な記録だといえる。これが(ドイツ語ではなく)日本語で読めるというのは、実にうれしいことだ。
二人の話は最初から最後までほとんどすれ違ったまま進むのであるが、それゆえ、それぞれの考えが何度も違うかたちで語られていて興味深い。
ボイスは、社会という芸術作品をみんなでつくりあげる「社会芸術」というものを提唱する。芸術はこれからかたちを変えて「社会」をも作品とする段階にくる。そして、それは誰か一部の人間によってつくられるのではなく、全員がそれに関わり、いわば「社会芸術家」になる(ならなければならない)。そう語る。
これに対してエンデは、芸術というものをもっと狭く———といっても、僕たちが知っている常識的な範囲で———捉える立場をとる。芸術は美の領域での創造である。そして、未来へのひとつのお手本やスケッチとなるようなものを具体的なレベルで描くこと、そして、それによって何かを伝えるのではなく経験してもらうことこそが芸術にとって大切なのだ、と語る。
このように、定義も方向性も違っているわけだが、僕はそのどちらにも共感を覚えた。いや、「共感」という言葉では、うまく言い表せていないかもしれない。だって、僕が考えてきたことや考えていることが、まさにそこに文字として書かれていたのだから。
しかも興味深いことに、この対談のやりとりを読んで、3年前の自分と今の自分が対話しているような錯覚さえ覚えた。大雑把にいうならば、3年前の自分がボイスで、今がエンデだ。(恐れ多いが…^^;)
この対談には、魅力的で力がある言葉が詰まっている。少し紹介したい。
僕の研究の根本的な問いは「創造的とはどういうことか」というものであるが、それは「人間的である」ことだ、と最近行き着いた。要素に還元はできない。全体性との関係でしか定義できない何か。その点について、エンデは、次のように語る。
科学哲学史を紐解けばわかるように、近代科学では真・善・美という概念は科学の世界から追放されてしまっている。それは、デカルトの要素還元的な分析アプローチの影響である。全体は部分に分けて考えられるべきであり、全体性というのは探究の対象とはならないのだ。それでは、全体性とは何なんだろうか。
このエンデの言葉からもわかるように、全体性ということを考え始めると、途端に神秘主義的になってしまう。あるいは、宗教的な世界観に入ってしまう。僕が興味があるのは、宗教にもオカルトにもいかずに、この全体性の問題にアプローチすることはできないか、ということである。オートポイエーシスのシステム理論等によって、あるいはパターン・ランゲージ等の方法によってアプローチすることはできないか。
僕にとって、ニクラス・ルーマンは、全体性に対して動的な自己生成プロセスの観点からアプローチした理論家であり、クリストファー・アレグザンダーは、真・善・美を備えた全体性をつくるための方法について探究した方法論者であった。これらを新しいかたちで結合・融合・進化させることが僕のやりたいことになる。
そして、最近ますます興味が出てきた、主観/客観の二分法への疑問についても、エンデは次のように語る。
主観/客観の二分法をイデオロギーであると言い切ってしまうあたりが心地よい。
さらに、なぜ創造性の問題が今なお学問の世界で置き去りにされているのか、それについてもエンデは明快に語っている。
僕の「創造システム理論」も、ここで指摘されているように、因果関係では捉えられないということが前提となっている。だからこそ僕は、オートポイエティックな———因果関係ではなく生産関係のネットワークの———システムとして創造を捉えたいと考えているわけだ。
以上、エンデの言葉を中心に紹介してきたが、エンデだけに共感したわけではない。ボイスの言葉にも、ぐっとくる言葉は多々あった。芸術の価値と使命という文脈で、ボイスは次のように語っている。
これまで教育や文章で、とにかく徹底した「わかりやすさ」を追究してきた僕は、最近「わからない」という状況をつくることの大切さについて考えている。ここでボイスが語っていることは、先日池上高志さんが「メディアがつくる違和感」というフォーラムで、「ある種のクレイジーネスが必要だ」とか「わからなさ・違和感を生む」と言ったことと重なる。
そして、世界を変えるということについて。エンデは、新しい芸術作品が存在するだけで世界はすでに変わっているんだという立場をとるのに対し、ボイスの方はもっと過激だ。司会者が話を現実に引き寄せようとしたところ……
ここで言わんとしていることは、わかる気がする。そうでもしなければ、社会はいつまでたっても「想像の圏外」に到達できない。
ボイスの過激さと、エンデの静かな力。どちらをとるかではなく、その両方が必要なのだと思う。
それにしても、このような話が1985年にすでに語られていたというのがすごい。それと同時に、こうやって語られていたにも関わらず、依然として世界が変わっていないはなぜなのか? その点についても考えながら、自らの道をしっかりと切り拓いていこうと、決意を新たにした。
『芸術と政治をめぐる対話(エンデ全集16)』(岩波書店, 1996)
Joseph Beuys, Michael Ende, KUNST UND POLITIK: Ein Gespräch, FIU-Verlag, 1989
二人の話は最初から最後までほとんどすれ違ったまま進むのであるが、それゆえ、それぞれの考えが何度も違うかたちで語られていて興味深い。
ボイスは、社会という芸術作品をみんなでつくりあげる「社会芸術」というものを提唱する。芸術はこれからかたちを変えて「社会」をも作品とする段階にくる。そして、それは誰か一部の人間によってつくられるのではなく、全員がそれに関わり、いわば「社会芸術家」になる(ならなければならない)。そう語る。
これに対してエンデは、芸術というものをもっと狭く———といっても、僕たちが知っている常識的な範囲で———捉える立場をとる。芸術は美の領域での創造である。そして、未来へのひとつのお手本やスケッチとなるようなものを具体的なレベルで描くこと、そして、それによって何かを伝えるのではなく経験してもらうことこそが芸術にとって大切なのだ、と語る。
このように、定義も方向性も違っているわけだが、僕はそのどちらにも共感を覚えた。いや、「共感」という言葉では、うまく言い表せていないかもしれない。だって、僕が考えてきたことや考えていることが、まさにそこに文字として書かれていたのだから。
しかも興味深いことに、この対談のやりとりを読んで、3年前の自分と今の自分が対話しているような錯覚さえ覚えた。大雑把にいうならば、3年前の自分がボイスで、今がエンデだ。(恐れ多いが…^^;)
この対談には、魅力的で力がある言葉が詰まっている。少し紹介したい。
「私に言わせれば、創造的であるというのは、要するに、人間的であるということにほかならない。」(エンデ:p.19)
僕の研究の根本的な問いは「創造的とはどういうことか」というものであるが、それは「人間的である」ことだ、と最近行き着いた。要素に還元はできない。全体性との関係でしか定義できない何か。その点について、エンデは、次のように語る。
「美の領域で創造的であるというのが、芸術家の特性なのです。では、美とはなにか、もちろんそれは ———ほかのその種の概念とおなじく———定義できない。美の概念に境界はない。つねに新しくつくりあげられるしかないわけです。真理とはなにか、その定義も不可能です。善とはなにか、その定義も不可能です。ユニバーサルな概念ですからね。全体にかかわる概念ですからね。私に言わせれば、美というものはつねに、———まあ、これも言葉にすぎないわけですが———心、頭、感覚の全体性がうちたてられる場所に成立するのです。いいかえれば、人間がもとの全体性にもどされた場所で、成立するのです。」(エンデ:p.22)
科学哲学史を紐解けばわかるように、近代科学では真・善・美という概念は科学の世界から追放されてしまっている。それは、デカルトの要素還元的な分析アプローチの影響である。全体は部分に分けて考えられるべきであり、全体性というのは探究の対象とはならないのだ。それでは、全体性とは何なんだろうか。
「全体性とはなにか、それも定義できません。定義できれば、全体性でなくなってしまうわけですから。全体性というのは、特定できないものです。」(エンデ:p.23)
このエンデの言葉からもわかるように、全体性ということを考え始めると、途端に神秘主義的になってしまう。あるいは、宗教的な世界観に入ってしまう。僕が興味があるのは、宗教にもオカルトにもいかずに、この全体性の問題にアプローチすることはできないか、ということである。オートポイエーシスのシステム理論等によって、あるいはパターン・ランゲージ等の方法によってアプローチすることはできないか。
僕にとって、ニクラス・ルーマンは、全体性に対して動的な自己生成プロセスの観点からアプローチした理論家であり、クリストファー・アレグザンダーは、真・善・美を備えた全体性をつくるための方法について探究した方法論者であった。これらを新しいかたちで結合・融合・進化させることが僕のやりたいことになる。
そして、最近ますます興味が出てきた、主観/客観の二分法への疑問についても、エンデは次のように語る。
「純粋な客観性というニュートン流の真理の基準は、核物理学によって、疑問視されたわけです。……こんにちでは真理の概念は、かつて知恵と呼ばれていたものに、どんどん接近しているのです。つまり、自分で経験し、自分の内部にもっているものだけを、あなたは外部ででも認識できるのです。昔の自然科学は、事実を矛盾なく記述することを要求していましたが、こんにちでは、だれもそんなことを信じちゃいない。世界を客観的な世界と、主観的な世界に引き裂くというイデオロギーを、私たちはちょうど克服しようとしているところなんです。」(エンデ:p.85)
主観/客観の二分法をイデオロギーであると言い切ってしまうあたりが心地よい。
さらに、なぜ創造性の問題が今なお学問の世界で置き去りにされているのか、それについてもエンデは明快に語っている。
「自然科学の思考は、本質的に因果関係の論理にもとづいています。因果関係の論理がなければ、精確な自然科学は存在しない。さて、ところが人間は、一番人間的である場所で、つまり創造の場で、因果の鎖に縛られてはいません。縛られていたら、自由な創造がなくなります。だから創造は、自然科学の思考ではたいてい見落とされるわけです。因果の鎖とは縁がないので、証明できませんからね。」(エンデ:p.89)
僕の「創造システム理論」も、ここで指摘されているように、因果関係では捉えられないということが前提となっている。だからこそ僕は、オートポイエティックな———因果関係ではなく生産関係のネットワークの———システムとして創造を捉えたいと考えているわけだ。
以上、エンデの言葉を中心に紹介してきたが、エンデだけに共感したわけではない。ボイスの言葉にも、ぐっとくる言葉は多々あった。芸術の価値と使命という文脈で、ボイスは次のように語っている。
「理解できるものなんて、うんざりするほどあるよ。もちろんそれも大切だけどさ。だが芸術にとっては、理解できないほうが、ずっといい。人びとのなかに力を、想像とか直観にたいする力を呼びさまし、さらに、それ以上のことをするわけだから。それが僕の方法なんだ。」(ボイス:p.150)
これまで教育や文章で、とにかく徹底した「わかりやすさ」を追究してきた僕は、最近「わからない」という状況をつくることの大切さについて考えている。ここでボイスが語っていることは、先日池上高志さんが「メディアがつくる違和感」というフォーラムで、「ある種のクレイジーネスが必要だ」とか「わからなさ・違和感を生む」と言ったことと重なる。
そして、世界を変えるということについて。エンデは、新しい芸術作品が存在するだけで世界はすでに変わっているんだという立場をとるのに対し、ボイスの方はもっと過激だ。司会者が話を現実に引き寄せようとしたところ……
「いや、ともかく突撃しておくことが、とても重要なことなんだよ。でないといつだって、敷居のむこう側を見ることは不可能ということになる。『こいつはまずい、こいつはまずい』って、みんな嘆く。だが僕は、嘆こうなんて思わない。可能性はひとつしかない。で、それはいまの現実にたいするポジティブな提案にほかならない。」(ボイス:p.17)
ここで言わんとしていることは、わかる気がする。そうでもしなければ、社会はいつまでたっても「想像の圏外」に到達できない。
ボイスの過激さと、エンデの静かな力。どちらをとるかではなく、その両方が必要なのだと思う。
それにしても、このような話が1985年にすでに語られていたというのがすごい。それと同時に、こうやって語られていたにも関わらず、依然として世界が変わっていないはなぜなのか? その点についても考えながら、自らの道をしっかりと切り拓いていこうと、決意を新たにした。
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