井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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マインドフルネス、ガーター(偈頌:げじゅ)、パターン・ランゲージ

いまの僕にとって、とても発見的な本と出会った。ティク・ナット・ハン師の『今このとき、すばらしいこのとき』(Present Moment Wonderful Moment)。本の内容も素晴らしいのだが、その本で提示されているものがどういうものであるのかという部分が、パターン・ランゲージとの関係できわめて重要なものだった。

パターン・ランゲージを提唱した建築家クリストファー・アレグザンダーは、彼の著作を紐解くと、かなり禅など東洋の影響を色濃く受けていることがわかる。「無我」や「道」や「質」など。彼の言っていることも選ぶ言葉も、西洋近代的ではなく、きわめて東洋的なのである。そして僕らは、そのパターン・ランゲージを町や建物のかたちではなく、人間行為の領域に応用した。ここで、実践・行いという点で重なりが生まれ、マインドフルネスの話とつながっているという感覚がこれまでにもあった。ティク・ナット・ハン師のこの本は、その理解をさらに一歩進めてくれた。

この本に収録されているのは、「ガーター」(偈頌:げじゅ)という短詩である。

「ガーター(偈頌)は、日常生活の中で唱えることで、今この瞬間に戻り、マインドフルネス(気づきの心)を保てるよう助けてくれる短詩です。瞑想と詩の両方を含む実践という意味で、ガーターは禅の伝統には欠かせない要素ですが、それを用いるために、特別な知識や宗教的な修行はいりません。」(p.3)

「ガーターを唱えるのは、この今という瞬間にとどまるための方法のひとつです。一編のガーターに意識を集中させるとき私たちは自分自身に帰り、一つひとつの動作に対する気づきが深まります。唱え終えても、高まった気づきを伴ったまま活動は続いていきます。」(p.6)

つまり、ガーターとは、日常のいろいろな実践において、その実践について意識を集中させて、マインドフル(気づきが深まった状態)になるための入口となるものである。

本書に収録されているものをいくつか紹介すると、ガーターとは、例えば、こういうものだ。まず、「目覚めのとき」(Waking Up)というタイトルがつけられたガーター。

目覚めのとき

目覚めて微笑む
生まれたての二十四時間
一瞬一瞬気づきを忘れず
すべてを慈しみの眼で見られますように」(p.14)


次に、「蛇口をひねる」(Turning on the Water)というガーターは、こういうもの。

蛇口をひねる

高い山から涌きいで
大地の底を流れる
奇跡の水に
心は感謝で満たされる」(p.30)


そして、「食事を用意する」(Serving Food)。

食事を用意する

この食べ物に目をやれば
宇宙のすべてがそこにある
だからこそ
私は今ここにいる」(p.140)


こういう何気ないことが、いかに奇跡的な有難いことなのかを感じさせてくれて、その実践を大切に行うことができるようになる。ほかにも、「水やりをする」とか「お皿を洗う」というようなものや、「コンピュータを立ち上げる」というものまである。

ティク・ナット・ハン師は、日常のなかでの実践のなかにマインドフルネスを活かしていくエンゲージド・ブディズム(現実に関わる仏教)やアプライド・ブディズム(応用仏教)を展開した人であり、訳者解説には、エンゲージド・ブディズムについて、彼の次のような言葉が紹介されている。

「それは、家庭、地域、街や社会の中において、1日中途切れることなくマインドフルの実践を行うことです。あなたの歩み方、視線の投げかけ方、座り方などが、まわりの人びとに影響を与え、どのような時でも安らぎと、幸福と、喜び、そして友愛を育むことを可能にするのです。」(p.245)

「ガーターを使って実践するときには、ガーターとこれから先の人生とが一体となり、私たちは毎日を目覚めた意識で生きることになります。」(p.6)

パターン・ランゲージも、まさに、一つひとつの活動・行為に対する「気づき」を深め、「目覚めた意識」で活動できるようにしてくれるものである。なぜそういうことが大切なのかというと、ティク・ナット・ハン師は、次のように言います。

「私たちは忙しすぎて、自分の行動に無自覚なだけでなく、自分自身せ見失うことがしばしばあります。呼吸するのを忘れていて、ということさえあるのです。」(p.5)

「自分にとって大切な人に、きちんと目を向け感謝することも忘れて過ごすうちに、人はそうする機会を失います。時間に余裕があるときでも、自分の心や周囲に起こっていることに確かに触れるすべを知りません。」(p.5)

「瞑想とは、自分の体、感情、心や、この世界に起こっている事実に気づくことです。今この瞬間に心が定まるとき、生まれたばかりの幼子、昇ってくる太陽など、今ここにあるすばらしい出来事や不思議に目が開かれます。私たちは、目の前に起こっていることに気づくだけで、とても幸せになれるのです。」(p.5)

パターン・ランゲージは、心のマインドフルネスを目指すといよりは、第一義的には、よりよい質の実践を目指すものであるので、エンゲージド・ブディズムとまったく同じというわけではない。しかし、ある行為・実践が、どのような意味をもっているのかを、深く感じながら実践することの大切さを重視する点では重なりがある。

「コラボレーション・パターン」に馴染んている人は、チームの仲間に「ありがとう」というとき、それが《感謝のことば》の実践であるということが心に浮かび、それがいかに大切で有難いことかを感じながら行う。やりとりをしているときには、それが《レスポンス・ラリー》であることを感じるし、《こだわり合う》ことがよい質につながることを感じることができる。

『旅のことば』(認知症とともによりよく生きるためのパターン・ランゲージ)に馴染んでいる人は、水やりをするということが《自分の日課》として大切なものであることや、《なじみの居場所》がかけがえのない場所であることを感じながら、自らのなじみの居場所に思いを馳せる。

このように、パターン・ランゲージは、実は、単に実践していない人に新しい発想を加えるというだけでなく、すでに実践している人にも、その行為・実践の意味(よりよい質につながる、当たり前ではない)を感じて、マインドフルにその行為・実践をすることを可能にしてくれる。パターン・ランゲージの「活用」というときに見過ごされがちだが、その実践の意味を深く感じられるというのは、とても重要なことである。

ガーターのタイトルは、パターン・ランゲージのパターン名にあたり、短詩の部分は、パターンの内容・記述にあたるだろう(特に、イントロダクションや状況、解決のあたり)。そして、詩的なやわらかな部分は、イラストが担っていると思う。

「瞑想と詩を合わせて実践するガーターは、禅の伝統の鍵です。ガーターを憶えれば、蛇口をひねるとき、お茶を一服するときなど、特定の行為と結びついた一節がおのずから心に浮かんでくるでしょう。」(p.6)

「ガーターは大きな助けになり、ほかの人にとっても同じく役に立ちます。心の中に安らぎと、穏やかさと、喜びの深まりを感じ、それを人と分かち合えるようになるのです。」(p.6)


このあたりは、パターンが状況駆動であることや、ランゲージ(言語)としてつくっていることにつながる。パターンは、一人の実践をよりよくするとともに、対話のなかで経験を分かち合うためのものでもある。
パターン・ランゲージとガーターの重なりが見えてくると何がよいかというと、マインドフルネスとの関係が見えてくるだけでなく、それが、歴史的に継承されてきた考え方や方法に接続できるからである。

「ガーターの実践は二千年以上前に始まりました。」(p.4)

ガーターについて、さらに学んでみたいと思っている。


さらに、表現媒体の観点からも、重なりを感じるので、パターン・ランゲージの可能性について、ガーターから学ぶことができるかもしれない。

訳者の解説によれば、世界各国で行われているリトリートでは、ガーターがイラストつきの小さなカードに書かれれているものが置かれ、持って帰ることができたりして、人々はお守りのように大切に持っているという。これは、僕らのパターン・カードが近い。

また、ティク・ナット・ハンが開いたフランス・ボルドーのプラムヴィレッジでは、建物や敷地のあちこちでガーターを目にするという。それぞれの場所に応じて、「洗面所には、『手を洗う』、キッチンには食べる瞑想に関する多くのガーターが、禅堂にはもちろん瞑想に関わるガーターである」(p.251)。これは、僕らでいうと、パターン・オブジェクトにあたる。

さらに、ガーターという言葉の原義は「歌」であり、昔は歌いながら口伝したのではないかということである。これも、僕らがパターン・ソングで行おうとしていることに通じる。おそらく、口伝で広まり受け継げるように、短い詩のかたちをとったのだろう。

このように、ティク・ナット・ハン師の本『今このとき、すばらしきこのとき』は、そのガーターの内容が素敵であるだけでなく、このように今の僕にとっては、とても素敵な可能性が見えた本だった。


ティク・ナット・ハン, 『今このとき、すばらしいこのとき Present Moment Wonderful Moment:毎日が輝くマインドフルネスのことば』, 島田啓介(訳), サンガ, 2017

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声、神話、地下水脈:谷川俊太郎・覚和歌子『対詩 2馬力』を読んで

谷川俊太郎さんと覚和歌子さんの『対詩 2馬力』は、お二人の「対詩」でつくった詩と対談が収録されている本。覚(かく)さんは、『千と千尋の神隠し』の主題歌「いつも何度でも」の作詞をされた方ですね。

「対詩」についての話も面白かったが、それ以外のところで僕にとって重要なところがいろいろあった。まず最初は、覚さんが声から入っているということについて聞かれての発言。

「『一期一会』感覚というか、『そのとき声出してしまったものがすべて』みたいなことと、もう一つは『言葉において、声のほうが文字よりもえらい』と確実に思っていますね。」(覚, p.30)

「文字は『意味』に近いけれども、声は意味を超えて『波動』そのものだということですね。波動のほうがより真実で、リアリティがある。」(覚, p.30)

そうそう、そうなのだ。だからこそ、僕は、パターンの中に事例の文章を入れず、その代わりに対話ワークショップやパターン・カードを用いた対話のようなかたちで、声で自らの経験を語り、それを聞く、ということを重視してきた。パターンの記述だけで伝達のための自己充足的なコンテンツとするのではなく、あえて「スキマをつくる」ことで、語り=声が引き出されるようにつくってきた。

そして、これからのチャレンジは、パターンそのものの内容を声でどう共有していくか。パターン・ソングというのは、その試みの最初のものだし、ラジオやポッドキャストのようなものでの共有なども試してみたいと思っている。いまでも僕らは、パターン・ランゲージをつくり込むときには、視覚的な文字面だけでなく、音として発したり聴いたときにもわかるようになることを気にして、パターン名を考えている。そういうことが発揮される音声的な共有手段についても、もっと模索していきたいと思っている。


また別の箇所で、覚さんのつくる詩が物語詩であることについての話題のなかで語った次のことも、僕をワクワクさせた。

「物語というか、神話をね、詩のかたちでやりたかったんです。小説はどうしても微に入り細を穿(うが)ちすぎるというか……。読みながら『そこ、別に知らなくてもいい』ってところまで説明されすぎていてまだるっこしいんですよね。・・・でも、物語を読みたいという普遍的な人間の欲求はあるだろうなと思って。だからそれを詩のかたちでやりたかったんです。」(覚, p.34)

この気持ちすごくわかる。そう、そうなんだよ。僕は、神話を、詩ではなく、パターン・ランゲージのかたちでやりたい。もう物語として提示されること自体から変えて。でも人類が普遍的にもっている理や型など、神話が伝えてくれたようなことを、物語の形式ではなく、自分が生きるということのなかで物語化がなされるようなやり方で、共有したい。まだうまく言えないけれども、パターン・ランゲージでやりたいことはそのことなのです。そういうわけで、最近、また、神話について、読み直し、学び直そうと思っていたところだった。


詩の創作についての谷川さんが語った次のことも、重要。詩人が2人で対詩をつくるということについて。

「水の比喩で言うと、一人一人が泉でね。泉っていうのは、地下の水脈につながっていて、そこから湧くでしょう?」(谷川, p.45-46)

「僕なんかはやっぱりそういう集合的無意識にできるだけ根をおろしたいというか、届きたいという気持ちがどこかにありますね。」(谷川, p.46)

この地下水脈のメタファーは、井戸と地下という言葉で語る村上春樹さんの話にも通じるし、河合隼雄さんの「個を突き抜けての普遍」という話にもつながる。

まさに、僕がパターンを洗練させて、仕上げるときに、ぐっと深く潜り込んで探るのも、この多くの人の奥深いところに通じる地下水脈である。


最後に、覚さんが言っていたすごく素敵な執筆スタイルの箇所を。

「私は、基本、詩は八ヶ岳のアトリエでしか書かない、と決めて、すごく試作が楽しくなりました。やっぱり自然の中には「お助け小人」がいるんですよ。そういう話をこの間、画家の友人としていたら、彼も『絶対いる』って言ってましたね。自然の中で書くのは、楽しい。エッセイとか散文は東京でも書けるんですけど、詩は山で書くほうが楽しいですね。」(覚, p. 51)

素敵すぎる、そのスタイル。世界の作家たちも、丘の上のヒュッテ(小屋)みたいなところをもっていて、そこにこもって書く、というような人は多い。僕もそういう特別な場所を持ちたいなぁ。実に。


『対詩 2馬力』(谷川俊太郎,‎ 覚 和歌子, ナナロク社, 2017)

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人間、世界・宇宙と向き合う:谷川俊太郎『聴くと聞こえる』を読んで

谷川俊太郎さんの新刊『聴くと聞こえる:on Listening 1950-2017』は、沈黙と音と言葉についての詩とエッセイで編み上げられている魅力的な本だった。

「言葉というものが何でも語ることができると思ったら大間違いだ。」(p.52)

「たとえば、言葉は音楽を語る事ができない。音楽をめぐるいろいろな事、或いは音楽を聞く自分を語れはしても、音楽そのものは語れない。」(p.52)

「だが人間として生きること、それは沈黙して生きることであってはならない。そして特に詩人として生きること、それは言葉や声がどんなに信じ難いものであるにせよ、沈黙ではないものに賭けて生き続けることに他ならない。
 人を互いにむすびつけることだけが言葉の機能ではない。言葉は人間のものであり、同時に人間のものでない。〈青空よ…〉と詩人が呼びかける時、詩人はその言葉を、自分と、青空と、そして人々のために云うのだ。そしてそうすることで、詩人は青空と戦い、かつむすばれる。」(p.108)


僕もパターン・ランゲージをつくるとき、同様の気持ちを抱く。

「実践知は身体的なものであり、言葉で表せるわけがない」と言われることがあるが、そんなことは当然であり、言葉で何でも表現できるなんて思っているわけではない。しかし、しかしだ。詩人が世界について、音楽について、沈黙について語るように、僕らは、なんとか言葉にしようとする。そのものは伝えられなくても、それがどのようなものであるのかを、詩的に表現し、共有するのである。

だからこそ、パターン・ランゲージは、詩との関係が深い。アレグザンダーはパターン・ランゲージの本のなかで「詩学」(ポエジー)という言葉を用いて語ったし、パターン・ランゲージをつくる人のなかには、本当に詩を書く詩人である人もいる。

僕らは言葉の限界を理解した上で、それで表せることに賭けている。そこに挑んでいる。だから、パターン・ランゲージの作成は一筋縄ではいかない、身を削るような作業となる。それは、人間と、そして世界・宇宙と向き合うことである。言葉にならないものに眼差しを向け、そのための言葉を紡いでいくということなのである。


谷川俊太郎, 『聴くと聞こえる:on Listening 1950-2017』, 創元社, 2018

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