井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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Creative Reading:『言葉の外へ』(保坂 和志)

本屋でたまたま見つけた、保坂和志さんの『言葉の外へ』を読んだ。いまの僕にとってめちゃくちゃ面白くて、刺激になった。

僕は保坂さんの小説にまつわるエッセイ・論考が好きで、読んでいると共感とも刺激とも言いがたい気持ちになる。保坂さんの小説についての文章を、僕はパターン・ランゲージやフューチャー・ランゲージをつくる(書く)ということに重ねて、自分ごとのように読んでいる。

パターン・ランゲージやフューチャー・ランゲージは、小説がもつ方向性と一部重なっていると、僕は感じている。しかし、それらは同じものではない。差異がある。どこまでが同じでどこからが違うのか、そういうことを考えながら読んだ。これはまさに、本を「メディア」として考える、ということだろう。

このように、勝手に刺激を受けて自分のやってることについての理解や発想を大胆に展開していくという本の読み方を、僕はCreative Reading(創造的読書)と読んでいる。その本の言わんとしていることを超え、本をきっかけに、自分の思考の世界を豊かにするのである。


例えば、次のような記述がある。

…「記述する」ということが、そもそも対象の持っているダイナミズムを奪うような、生きているものも死んでいるようにしか描けない行為なのだ。


その通りだと思う。その例として、この本では、以下の例が挙げられている。

たとえば私が友達について語るとき、その友達からしか得られない生き生きとしたものを伝えるために、私はみんなが共通に知っている言葉しか使うことができない。友達のためにすべての形容詞を作り、新しい文法まで作ったら、誰にも理解されない。理解されるためにはつまり、友達をいったん一般性(という一種の“死”)に還元しなければならないのだ。
自然を見て感動したときだって同じで、感動した自然を語るのに感動していないときと同じ言葉しか使うことができない。そのときにあった内的な力や音楽的な高揚は再現することができない。


そして、次のように続く。

私達は客観的な、冷めた、科学的な言葉によって物事を認識することがあたり前だと思っているけれど、科学的な言葉とはつまりは機械論的な世界観のことであって、その中ではじつはすべてが死んでいる。本来の世界とは、明晰な記述と無縁の、力の場なのだ。きっと。


よく「小説」(芸術)と「科学」は対置される。しかし、この二分法を超えることはできないのだろうか。このことこそが、僕がパターン・ランゲージ(またはフューチャー・ランゲージ)で挑戦しようとしていることなのだと思う。そして、同じようにクリストファー・アレグザンダーも挑戦しているのだと思う。

僕にとっては、小説は世界観を共有するにはあまりにも重たい表現だと思ってしまう。

小説というのは本来、作者と読者が一緒に考えていくもののことだ。評論のように抽象概念だけを使って考えるのではなくて、読者の経験の中でじゅうぶんに思い当たる具体的な情景の中で一緒に考える。


だからこそ、「芸術作品というものが、作るのにも受け取るのにもすべて、その人の経験と現在の思考を動員することを要請している」のである。

曖昧であることは解釈の幅を生み、〈帝国主義〉でも〈共産主義〉でも何でもかまわないが、大きな概念に回収され、利用されてしまう契機となる。小説はそれに抗して「簡単に要約できないもの」を生み出すことで、評論とはそれに着目する作業だ。作品に描かれたことが、作品を離れて一人歩きせずにあくまでも作品を読むという行為の中に繋ぎ止められることが、小説の生命なのだ。


まさに。この「作品を通じてしか感じとれない・考えられない」というのは、たしかに僕にとっても魅力である。

しかし、それと同時に、既存の表現とは違うかたちで、対置される二つの存在の間(あいだ)から、新しい方向に向かうことはできないのだろうか。そこに僕は関心がある。

先ほどの例で言うならば、「友達のためにすべての形容詞を作り、新しい文法まで作ったら、誰にも理解されない。」というが、ギリギリ理解できるかたちで「友達のためにすべての形容詞を作り、新しい文法まで作った」らどうなるだろうか。新しい言葉・言語ではあるけれども、より「いきいき」を捉えることができ、かつ理解可能なギリギリのラインを狙う。そういうことを、パターン・ランゲージやフューチャー・ランゲージで、僕は挑戦しているのだと思う。

本書の別の箇所で、「知る」とは何かということを書いている箇所がある。ここがまたいい。「知る」ということは、「それは私にとって「生きる」を意味している。」という。まったくもって同感であるが、このことを実にわかりやすく表現してくれていた。

「進化論を知る」とは「進化論を生きる」のことであり、「構造人類学を知る」とは「構造人類学を生きる」ということで、もう少し丁寧にいうと「進化論を生きる」とは、「はじめにそれを言ったダーウィンのように世界が見えるようになる」ことであり、「構造人類学を生きる」とは「レヴィ=ストロースのように世界が見えるようになる」ことで、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読んで感心したのはレヴィ=ストロースにとって目にするものが本当にすべて「構造」のレベルに還元されていることだった。紋様を見ると彼はそれの装飾的要素をいっさい取り払って最もシンプルな幾何学図形に還元し、家族構成を聞けばそれがほかの家族とどのような交わり方をしているかにごく自然に、これもまた幾何学図形的に還元する作業をしていて、不断のこの作業というか性癖がなければレヴィ=ストロースはない。


まさにそういう「認識のメガネ」を、パターン・ランゲージによって実現したいのである。(ちなみに、ここで挙げられている例と同様に、僕はニクラス・ルーマンの「社会システム理論を生きる」ということを実感してきた。それは、「認識のメガネ」として実際に世界を見る目を変えてくれた。)

そして、この世界観の話は、哲学の話へとつながる。保坂さんのこの本においても、小説とは何かだけでなく、哲学とは何かという問いが登場する。

しかしだいたいにおいて、哲学というのは、もともと何か、世界なり概念なりを解析的に記述し、定義を辞書的に定着させる要請によって生まれたものだったのだろうか。そのような「世界を定義したい」という意思の産物なのではなくて、哲学とは、「世界を実感したい」という熱意の産物だったのではないだろか。


この部分にも、グッと来た。まさに。パターン・ランゲージもフューチャー・ランゲージも、定義したいからつくるのではなく、実感したいからつくっている。それは間違いない。パターン名やフューチャー・ワードのカタログができるのは、結果としてできるのであって、それをつくるためだけにプロジェクトで必死に活動しているわけではない。「探究」や「つくることによる学び」ということは、まさにそのようなことに関係する。いきいきとしていない事例で、自分が実感したくないような対象については、よいパターンなど(よいフューチャー・ワードも)書けるはずはない。「よい学び」「よいプレゼンテーション」「よいコラボレーション」を実感したいから、それらを探究しながら、そのパターン・ランゲージをつくってきた。

そして、もうひとつ、「考える」ということについても、とても大切なことが書かれていた。

先ほど引用した「小説というのは本来、作者と読者が一緒に考えていくもののことだ。評論のように抽象概念だけを使って考えるのではなくて、読者の経験の中でじゅうぶんに思い当たる具体的な情景の中で一緒に考える。」の後に続くのは、実は次の文であった。

それが最後に、答えに辿り着くかどうかは、少しも本質的な問題ではない。
考えるということは「答えること」ではない。考えるということは「疑問を出すこと」だ。考えることが「答えを出すこと」だと思っている大人は、すでにそれだけで学校教育の悪い面におかされている。答えが一つしかないと思っている人は、もっとひどくおかされている。


パターン・ランゲージもまさに「答え」だと思ってしまう人がいる。どうすればうまくいくのかの秘訣の「答え」が書かれていると。そうではなく、これは「問い」であり、世界への眼差しの「投げかけ」であり、そして、それによって得られる「実感」への「足がかり」でしかない。しかし、実際には、知れば簡単に実践できる「答え」のように捉えられてしまうことが多い。このあたり、どう説明してよいのかいつも困るところだが、もう少しでうまく言語化できそうな気もしている。

そして、このことは、僕の創造プロセスの話とも、チャールズ・S・パースのプラグマティックな「探究」の話ともつながっている。このあたりをどんどんつなげていきたい。

この本にいは、他にも、とても大切な指摘がたくさんなされていて、そういうものを読むたびに、「そうそうそう!」「よくぞ言葉にしてくれた!」と感動・共感しまくり。創造的な読書でした。感謝!


Kotobanosotohe.jpeg『言葉の外へ』(保坂 和志, 河出文庫, 河出書房新社, 2012)
Creative Reading [創造的読書] | - | -

最近の井庭研の指導方針:プロジェクト × 実践 × 学会発表

井庭研では、基本的に複数人のプロジェクトで研究を進めている。個人の問題意識にもとづいてそれに近いプロジェクトに所属したり、長くいるメンバーは自分の問題意識が後に井庭研のなかでプロジェクト化されたりする。なので、いわゆる「個人研究」はやっていない。

僕は、個人の問題意識=個人研究、が適しているとは必ずしも考えないからだ。もちろん、そういう場合もある。でも、本当に力強いインパクトのある成果を出そうとするならば、他の人と一緒にプロジェクトとして取り組むことで「自分を超える」ことが重要だと考える。だから、井庭研では、各人の問題意識は大切にしながら、それを個人研究ではなく、プロジェクトというかたちでどう実現できるのかを考えていく(だから、例えば12月上旬にご飯にいきながら、各人とじっくり話すことが大切となる)。

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そして、4年生で書く卒論も、僕はがっつり手をいれたり、細かく指導したりはしない。そこで求められる力はそれまでに身につけるという方針。もっている力を発揮して、自分なりに自由に書いてもらう。卒業プロジェクトも、基本的にプロジェクトとして取り組んでいて、それを最後、自分なりに論文にまとめる。

卒論も、学期末論文も、それらは結局、書いて(闇に消えて)終わりになりやすく、各自の単位(成績)に変換されるだけになってしまう。そこに教員が多くの時間を割くのは、研究会のやるべきこと全体を考えたときによい戦略とは言えない、というのが僕の考え。

そのかわり、学生(学部生)と一緒に学会論文を書く。学生がファースト・オーサーになることが多いが、僕がファースト・オーサーになりセカンド以下に入ってもらうこともある。それは、テーマと実力・経験による。

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学会論文を書くということは、外に出すものだということで、しっかりとしたクオリティが求められるし、取り組みへの真剣度も増す。そして、完成した論文は(学校に提出して終わり)ではなく、実際に世の中に出ていく。そして、そのクオリティを出すためには、学生がもともと持っていたスキルや経験では圧倒的に足りないので、ここで僕は徹底的に指導する。そして、そこに「学び」が生じる。これが、教育と研究を重ねるということだと思う。

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SFCにも、学期末論文や卒論にしっかり赤入れをしてアドバイスをしている先生もいる。例えば、清水唯一朗さんなんかは本当によく学生のやりたいことを聞き、問いかけ、細かく相談に乗って(指導をして)いる。学生から話を聞くたびにいつも関心する。他にも、とても丁寧に指導している先生たちはいる。でも、僕は学校内での提出物でそれをするのではなく、外向きの論文でそれを行う。どこで指導するのかという違いだ。


研究会を選ぶ際には、テーマだけでなく、そういう指導方針のようなものも参考にした方がよいだろう。説明会でも説明があるだろうし、先輩たちからも聞くことができる。物事は、完成されたものだけでなく、それがつくられるプロセスも大切だから。

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井庭研だより | - | -

論文の書き方を身につける方法

論文の書き方は、実際に本気で論文を書いているときにしか習得することはできない。

それでも、事前に書き方のコツを共有しておくことは大切。だから、井庭研では、バーバラ・ミント著『考える技術・書く技術』や、伊丹敬之著『創造的論文の書き方』(伊丹 敬之, 有斐閣, 2001)を輪読している。

しかし、読んだときは頭ではわかっていても、実際に自分がやるときになっても実践できない。「できてないよ」と指摘されて初めてそのことに気づく。そこからようやく学びのプロセスが始まる。

自分で書いたものを見ると、頭ではわかっていたはずのコツはまったくもって実践できていないことを知る。そして、やろうとしても簡単にはできないことも知る。こうして、「あれ…???」となる。

ここからのもがきが重要で、どうしたらそういうことが実現できるのかを本気で考え、実践しようと努力する。一筋縄ではいかないので、何度も僕とやりとりをする。僕も(すでに共有されてはいる)コツを何度も引き合いに出しながら、アドバイスをしていく。そういうやりとりを繰り返した結果、「ああ、こういうことだったのか」と納得しながら論文ができあがる。

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一度このプロセスを通じないと、論文はかけるようにならない。コツも身につかない。これは、とても本質的な学びのプロセスであって、そう意識して取り組むことが大切である。「書き上げたは道半ば」の後半戦は、一度書いたものをちょこっと直すというような、追加の些細な作業なんかではないのだ。ここにしか、実践的な学びはない。教育的な観点から言うならば、この段階を経験するために、論文を書いているようなものだといえる。これが「つくることによる学び」の論文執筆版である。

そして、このプロセスを経ることでようやく、自分たちが何をやってきたのかも明らかになっていく。論文を書くと、いかにわかっていなかったのかが露呈される。自分たちの成果へとつながるIntroductionを読んで、「そんな表面的なこと・ありふれたことをやってきたのではないでしょ」と指摘される。そうして初めて「そうだったのか」と気づいたりする。だから、論文を書くことはとても大切なのだ。すでに終わってしまったことのただの「まとめ」などでは、断じてない。

だから、学会発表に向けて論文を書くと決めて取り組んでいるメンバーは、「学びのチャンス」を自らつかんだことになる。書くことを選択しなかったメンバーたちはそのチャンスを逃したわけで、せめて執筆している人たちと僕とのやりとりを、メーリングリストに流れるメールでしっかり追って、そこから少しでも学べるところを学ぼう、という姿勢でいてくれるとうれしいと思う。

井庭研では、次の本は、絶えず手元に置いておくように言っている。輪読したり、自分で読んだりして、重要箇所に線を引きながら、何度も読む。


MintoBook.jpeg 『考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則』(バーバラ・ミント, ダイヤモンド社, 1999)



ItamiBook.jpeg 『創造的論文の書き方』(伊丹 敬之, 有斐閣, 2001)



なお、僕の論文指導については、今年、他の学校の先生から依頼を受けて講演したときにまとめた。このスライドも参考にどうぞ。

「研究・論文執筆の指導について」(井庭 崇) @ Slideshare
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