井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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Creative Reading:『天才たちの日課』(メイソン・カリー)

一昨日、書店で出会った『天才たちの日課: クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』は、いままさに僕が求めていた本だった。

最近「書く」ということにまつわるパターン・ランゲージをつくり始めていて、これには作家たちがどのような生活を送っていたのかということが含まれる。この本には、小説家、詩人、作曲家、思想家など、なんと 161人の創作生活のスタイルが紹介されている。1人あたり1ページ〜3ページくらいで、伝記やインタビューからの引用も多い。

ふだん自分の好きな作家のエッセイや伝記は読んでも、なかなか幅広く情報を収集するのは難しい。そのとき、本書のような文献は、その幅を広げてくれるので本当に助かる。しかも、1人あたりの記述が短く、創作生活のスタイルだけに注目して書かれているため、共通点がつかみやすい。

この本を読んで、まず感じたのは次のことである。

それは、午前中に書いている(つくっている)人がとても多いということだ。午前中の方が、身体が疲れておらず頭が冴えているということと、いろいろな邪魔が入りにくいからだという。たいてい朝起きてコーヒーを淹れて、書斎にこもってドアを締めて書く。多くの人が、午前中のその時間を死守していた(朝食や昼食をどの時間にとるのかは、家族・子どもの有無など他の要因によっても影響されているようだ)。


例えば、19世紀イギリスの小説家アンソニー・トロロープは、「毎朝五時半に机に向かうこと、そして自分を厳しく律することが私の習慣だった」(p.50)と語っている。こうして、「一日に普通の小説本の十ページ以上書くことができ、それを十ヵ月間続けると、一年で三巻シリーズの小説が三作できあがる」というわけである。

トーマス・マンも、朝に書く人であった。

九時に書斎に入ってドアを閉めると、来客があっても電話があっても、家族が呼んでもいっさい応じない。子どもたちは九時から正午まではぜったいに物音をたてないように厳しくしつけられた。その時間がマンのおもな執筆時間だった。その時間帯に頭脳がもっとも活発に働くため、そのあいだに仕事をすませてしまおうと、自分自身に大きなプレッシャーをかけていた。(p.63-64)


その結果、正午までにできなかったことは、翌日にまわし、また翌日の午前中に続きを書くのだという。

アーネスト・ヘミングウェイも同じように朝書く人であった。彼は言う。

取りかかっているのが長編であれ短編であれ、毎朝、夜が明けたらできるだけ早く書きはじめるようにしている。だれにも邪魔されないし、最初は涼しかったり寒かったりするが、仕事に取りかかって書いているうちにあたたかくなってくる。まずは前に書いた部分を読む。いつも次がどうなるかわかっているところで書くのをやめるから、そこから続きが書ける。そして、まだ元気が残っていて、次がどうなるかわかっているところまで書いてやめる。そのあと、がんばって生きのびて、翌日になったらまた書きはじめる。朝六時から始めて、そう、正午くらいまで、もっと早く終わるときもある。(p.84)


このように午前中(昼すぎまで)に執筆をするという作家には、ウィリアム・フォークナー、村上春樹、ヘンリー・ジェイムズ、マヤ・アンジェロー、リチャード・ライト、フラナリー・オコナー、チャールズ・ディケンズ、スティーヴン・キング、バーナード・マラマッド、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ、ウィラ・キャザーがいる。また、心理学者で精神医学者のカール・ユングも、午前中に2時間集中して執筆したという。

ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテは、朝に取り組む意義を次のように述べている。

いま私は『ファウスト』の第二部に取り組んでいるが、書けるのは早朝だけだ。その時間帯なら、睡眠によって気力が回復しているし、日々のつまらない問題にまだ煩わされていないからだ。(p.230)


午前中に執筆している人たちは、午後には散歩に出かけたり、人に会ったり、手紙を書いたり、午前中に手書きで書いた原稿をタイプライターで打ち込んだりする。散歩を日課としている人がとても多かった。結構長い散歩をする人が多く、そうでない場合も複数回散歩に出かける人もいる。そして、昼寝をしている人も思った以上に多かった。

文章を直したりする(校正)のは、この午後の仕事に入るようだ。そして、昼や午後からワインやウィスキーなどのお酒を飲む人も多い。そして、お酒を飲みながら夕食を楽しみ、読書をしたりして、早めにベッドに入り眠る。

ウィラ・キャザーは、次のように語る。

私にとっては、午前中が書くのにいちばんいい時間なんです。ほかの時間帯には家事をしたり、セントラルパークを散歩したり、コンサートに行ったり、友人のやっているなにかを見にいったりします。いつも体調が万全になるように、元気でいるように、心掛けていますよ。書くためには、歌うのと同じくらい健康でいないといけないから。(p.298)


作家たちの一日のスケジュールのなかで他に印象的だったのは、手紙を書く(返事を書く)時間帯だ。いま、僕らは日々(電子)メールを読み書きする時間が結構あるわけだが、昔の人も手紙を書くのに長い時間を費やしていた。ここで注目すべきなのは、そのような手紙を書くことを、午後にやっているということである。

僕は、ふだん朝一で仕事のはじめにメールをチェックしているが、もしかしたらこれは創作との両立という意味ではあまりよくない習慣なのかもしれない。午前中は一人の世界にこもり、書き下ろしの執筆に集中する時間とする方がよいかもしれないと感じた(もちろん、執筆以外の仕事との兼ね合いもあるので、時期によっては難しいだろうけれども)。


さて、話を作品の執筆に戻すと、午前中だけでなく、昼食の後に再び書くという人たちもいる。ジャン・ポール・サルトルは、「午前中に三時間、夕方に三時間、それが私の唯一の決まりだ」(p.148)と語っている。

詩人のW・H・オーデンは、午前七時から十一時半までのいちばん頭が冴えている時間に執筆した後、昼食後も再開し、夕方まで仕事をしたという。セーレン・キルケゴールも、午前中に執筆し、長い散歩の後、また執筆を再開し夜まで書いた。シモーヌ・ド・ボーヴォワールも、「まずお茶を飲んで、十時ごろに仕事を始めて、一時まで続ける。そのあと友人と会って、五時にまた仕事に戻って、九時まで。」執筆した。

伝記作家エドマンド・ウィルソンは、9時から書き始め、途中仕事机で昼食を食べ、そのまま午後3時か4時まで書いたというし、ジョイス・キャロル・オーツは、朝八時くらいから午後一時まで執筆し、昼食と休憩のあとまた4時から7時ごろまで執筆をしたという。

どの場合も、集中して執筆できるのは2・3時間程度だということで、その時間を数セット(1〜3セット)、それぞれの生活のなかで確保している、ということのようだ。チャック・クロースは次のように語っている。

一度に三時間以上働いたら、ほんとに調子が狂ってくるんだ。だから、理想は三時間働いて、昼食をとって、また三時間働き、そのあと休憩。夜にまた仕事を再開できることもあるけど、基本的にはそれは意味がない。ある時点を超えるとミスが増えて、翌日はそれを修正するのに時間がかかってしまう。(p.102)


若いころ一日中執筆していたヘンリー・ミラーは、歳をとるにつれて午後の執筆はしない方がよいと考えるようになったという。午前中にしっかり2・3時間集中する方がよいことがわかったのだという。同様にジョン・チーヴァーも若い頃は、午前と午後の両方に執筆をしていたが、後には午前中だけに書くようになったという。

アンソニー・トロロープは次のように語る。

文筆家として生きてきた者 ――― 日々、文学的労働に従事している者 ――― ならだれでも、人間が執筆をするのに適した時間は一日せいぜい三時間であるという私の意見に賛同するだろう。しかし、文筆家はその三時間のあいだ、途切れることなく仕事ができるよう、訓練すべきである。つまり、ペンをかじったり、目の前の壁をみつめたりすることなく、自分の考えを表現する言葉が見つかるように、おのれの頭を鍛えなければならない。(p.51)


詩人のフィリップ・ラーキンは、「二時間以上やると、堂々めぐりに陥ってしまうから、そこで二十四時間あいだを開けたほうがずっといい。そのあいだに潜在意識かなにかが閉塞状態を打ち破ってくれて、また先へ進むことができるようになるんだ」(p.198)と語っている。

マーティン・エイミスも、次のように言う。

みんな僕をコツコツきちょうめんにやる人間だと思っているけど、自分では短時間のアルバイトをしているような感じなんだ。じっさい、十一時から一時まで休みなく書けたら、それでもう一日の仕事としてはじゅうぶん。そのあとは本を読んだり、テニスやスヌーカーをしたりしていい。二時間。たいていの作家は二時間集中して書けたら、じゅうぶん満足すると思う (p.180)


もちろん、作家のなかには夜に執筆するという夜型の人もいる。書くこと以外の勤務仕事や授業・教室をもっている人たちや、夜に書くことが習慣になっている人たちだ。フランツ・カフカやマルセル・プルースト、ギュスターヴ・フローベル、ジョルジュ・サンド、オノレ・ド・バルザックなどである。

しかし、そういう人はたいてい、昼ころまで寝ていたり、なかなか寝つけないということで薬を飲んでいたりと、つらそうな面も感じられる。他の作家のなかには、若い頃夜型だった人でも、歳をとるにつれ、朝型に切り替える人がいるのもよくわかる。

例えば黒人女性で初めてノーベル文学賞を受賞したトニ・モリソンは、最初は夜に書いていたが、後に「日が暮れるとあまり頭がまわらなくて、いいアイデアも思いつかない」ために、早朝書くことに切り替えたという。

作家はみな工夫して、自分がつながりたい場所へ近づこうとする。自分がメッセンジャーになれる場所、執筆という神秘的なプロセスにたずさわることができる場所に。私の場合、太陽の光がそのプロセスの開始のシグナルなの。その光のなかにいることじゃなくて、光が届く前にそこにいること。それでスイッチが入るの。ある意味でね (p.100)

朝早く起きて書くということがこういうことなのだと考えると、なかなか素敵だ。


本書で取り上げられている人たちのなかには、インスピレーションを信じている人は思いのほか少ない。その理由を、チャック・クロースが端的に述べてくれている。「インスピレーションが湧いたら描くというのはアマチュアの考えで、僕らプロはただ時間になったら仕事に取りかかるだけ」(p.103)だと。

その代わり、多くの人が、日々の生活における習慣を重視していた。ヘンリー・ミラーは次のように語る。

優れた洞察力が働く瞬間瞬間を維持するには、厳しく自己管理をして、規律ある生活を送らなければならない (p.86)


そのような毎日の繰り返しの重要性について、村上春樹は「繰り返すこと自体が重要になってくるんです。一種の催眠状態というか、自分に催眠術をかけて、より深い精神状態にもっていく」(p.97)のだと言う。

ジョン・アップダイクも次のように語る。

書かないことはあまりにも楽なので、それに慣れてしまうと、もう二度と書けなくなってしまうから。だから決まった習慣を守るようにしている (p.292)


だからこそ、「一日に少なくとも三時間は、いま取り組んでいる新作のために時間を割くようにしている」という。そして、「しっかりと習慣を守ること、それが最後までやり遂げるコツだ」という。

「書く」ということと、書き続けるための「習慣」というものは、相互に高め合う関係にある。書き続けることが唯一書くことを可能にする。この円環的な営みのなかに入り、それを続ける努力をしなければ、作品をつくり続けることはできない。

ここで、ドイツの詩人で哲学者のフリードリヒ・シラーの言葉を肝に銘じたい。

我々は貴重な財産 ――― 時間 ――― を軽んじてきた。時間の使い方を工夫することによって、我々は自分をすばらしい存在に変えることができる (p.232)

そのとき、どのような時間の使い方をするか、そして、どのような習慣をつくるのかは、自分次第だ。

絶対的な方法などない。・・・きちんと規律が守られてさえいれば、どんなやり方で書こうがかまわない。もし規律が守れないような人間なら、どんな呪術的行為も効き目がないだろう。秘訣は時間を ――― 盗むのではなく ――― 作ること。あとは書くだけだ。 (p.351)

これは、バーナード・マラマッドの言葉である。

そして、多作で知られるジョイス・キャロル・オーツの次の言葉も、私たちを勇気づけてくれる。

書いて書いて書きまくり、書きなおす。そうやってまる一日かかって、たったの一ページしか書けなかったとしても、一ページは一ページで、それが積み重なっていくの (p.101)


さらに、ジョゼフ・ヘラーの次の言葉も。

一日に一ページか二ページを週に五日間続ければ、一年で三百ページになる。それでじゅうぶんだよ (p.204)


毎日、コツコツと書き続けることが、なにより大切なのだ。

「書く」ことと、書き続ける「習慣」、この二つの円環的構造を立ち上げることが、書く生活でもっとも大切なことなのだということを、僕は本書から学ぶことができた。


DailyRituals.jpg『天才たちの日課: クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』(メイソン・カリー, フィルムアート社, 2014)

Mason Currey, DAILY RITUALS: How Artists Work, Knopf, 2013
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Creative Reading:『知的生産の技術』(梅棹忠夫)

最近「パターンの種」をカードに手書きで書くことにしたので、梅棹忠夫の『知的生産の技術』を読み直してた。

いま、「読み直して」と書いたが、ずいぶん前から持ってはいたが(しかも間違って何回か買ってしまった)、実はあまりきちんと読んでいなかったようだ。おそらく読むときのこちらの視点が定まらなかったために、面白く読めなかったのだろう。

今回は、自分のパターン・ランゲージのつくり方(特にカードの話)と重ねて読んだので、かなり面白く読むことができた。

まずなんといっても、この本を再読してもっとも興味深かったのは、ノート(のちにカード)に何を書くのかという部分である。僕も20年近く小さなノート(メモ帳)を持ち歩き、ことあるごとにメモをとってきたが、本書で明言されているのは、そのときどきの「発見」を「文章」として書くということであった。

わたしたちが「手帳」に書いたのは、「発見」である。まいにちの経験のなかで、なにかの意味で、これはおもしろいとおもった現象を記述するのである。あるいは、自分の着想を記録するのである。(p.25)

心おぼえのために、みじかい単語やフレーズをかいておくというのではなく、ちゃんとした文章でかくのである。(p.25)

「発見の手帳」の原理は、・・・なにごとも、徹底的に文章にして、かいてしまうのである。(p.26)


文章にするのは、実際問題、結構難しいのではないだろうか。それはどのように実践しているのだろうか。

「発見」には、一種特別の発見感覚がともなっているものである。・・・「発見」は、できることなら即刻その場で文章にしてしまう。もし、できない場合には、その文章の「みだし」だけでも、その場でかく。あとで時間をみつけて、その内容を肉づけして、文章を完成する。みだしだけかいて、何日もおいておくと、「発見」は色あせて、しおれてしまうものである。「発見」には、いつでも多少とも感動がともなっているものだ。その感動がさめやらぬうちに、文章にしてしまわなければ、永久にかけなくなってしまうものである。(p29)


まず「発見」に特化するというのは、とてもよい。持ち歩いているノートには、僕はいつもいろんなもの(発見も含む)を書いているので、ここは違った点。あと、文章ではなく、フレーズや図などでかなり適当なメモを取っていた。実際に今後、僕がノートに文章で書くのかは別として、こういう実践をしていたのだ、ということが興味深い。

「発見の手帳」をたゆまずつづけたことは、観察を正確にし、思考を精密にするうえに、ひじょうによい訓練法であったと、あたしはおもっている。(p.27)


このことは、いまでいうならば、文章でなくても、スケッチでも図示でもよいだろう。とにかく、発見を自分なりの表現で書いていくということである。そして、ここから、ノートではなくカードに書くということに発展した、という話が出てくる。

じっさいをいうと、わたしはいまでは、ここにしるしたとおりの形の「発見の手帳」は、もうつかっていない。いまでは、その機能をカードで代行させているからである。「発見の手帳」における一ページ一項目の原則とか、索引つくりによる整理などの方法が、そのまま進展してカード・システムにつながったのである。(p.32)

「発見の手帳」も、ずっとまえからカードにかわっているので、いまでは、「発見のカード」というべきであったかもしれない。(p.37)


京大型カードは、12.8cm×18.2cmのB6判である。たしかに発見を文章として書くには、そのくらいのサイズがよいかもしれない。僕はパターンの種をメモする目的なので、A6判にしているけれども(A6判のメリットは、パソコンで作成したカードをA4に4カード分印刷して裁断すれば、同じサイズにできるということである)。

ということで、カードの話になると、僕が「パターンの種」をカードに文章で書いているのは、まさにこの「発見のカード」そのものだと気づいた。僕はこれを読んで始めたわけではないので、40年ほど前にすでに梅棹忠夫が実践していたのだと知り、心強く思った。しかも、40年前どころか、もっと昔にそういうことをやっていた人がいるらしい。

カードを「発見の手帳」ふうにつかった元祖は、新井白石であるらしい。この一八世紀の文化人は、ふところにいつでもカードの束をしのばせていて、何かをおもいつくと、すぐにかきつけた。カードはもちろん和紙であり、かく道具はもちろんん矢立だけれど、原理的には今とまったくおなじである。(p.47)


このような発見のカードは、分類して貯蔵することが目的ではない。それを用いて知的生産を行うためにある。カードは知的生産の道具なのである。

カードの操作のなかで、いちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とを、いろいろにくみかえてみる。あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけぬ関連が存在することに気がつくものである。そのときには、すぐにその発見もカード化しよう。そのうちにまた、おなじ材料からでも、くみかえによって、さらにあたらしい発見がもたらされる。これは、知識の単なる集積作業ではない。それは一種の知的創造作業なのである。カードは、蓄積の装置というよりはむしろ、創造の装置なのだ。(p.58)


カードを「創造の装置」として使う。そうそう、まさにこれだ。「パターンの種」を書いたものを、後にKJ法でまとめていくので、そういうことのために使うのである。僕のパターン・ランゲージの作成では、パターンの種を、もともとは手書きで付箋(ポストイット)に書いていたものを、パソコンでA6(A4を4分割)で書くようになり、そして、同じA6サイズの手書きのカードに書くことにした。どの場合も、パターンの種をパターンへと昇華させるために創造的に使うためのものだ。

本書のなかには、知的生産の道具としてのカードに対して、反感や不信感があったという話が書かれている。それに対する考えは、道具一般に言えることであるので、当然、創造・実践の道具としてのパターン・ランゲージにもそのまま言える。

道具はしょせん道具である。道具はつかうものであって、道具につかわれてはつまらない。道具をつかいこなすためには、その道具の構造や性能をよくわきまえて、ちょうど適合する場面でそれをつかわなければならない。どんな場面でもそれをつかえる万能の道具というものはない。また、道具というものは、つかいかたに習熟しなければ効果がない。道具の形をみただけで、ばかにすることもないのである。おそろしく簡素な形の道具でも、つかいなれればまことに役にたつ。(p.62)


これは、道具としてのパターン・ランゲージにも言えるだろう。パターン・ランゲージはしょせん道具である。パターン・ランゲージはつかうものであって、パターン・ランゲージにつかわれてはつまらない、と。そして、そのためには、パターン・ランゲージをどのように使えばよいのかを習熟する必要がある。そして、実は、ここにまた熟達の領域があるのであり、パターン・ランゲージを使いこなすためのパターン・ランゲージというものが再帰的に登場することになる。

本書『知的生産の技術』には、冒頭に以下のようなくだりがある。

学校では、ものごとをおしえすぎるといった。それとまったく矛盾するようだが、いっぽうでは、学校というものは、ひどく「おしえおしみ」をするところでもある。ある点では、ほんとうにおしえてもらいたいことを、ちっともおしえてくれないのである。どういうことをおしえすぎて、どういう点をおしえおしみするか。かんたんにいえば、知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれないのである。(p.2)


これはその通りであり、だからこそ、僕らは学びのパターンを共有するための「ラーニング・パターン」をつくった。そして、もっと広く捉えると、人間行為のパターン・ランゲージ(パターン・ランゲージ3.0)というのは、本書でいうような「知的生産の技術」を共有するための方法であると言うこともできる。

そして、梅棹は言う。

この本は、いわゆるハウ・ツーものではない。この本をよんで、たちまち知的生産の技術がマスターできる、などとかんがえてもらっては、こまる。研究のしかたや、勉強のコツがかいてある、とおもわれてもこまる。そういうことは、自分でかんがえてください。この本の役わりは、議論のタネをまいて、刺戟剤を提供するだけである。(p.20)

知的生産の技術について、いちばん【かんじん】な点はなにかといえば、おそらくは、それについて、いろいろとかんがえてみること、そして、それを実行してみることだろう。たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。(p.20)


パターン・ランゲージも読んだだけでそれをマスターしたことにはならない。そのパターンをどうしたら自分で実践できるのかを考え、それを実際に試し、そこから学び、自分なりにチューニングしていく。そういうことが不可欠である。パターン・ランゲージの使い方にも秘訣があり、習熟が必要となるのである。

そうなると、先に引用した「知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれない」という話は、そこで話を終えることはできないということに気づく。「知識の獲得のしかたをどのように獲得するのか」という問題は未解決のままだからだ。そのとき「自己変革と自己訓練が必要」だというのは正しいが、本当は、話をそこで終わることはできないだろう。ここは、僕らに残された宿題だと感じる。

その宿題は、僕はパターン・ランゲージでいけるのではないかと思っている。パターン・ランゲージ(3.0=人間行為)は、「知識の獲得のしかたをどのように獲得するのか」ということもまたパターン・ランゲージで記述・支援することによって、学習の階層を超えて機能する可能性がある。グレゴリー・ベイトソンの学習I、学習II、学習IIIのどのレベルでも、パターン・ランゲージ(3.0)は対象とし得る。そこに、パターン・ランゲージが、従来の(個別レベルを想定した)方法論とは違うポテンシャルをもっているのだと、僕には感じられるのである。このあたりは、今後もっと詰めて考えていきたい。


最後に、本書の「読書」の章に「創造的読書」ということが書かれていた。僕がこれまで、本から刺激を受けて新しい発見や発想にむすびつけていく読み方を、井庭研流の「Creative 〜」のひとつとして「Creative Reading(創造的読書)」と読んできたが(まさにこのブログのカテゴリーがそうであるように)、ここにすでに書かれていた。40年前にすでに書かれていたとは!この本のすごさを改めて実感した瞬間であった。

読書においてだいじなのは、著者の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ。・・・本の著者に対しては、ややすまないような気もするが、こういうやりかたは、いわば本をダシにして、自分のかってなかんがえを開発し、そだててゆくというやりかたである。・・・このやりかたなら、読書はひとつの創造的行為となる。著者との関係でいえば、追随的読書あるいは批判的読書に対して、これは創造的読書とよんではいけないだろうか。(p.114-115)


今後も、このようなCreative Reading = 創造的読書を続けていきたい。
そして、40年前には発想・実践されていなかった新しい方法で、「知的生産の技術」をアップデートしたい。そう思い、お気に入りの1冊になった。


Chiteki.jpg『知的生産の技術』(梅棹忠夫, 岩波新書, 岩波書店, 1969)
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「パターンの種」を書きためていくカード

個人的にパターンの種を書きためていくのを、カードに手書きで書いていくことにした。カードのサイズはA6。

普段のPCでの作業と差異化を図るため、パターンの種はあえて手書きで集めていくことに。

読書しながら、万年筆でパターンの種の素となる文章を書いていく。

そういえば、ニクラス・ルーマンもたくさんのカードにメモして理論構築をしていたというのを思い出した。

PatternCards.jpg
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2015年は「じっくり」「深く」「書く」一年にします。

2015年の僕のテーマは、「じっくり」と「深く」と「書く」にしたいと思います。



じっくり腰を据えて、じっくり味わい、じっくり取り組んでいきたい。


日常の喧噪から少し離れ、深く潜り、深く考え、論を深めたい。


そして、論文などの短篇を書くのを極力減らし、長編を書くことに注力したい。
さらに、「書く」ということについても探究したい。



広い範囲で激しく動き回るというよりは、深く深く掘り進めることで突き抜ける、そういう一年にしたいと思います。


2015年も、どうぞよろしくお願いします。


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