井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

<< July 2024 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

井庭研 2008年度春学期 研究発表会のご案内

来る7月27日(日)に、SFCにて、井庭研 2008年度春学期 研究発表会を開催します。今学期もいろいろと面白い研究があります。興味がある方は、ぜひおいでください。

t12井庭研 2008年度春学期 研究発表会

2008年7月27日(日) 9:40開場 10:00~16:30
慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス
大学院棟τ(タウ)12教室


《セッション1》 新しいコミュニティ形成原理
● 「トップが持つべき心得: 企業においていままでもこれからも変わらず必要とされるトップのあるべき姿とは」(水野 大揮)
● 「付加価値の連鎖による環境保全と地域活性: 茨城県霞ヶ浦再生事業「アサザプロジェクト」を事例にして」(坂田 智子)
● 「パターン・ランゲージによる創発型地域活性化の支援」(成瀬 美悠子)
● 「「場」とコミュニケーション: 創造的なコミュニケーション・メディアのために」(三宅 桐子)

《セッション2》 学びと成長の支援
● 「育児支援のパターン・ランゲージ: 育児不安の解決に向けて」(中條 紀子)
● 「SFCカリキュラムにおける学びと研究の支援: 学習パターンとリサーチ・パターンの融合へ」(小林 佑慈)
● 「初年次教育の道具箱: 自生的秩序観にもとづいた学習支援方法論とツールの提案」(加藤 剛)

《セッション3》 大学院生セッション
● 「自生的秩序形成の構造とプロセスの分析に向けて」(仮)(伊藤 諭志)
● 「知の成長における秩序と多様性」(仮)(山崎 由佳)
● 「システム、湘南、マーケット: 創発型地域活性とその展開」(仮)(西田 亮介)

《セッション4》 物語世界と創造性
● 「オートポイエティック・システムとしての音楽: ルーマン理論に基づく音楽の創発現象の考察」(花房 真理子)
● 「物語世界創造のためのパターン・ランゲージ: ストーリーメイキング・パターンの提案」(原田 一弘)
● 「物語世界におけるリアリティの創発: 自生的秩序観に基づく演出方法論」(青山 貴行)

《セッション5》 構成的理解
● 「書籍販売市場の謎に迫る: べき乗則生成原理の解明に向けて」(吉田 真理子)
● 「オンライン市場の創発的秩序: オンライン書店における商品ネットワークの可視化と分析」(北山 雄樹)
● 「科学と芸術の関係について: レオナルド・ダ・ヴィンチを事例に」(下西 風澄)

最新情報や発表論文のダウンロードについては、井庭研 2008年度春学期研究発表会ホームページをごらんください。
井庭研だより | - | -

個人ホームページ、ひさびさの更新

TakashiIbaHomePage
個人ホームページを、ひさびさに更新した。

最近は井庭研ホームページの更新だけで手一杯だったので、個人ページの更新はおそらく4年ぶりだ(笑)。

今回、トップページは英語にすることにした。そして、初めて「bio」というものを書いた。いろんな先生のものを参考にしながら書いたが、自分のことを三人称で書くのはなかなか新しい経験だ。あとは、「Research Overview」など、英語での活動紹介も充実させた。1週間ほど考えた結果、いまの僕の研究テーマは、次の5つのカテゴリに分類されることがわかった。

●Understanding Social Phenomena as Nexus of Communication (社会システム理論)
●Analyzing Emergent Order and Dynamics of Complex Systems (複雑系)
●Writing Knowledge of Practice for Open-Collaboration (パターン・ランゲージ)
●Creating New Tools for Thinking (マルチエージェントシミュレーション)
●Exploring Methodology of Creative Works (創造のための方法)

詳しくは、「Research Overview」のページを見てほしい。絵なんかも入れてあるので。

Takashi Iba: Home Page
(http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/)
このブログについて/近況 | - | -

量子力学における「コト」的世界観と、オートポイエーシス

今日のゼミでは、『SFC YEAR BOOK』の撮影があった。「YEAR BOOK」というのは、卒業アルバムのようなものであるが、全学年を対象としているので、SFCでは「YEAR BOOK」と呼んでいる。これまで、研究会撮影のときは、教室内で撮影することが多く、そうでなくても教室のすぐ外で撮影していた。だが、今回はキャンパスにある大きな池「鴨池」をバックに撮ろうということになり、食堂前のスペースへと移動しての撮影となった。今日は休んでいる人が多かったのが残念だが、なかなかいい写真だ。

ilab2008spring


さて、今日の輪読は、『世界が変わる現代物理学』(竹内 薫)と、『動きが生命をつくる:生命と意識への構成論的アプローチ』(池上 高志)の2冊。どちらもそれぞれ刺激的な本だ。これまで研究会で読んできた社会論やメディア論とは全く異なる分野の本であるが、『リキッド・モダニティ:液状化する社会』などとも深いレベルでつながる内容の本だ。

Book-Takeuchi.jpgここではまず、『世界が変わる現代物理学』(竹内 薫, ちくま新書, 2004)の方について書くことにしたい。

『世界が変わる現代物理学』では、相対性理論や量子力学の簡単な解説とともに、現代物理学がもつ「思想」が論じられている。この本が刺激的なのは、単なる解説本を超え、その「思想」について論じているためである。


量子力学について少しだけ解説しておくと、「量子」とは、世界を構成する超ミクロな存在であり、電子や光子などのことである。量子は、「粒子」の性質とともに「波」の性質も併せ持っている。しかも、古典力学(ニュートン力学)が想定するような「確定性」ではなく、「不確定性」がその根本原理に含まれている。このような「粒子と波の二重性」や「不確定性」という特徴が、古典力学的な感覚に慣れ切っている僕たちにとって、量子力学の考え方を理解しがたいものにしているといってよい。

しかし、翻ってみると、この慣れ切っている古典力学の感覚こそが、ひとつのパラダイムにすぎないということを示しており、量子力学のパラダイムで捉えれば、世界はまったく違ったふうに見えてくるのだ。そう考えると、物理学的な細かい点を抜きにしても、そのパラダイムがもつ思想性に注目し、それを理解して感覚をつかむことが、重要だといえる。『世界が変わる現代物理学』は、まさにその点を追求している本である。

実は、この点は、まさに僕がこの秋に担当する「量子的世界観」 (Quantum Perspective) という授業と同じ方向性である(この授業では、僕が社会論とのつながりを考え、同僚の内藤さんが生命論とのつながりを論じる予定)。日常感覚では理解できないような量子力学的な現象が実際に観察されている以上、それをどう理解すればよいのかということを、思考の上でつくっていくことが求められている。まだ仮説段階のものも多くあるが、それも含めて思考実験をすることは意味があるだろう。

量子力学の話で僕が特に興味深いと思うのは、古典力学では扱うことのできなかった要素の「生成」と「消滅」の話が登場する点だ。

「量子力学を勉強していくと興味深い概念に出会います。量子の生成と消滅です。」(p.152)

「量子力学においては、量子は生成・消滅します。量子論においては、「真空」という言葉さえ、古典物理学とは別の意味をもつようになります。古典物理学においては、真空というのは、「物質が何もない」状態のことです。・・・ですが、このような真空状態でも、量子論的には、ここかしこに量子がウジャウジャと存在しています。なぜかというと、何もないところからでも、瞬間的に陽電子と電子が対になって生成されて、観測される前に対消滅を起こして消え去る確率がゼロではないからです。イメージとしては、真空は、沸騰するお湯のようにぶつぶつと泡ができては消えているような感じでしょう。このような量子は、ある意味、存在以前の存在であり、仮想粒子(バーチャル・パーティクル)と呼ばれています。」(p.154)

この量子の生成・消滅ということに注目すると、「存在するモノがどのような作用をするのか」を論じてきたのが古典力学であり、「存在するモノがどのように生まれてくるのか」を論じるのが量子力学だと捉えることができる。固体として存在(being)するモノが出発点なのではなく、ゆらぎをもった動きの上に成り立つ生成的(becoming)なものとして世界を捉えるという視点。竹内さんは、これを「モノ」的視点から「コト」的視点の転換と呼ぶ。僕は、後に書くように、コト的な視点が、オートポイエーシスの視点と通ずるものがあるという点に注目している。

「現代物理学の思想性は、量子重力理論という最前線の研究においてもっとも鮮明なかたちであらわれます。そこでは、すべての「モノ」が消え去り、すべては「コト」になるのです。」(p.11)

「われわれは、通常、モノとモノの間の「関係」としてしかコトが存在できないと思い込んでいます。ですが、たとえば粒子という概念よりもエネルギーという概念のほうが基本的だとするならば、少なくとも物理学の構造を見るかぎり、必ずしもモノがなければコトがないとはいえないことがわかります。むしろ、話は逆で、もしかしたら、人類の知の歴史は、世界の基本構造が(実は)モノではなくコトであることに気がつく過程だったのかもしれません。」(p.225)

この点がもっとも鮮明になるのは、「ループ量子重力理論」という最先端の理論においてである(『世界が変わる現代物理学』の後半で取り上げられている)。この理論では、「時間と空間の概念がきれいさっぱり消え去って、世界の根源には『抽象的なネットワーク』あるいは『ループ』しか残らない」(p.187)。つまり、あらかじめ時空を仮定しないのであり、時間や空間は二次的に導き出されるものだというのである。もはや、想像力の限界を超えていると思うが、もう少し踏ん張って読み進めると、次のような言葉に行き当たる。

「ノードとリンクは、いったい、どこに存在するのでしょう? その答えは意味深長です。「どこ」という言葉は、空間というモノが存在してはじめて意味をもつのです。しかし、ノードとリンクは、その空間を紡ぎ出す抽象的な概念装置にすぎないのです。ですから、ノードとリンクは「どこにも存在しない」のです。「どこ」を問うことはできません。」(p.214)

空間が原初から存在するのでなく、二次的な概念である以上、空間のなかの位置を示す「どこ」という問いは不適切だということになる。この点は、論理的には理解できるが、感覚的には納得できないかもしれない。しかし、同じようなことが、オートポイエーシスの議論においても論じられているということは注目に値する。『オートポイエーシス:生命システムとはなにか』(H.R.マトゥラーナ, F.J.ヴァレラ, 国文社, 1991)の訳者 河本英夫さんの「解題」を、以下に引用することにしよう。

「空間的関係を一切導入しないで、システムを規定している点で、オートポイエーシス論は位相学的だと言われるのであり、またシステムが空間に場所を占めるようにするために、繰り返しオートポイエーシスの実現について語られなければならなくなっている。『実現』という言葉は、空間内の現実の存在になる、という程度の意味である。」(p.269)

「オートポイエーシス・システムは、みずからの産出する構成素をつうじて空間化するのであり、構成素はシステムを空間に具体的単位体として構成するのである。空間内に存在する現実の構成素と、それらの間に成立する諸関係が、システムの『構造』である。」(p.269)

先ほどの、ループ量子重力理論における話と同じことを言っているといえないだろうか。このほかにも、社会システム理論における「コンティンジェンシー」の概念も、量子力学の不確定性の話に通ずるものがあるように思う。オートポイエーシスの概念は、しばしば言葉の上の戯言のように思われることがあるが、現代物理学の最先端の量子力学と同じことを言っているとなると、少しはその可能性についての評価も変わってくるのではないだろうか。そのようなことを考えるために、僕はいま量子力学を学んでいる。
- | - | -

『音楽を「考える」』(茂木・江村)

Book-MogiEmura.jpg このブログは、いくつか記事が書かれたかと思うとしばらく更新されなくなって、またバババッと書かれては間があいて・・・ということを繰り返しているが、再開する理由はだいたいいつも同じだ。それは、僕が面白い本に出会ってしまったときだ。みんなに紹介せずにはいられなくなって、再び書き始める。そんなわけで、今回も紹介したい本が出てきた。最近出た茂木さんの対談本だ。

『音楽を「考える」』 (茂木健一郎, 江村哲二, ちくまプリマー新書, 筑摩書房, 2007)

この本は、江村哲二さんというクラシックの作曲家と、茂木さんの対談の本だ。茂木さんもさることながら、江村さんの話が非常におもしろい。

「なぜ音楽が頭の中で響き渡るのか、そもそも空気の振動としての音ではない、脳内にあるいわば仮想としての響きを聴いているということは一体どういうことなのか。」(p.10)

江村さんがそんなことを考えているときに、茂木さんの『脳とクオリア』を読んで、まさに同じことを考えている科学者がいる!と興奮したそうだ。そして今回、10年越しで実現したというのが、この本の対談だ。江村さんは、音大ではなく、工学部出身というユニークな作曲家。「サイエンスは大学で、音楽は独学で、両方やっていました」(p.15)という。そのような経歴の持ち主であるからか、作曲行為や音楽について語る際に、内と外の両方の視点を併せ持っている感じがして、とても興味深い。そして、茂木さんもそれをうまく引き出している。最近イチオシの一冊なので、ぜひ読んでみてほしい。

この対談では、創造性、作曲、クラシック音楽、科学、教育など、さまざまな話題が取り上げられているが、ここで紹介したいのは、「創造」の本質についての話だ。この本では全体を通じて、創造とは、自分の内なるものを「聴く」ということ、そして「傷つき」ながら生み出すということだ、と語られている。

江村 「自分の体内から出てくる何らかの響き、新しい響きを聴きだすことが、作曲という営みではないか。じっと耳を澄まして自分の内なる音を聴くということ。それが自分の音楽であり、それを楽譜にするというプロセスこそが作曲ではないか、と思い至りました。」(p.81)

江村 「『きく」も、『聞く」ではなく『聴く』、つまり hear ではなく listen です。つまり音に対して自発的に向かっていかなければ聴こえない。自分が音に向かうことで、そこに『聴く』という創造が生まれてくる。」(p.44)

茂木 「現代には『聴く』が欠けている。僕の経験からしても、何か新しいことを思いつくときは、たしかに耳を澄ませています。内面から聴き取ったことが、僕の場合は、ある概念や考えという形になって外に出ていくんだけれども、江村さんはそれを音楽で表すわけです。『聴く』ということは、自分の内面にあるいまだ形になっていないものを表現しようとすることだと思うんです。」(p.33)

しかし、このような自分の内なるものを「聴く」ということは、容易なことではない。なぜなら、それは日常生活で保たれているバランスをあえて失わせ、自分の心を切り裂いて、その奥へダイブしていくような行為だからである。それはある意味、危険な行為でもある。

江村 「作曲ということの一つには、自分の心の奥底にある、ある意味では決して開いてはいけない部分に、何かを探って切り裂いていく、そういう過程があるんです。」(p.20)

江村 「見たいんだけれども見てしまったらだめで、全てが終わってしまうようなこと。ここでぎりぎりに止めておくのか、それともあっちの世界に行っちゃうのか、その境界線のところが創作という行為の本質だと思います。自分の胸を切り裂いていくことに近いものがあります。それを茂木さんは『自分が傷ついていくこと』と表現しています。自分が傷つくことをやっていながら、『傷ついている』ことそのものを表現してしまったらおもしろくともなんともない。その『傷ついていく』プロセスが何か新しいものを生み出すわけです。いわばぎりぎりの境界線上に位置しながら生み出し続ける。」(p.21)

僕も、自分の創作活動の経験から、同じようなことを感じていた(プロとしてはでなく趣味的な創作ではあるものの)。作詞をするとき、小説を書くとき、絵本を描くとき・・・そういう創作に取り組んでいるときは、ギリギリのところまで自分を追い詰めていく。表面的な思考では、つくるものも表面的になってしまう。そうではなく、表現したいものの奥の方まで降りていかなければならない。しかし、日常生活の自分を保ったまま、そのレベルに降りていくことはできない。そこで心のなかであえてアンバランスな体勢をとって、日常の自分から抜け出すことが必要となる。

この感覚は、なんとも表現するのが難しいのだけれど、歌詞の話でいうとわかりやすいかもしれない。本当は失恋していないのに、失恋した主人公の歌を書くことは容易くない。そのためには、まるで自分が失恋したかのような感情へと、自分を追い詰めていく必要がある。その状況に立ってみて初めて、リアルな歌が生まれる。もちろん、歌詞を書くには、そこで感傷的になるだけでなく、表現者としての自分を発揮しなければならない。それがきわめて、きわどい精神状態を強いることは想像に難くないだろう。しかし、そういう状況に自分をさらすことが、ものをつくる、ということなのだと思う。それがわかっているからこそ、なかなかすぐには創作モードに入ることができない、というのが最近の僕の実感だ。

その意味では、僕にとって、本を書くということは作品をつくることにほかならないので、この創作モードに入ることが必要となる。本気で本を書くというのは、短い論文をたくさん書くのとは全く異なる行為なのだ。そう考えると、逆に、論文を書くというのは、作品をつくるというよりは「手紙」を書くのに近いといえる。同時代の研究者への手紙。きちんと伝えたいことを書いて、しかも少しだけ魅力的でありたいと思う。しかし、本は「作品」なのだ。だからこそ、本を書くのが楽しくもあり、つらくもある。そのモードにどっぷり入れないとなかなか筆が進まないのは、そういうことがあるのだと思う。言い訳ではなく (たぶん)。

茂木 「表現者として何が必要な条件かと考えたときに、色々あると思うんだけど、生命体としての強さというのは間違いなくあると思う。切り刻むことで、自分の中から何かを表出する。それができる人は本当に強い人なんですよ。・・・もちろん、強いと言っても、図々しいとか傲慢だとかそういう意味ではなくて、ある程度自分の中のもろさとか弱さというものをきちんとさらけ出せるんだけれども、塀の外側には落ちないというか、安定を保つというか。」(p.53)

茂木 「大変な嵐の中にさらされて、脳内に大変な運動が起こっているという状況のなかで、その軌跡として出てくるものが創造性だとすると、それを得るために必要なものは何かがわかります。まず一つは、嵐の中に身をさらす自分の勇気。もう一つは強靭な自我。この両方がそろったときに、創造性というものが生まれるのではないか」(p.175)

この点についても、まさにそのとおりだと思う。「自分を保つ」ということは、「自分がつくる」ということを実現するためには、とても重要なことだ。失恋の悲しさに負けてしまって、表現できなければ意味がない。そのきわどく過酷な精神状況でも、なお前に進み続ける力がなければならない。創造のアスリート的側面だ。

しかし、日常の社会生活を行いながら、そのようなバランスを欠くような聴く行為をするということは、とても難しい。そう考えると、その難しさを理解したうえで、それを実行できるのが「プロ」というものなのだろう。本当のプロは、社会生活と創作上のアンバランスな状況を両立させるために、環境や時間のつくり方をきちんと心得ている。

今月は僕もその点にこだわって、本を書き進めたいと思う。(ということで、多少バランスを欠いているときがあるかもしれないけど、あしからず。笑)
「創造性」の探究 | - | -

『思想としての社会学』(富永健一)

Book-Tominaga.jpg富永健一先生の待望の新著がついに出版された。

『思想としての社会学:産業主義から社会システム理論まで』 (富永 健一, 新曜社, 2008)

この本、手にとってまず最初に何が驚きかというと、その厚さ。なんと、全部で804ページ! なにはともあれ、この分量はすごい。もちろん、厚さだけでなく、内容もかなり充実している。
 この本が目指しているのは、三世代にわたる9人の社会学者を取り上げ、19世紀から20世紀の社会学の潮流を総克するということだ。社会学の第一世代として取り上げられたのは、サン-シモン、コント、スペンサー、第二世代が、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバー、第三世代が、パーソンズ、シュッツ、ルーマンだ。

目次構成は次のようになっている。

序章 日本の近代化と西洋思想―――福澤諭吉

第1部 サン-シモン、コント、スペンサー
 第1章 産業主義の思想―――サン-シモン
 第2章 実証主義の思想―――オーギュスト・コント
 第3章 自由主義の思想―――ハーバート・スペンサー

第2部 デュルケーム、ジンメル、ヴェーバー
 第4章 機能主義の思想―――エミール・デュルケーム
 第5章 相互行為主義の思想―――ゲオルク・ジンメル
 第6章 理解社会学と比較近代化の思想―――マックス・ヴェーバー

第3部 パーソンズ、シュッツ、ルーマン
 第7章 行為と社会システムの思想―――タルコット・パーソンズ
 第8章 現象学的社会学の思想―――アルルーマンフレート・シュッツ
 第9章 「社会」の思想―――ニクラス・ルーマン

昨年のSFC関連のイベントや日本社会学会でお会いしたときには、すでにこの本の執筆が最終段階だとおっしゃっていた。それ以来、僕がこの本をとても心待ちにしていたのは、富永先生の新著だからというのはもちろんのこと、「20世紀の社会学を締めくくる最後の章に、ルーマンを選んだ」というお話を聞いたからだ。このことはつまり、社会学において異端的な存在として捉えられることが多かったルーマンを、社会学の中心的な流れに位置づけ直す、ということを意味している。そのような本が楽しみでないはずがない。

「ルーマンに二十世紀最後の時点において社会学二〇〇年の歴史を総克するという役割を与える」(p.655)

このような位置づけで、ルーマンが最後の章に登場することになったという。しかも、単にルーマンを解説するということではなく、第三世代の社会学者としてのパーソンズとシュッツ、ルーマンの三つ巴の関係を論じている。富永先生がお詳しいパーソンズとの関係性については、特に念入りに書かれている。そのあたりの内容については、次の機会に詳しく書くことにしたい。


ここで、この本の紹介から少し離れて、富永先生について少し僕の思い出を。富永先生は、1990年代にSFCで教鞭をとられていた。当時学部生だった僕は、富永先生の「社会動態論」の授業をとって、社会へのまなざしについて学んだ。富永先生は静かでやわらかい感じの方だが、そのやわらかな話に引き込まれて、かなりの影響を受けた。当時映像制作ばかりやっていた僕が、その授業をきっかけに、社会についてももっと知り、もっと考えたいと思うようになった(その結果、僕は竹中平蔵研究会で環境問題の経済学を研究することになったわけだ)。

ちなみに、富永先生の以前の著作である『現代の社会科学者:現代社会科学における実証主義と理念主義』(富永健一, 講談社学術文庫, 1993)も、素晴らしい本だ。社会学の潮流を、具体的なレベルの解説まで含めて書かれていて、ためになる。僕の研究会でも何度か読んだことがある。この本が絶版になっているのが信じられない。ぜひ復刊してほしいと思う。

この『現代の社会科学者』が、社会学における様々な流れの紹介であったのに対し、『思想としての社会学』が目指しているところは、社会の「思想」としての社会学を論じるというところにある。この本から学べることは、実に多くありそうだ。

(つづく)
イベント・出版の告知と報告 > ルーマンの社会システム理論 | - | -

別様でもあり得たことへの眼差し (機能分析とは何か? 後編)

社会学者ニクラス・ルーマンは、ロバート・マートンの機能分析の議論を継承しつつ発展させた。ルーマンは、機能分析の意義を二つ指摘している。まず第一の意義は、マートンと同様、潜在的な機能への気づきを促すということである。

「『潜在的な』構造や機能について解明することができる。つまり、対象システムにとって可視的ではない諸関係、つまりその潜在性それ自体がなんらかの機能を果たしているがゆえにおそらくは可視的になりえない諸関係を、取り上げることができる」(Luhmann, 1984:p.88)


次いで、ルーマンが指摘する機能分析の第二の意義は、対象の比較可能性が開かれ、その機能を理解するときに、同じ機能を果たすが「現にあるもの」とは別のもの、について考えるきっかけとなるということだ。

ルーマンの貢献は、機能の概念を、「複合性」、「コンティンジェンシー」、「選択」という概念と関係づけて明確化した点にある。これまでの機能分析の捉え方では、機能概念の明確さが欠けていたというわけだ。ルーマンの理解では、「現にあるもの」は別様である可能性を持っているという意味において、「偶発的」(コンティンジェント) なものである。つまり、「現にあるもの」は、可能なもののひとつの現れに過ぎず、必然的にそうなったのではない、という捉え方をするのだ。

以上のことらもわかるように、機能分析では、その機能を満たす「現にあるもの」がなぜそれであったのか、という理由づけは行わない。「機能は決定するのではなくて、さまざまな可能性の同値性・等価性を規制するにすぎない。機能の機能は決定にあるのではなくて、ある前提されたパースペクティブとの関連で諸可能性の交換を規制することにある」(長岡, 2006, p.51) のである。なお、他でもありえた諸可能性の総体のことを、ルーマンは「複合性」(complexity) と呼んでおり、社会における現象を「複合性の拡大」と「複合性の縮減」という観点から捉えている。

まとめると、機能分析の第一の意義は、顕在的機能だけでなく潜在的機能にも目を向けて考えることができること、第二の意義は、対象となる機能を満たす「現にあるもの」を、別様でもあり得た偶発的(コンティンジェント)なものとして捉え、機能的等価物を考えるきっかけを与えるということなのだ。


【References】
『社会システム理論〈上〉』(N.ルーマン, 恒星社厚生閣, 1993, 原著1984)
『ルーマン/社会の理論の革命』(長岡 克行, 勁草書房, 2006)
『新社会学辞典』(森岡清美, 塩原勉, 本間康平 (編集代表), 有斐閣, 1993)
社会システム理論 | - | -

「顕在的機能」と「潜在的機能」 (機能分析とは何か? 前編)

社会学者ニクラス・ルーマンは、自らの拠って立つ「方法」を「機能分析」(functional analysis)だとしている。主著の『社会システム理論』のなかでも、「機能的方法は、結局のところある種の比較の方法なのであり、現実へそれをあてはめることは、現存しているものの別様のあり方の可能性を考慮して現存しているものを把握することに役立つのである」(Luhmann, 1984:p.84)として、機能分析の説明に多くのページを割いている。「機能分析」とは、もともと文化人類学で生まれ、その後、社会学において精緻化されていった方法であり、一種の理論技術だ。機能分析の基本的な考え方は、物事の「構造」ではなく、「機能」に着目して分析を行うというもの。

僕は、クリストファー・アレグザンダーのパターン・ランゲージも、複雑系科学で行われるモデリング・シミュレーションも、「まぼろしのコンセプト」の話も、根底の部分では、この機能分析とつながりがあると考えている。それがどのようなつながりなのかを説明するために、まずは「機能分析とは何か?」について解説しておくことにしたい。


ここでは、社会学における機能分析の整理を行ったロバート・マートン(Robert Merton, 1910~2003)の話から始めることにしよう。

かつてマートンは、「機能分析は、社会学的解釈の諸問題を扱う現代の研究方針のなかで、もっとも有望である反面、おそらくもっとも系統立って整理されていない」(Merton, 1964: p.16) として、手法としての機能分析の要件を整理した。マートンの主張のなかで最も示唆的だったのは、機能分析によって「顕在的機能」だけでなく、「潜在的機能」について理解することが重要だという点だ。

マートンは、機能分析について、雨乞いの儀式を例に説明する。ある部族が「雨乞い」の儀式を慣習的に行っているとしよう。この雨乞いの機能として考えられるのは、この儀式によって天候に影響を及ぼすという機能だろう。これを「顕在的機能」(manifest function)という。しかし、この機能の効果は、現代の私たちの知識をもってすると、期待できるものではないことがわかる。雨乞いをしたからといって、実際に天候が変わるわけではないのだ。それでは、この「雨乞い」の儀式は、非合理で無意味なものなのだろうか?

RainMaking200.jpgここでマートンは、機能分析は「顕在的機能」を明らかにすることが目的ではない、と指摘する。その背後に隠された機能に注目することが重要だというのだ。雨乞いの儀式の場合、よくよく観察してみると、実はこの儀式にも隠れた機能が存在していることがわかってくる。その隠れた機能とは、部族が一体となって儀式を行うことで、部族内の連帯意識を強めるという機能だ。このような隠れた機能のことを、「潜在的機能」(latent function)という。この儀式の機能を「雨を降らす」という顕在的機能のみで判断すると、「合理的ではない」と判断せざるを得ないが、潜在的機能も考慮に入れると、その部族にとってきわめて合理的な儀式であることがわかってくる。

今の話は、以前取り上げた「ストーン・スープ」の話と通じるものがある。石(ストーン)を煮ることは、表面的には意味がないが、それによって多くの村人が寄ってきて、協力しあうことになる。ストーン・スープの顕在的機能は「石のスープをつくる」ということだが、潜在的機能は「それによって多くの村人が協力しあうきっかけをつくる」ということである。潜在的機能は、あくまでも顕在的機能の背後で、潜在的に存在しなければならない。潜在的機能を表に出してみたところで、それだけでは機能しないのである。このことは、雨乞いの儀式と構図が似ているので、わかりやすいと思う。社会的な仕組みをデザインするときには、顕在的機能と潜在的機能の両方を考えることが重要となる。

このように、機能分析では、顕在的機能のみならず、潜在的機能も併せて理解することが重要だ。これがマートンの主張した重要なポイントなのだ。

【References】
『社会システム理論〈上〉』(N.ルーマン, 恒星社厚生閣, 1993, 原著1984)
『社会理論と社会構造』(ロバート・K. マートン, みすず書房, 1961)
『社会理論と機能分析』 (マートン, 青木書店, 1969, 原著1964)
社会システム理論 | - | -

まとまった時間と寄り道

在外研究でボストンに行っている土屋さんが、ブログで次のようなことを書いていた。

「先週はかなり研究をした。東京にいるときは一つのことに3時間まとまって使えれば良いほうだったが、こちらでは用事がないので、集中すると一日中ずっとできる。」

じっくり時間をとれるなんて、なんともうらやましい話である。

でも、実は僕も最近ようやく、まとまった時間がとれるようになってうれしく思っていたところだ。もちろん、土屋さんのように丸一日というわけにはいかない。「3時間まとまって使えれば良いほう」という「3時間」がようやくとれるようになったのだ。

僕ら大学教員は、研究、教育、学事など、複合的に仕事をしている。また、仕事以外でも人との関わりのなかで、自分の都合を優先できず、時間が減ったり、コマ切れになることもある。結果として、研究に割ける時間が削られていく。特に仲間がいない個人研究の場合は、重要であっても後回しにせざるを得なくなることが多い。短期的には仕方のないことかもしれないが、これが長く続くと研究者として致命的になる。特に30代で自分の道を切り開かねば、先はない。頭ではわかっているが、なかなか生活が変わらない。このまま、いったい僕はどうなってしまうのだろうか? そういう状況が、ここ2、3年ほど続いていた。

そんななか、この春からある程度まとまった時間をとれるようになった。3時間あると一仕事できるので、非常にありがたく思う。一人で過ごす時間も増えたし、場の流れで「飲み」に行く、というような自由も久々に味わえている。真剣に研究に取り組む時間がとれているからこそ、ちょっとした寄り道を味わうことが可能なのだ。このような状況がいつまで続くかはわからないが、いまのうちにどんどん研究を進めていきたいと思う。
このブログについて/近況 | - | -

「べき乗分布」のインプリケーション (『歴史の方程式』, マーク・ブキャナン)

Book-Buchanan.jpg今週のインターリアリティプロジェクトの輪読では、『歴史の方程式』の前半を読んだ。

この本は、「べき乗分布」に関する研究の歴史を振り返り、「非平衡物理学」(nonequilibrium physics)―――著者の言葉でいうと「歴史物理学」(historical physics)―――の考え方を紹介してくれる、とても刺激的で重要な本だ。ここまで「べき乗分布」の研究について詳しく書いてくれている本は他にはない。

今日は、この本のなかから僕が特に面白いと思う部分を紹介することにしたい。

■べき乗分布にはスケール不変性がある → 「典型的」「一般的」な出来事はない。

凍ったジャガイモを壁や床に叩きつけると砕け散るが、そのとき様々なサイズの破片ができる。粉々になった小さな破片は非常に多く、大きな塊は少ないだろう。ここで、この破片の大きさと数を詳しく調べてみると、実は規則正しいということがわかってくる。「重ささが二倍になるごとに、破片の数は約六分の一になっていく」(p.59)というのだ。これは、数学的にいうならば、「べき乗分布」になっているということだ。

「べき乗分布」には、スケール不変的(scale-invariant)な性質がある。つまり、どのスケール(尺度)で拡大してみても、同じような状況が見えるのである。このことをわかりやすくいうと、次のようになる。

「今あなたが、好きなように自分の体の大きさを変えられる存在だったとしよう。・・・どんな大きさでもまわりの景色はまったく同じに見えるので、もし自分を何回縮めたか忘れてしまうと、まわりを見ただけでは自分の大きさがまったく分からなくなってしまうのである。これが、冪乗則の意味するところである。破片の山は必ず、「スケール不変性」や自己相似性と呼ばれる特別な性質をもっているからである。破片が広がった様子はどの大きさにおいても同じに見え、まるで各部分が全体の縮小像であるかのように見えるということだ。」(p.61)

つまり、どのスケールで見ても、同じような秩序が見うけられるということだ。バラバシたちが、リンク数の順位分布がべき乗分布になるネットワークを「スケールフリー・ネットワーク」と呼んだのは、このためだ。

LinearGraph-Ave200.jpgべき乗分布においては、「典型的な」もしくは「一般的な」サイズというものは存在しない。あらゆるスケールのものが同じようなかたちで存在するからである。正規分布では重要な指標であった「平均」や「分散」というものが意味をなさなくなる。というのは、平均をとると、テールに引っ張られて平均値は限りなく小さくなってしまう。また、分散を調べると、ヘッドの値とテールの値にかなりの差があるため、かぎりなく大きな分散値になってしまう。このように、平均や分散という指標は、正規分布でなければ意味をなさないのだ。そのため、対象の分布が正規分布なのかべき乗分布なのかということはとても重要なことになる。

さらに、サンプリングの考え方も、正規分布を前提とする場合とは話が違ってくる。正規分布であれば、サンプリング数を増やすことで、より精度の高い近似ができるが、べき乗分布の場合は、サンプリング数を増やすほど、テール部分を拾ってしまい、値は小さくなってしまう。ここでも、対象となる現象が正規分布なのかべき乗分布なのかは、重要な違いだといえる。


■べき乗分布にはスケール不変性がある → 大きな出来事に特別な理由はない。

べき乗分布のスケール不変性は、大きな出来事が何か特別な理由によるものではない、ということも意味している。それは、大きな出来事も小さな出来事も、同じメカニズムで生成されるからだ。

「ジャガイモの破片の山におけるスケール不変性は、大きい破片は小さい破片を拡大したものにすぎないということを示している。すべての大きさの破片は、あらゆる大きさで同じように働く崩壊過程の結果として生じる。グーテンベルク=リヒターの法則は、地震や、地震を発生させる地殻で起こる過程についても、同様のことが言えるということを示している。地震のエネルギーは冪乗則に従うので、その分布はスケール不変的になる。大きな地震が小さな地震とは違う原因で起こると示唆するものは、まったく何もないのである。大きな地震が特別なものである理由がないという事実は、小さな地震を引き起こすものと大きな地震を引き起こすものはまったく同じであるという、逆説的な結果を示唆している。この考え方にもとづけば、大地震に対する特別な説明を探しても意味がないことになる。」(p.63)

このことを印象的に示すために、コロンビア大学の地震の専門家クリストファー・ショルツの言葉が紹介されている。「地震は、起こりはじめたときには、自分がどれほど大きくなっていくか知らない。」(p.98)。大地震というのは、地震の連鎖の雪崩によって結果として大地震になったのであり、その背後にあるメカニズムは、小規模の地震や中規模の地震と同じメカニズムによるということだ。


以上のことを、僕らの商品市場の研究成果と絡めて考えてみることにしたい。すでに紹介したように(「書籍販売市場における隠れた法則性」)、井庭研では、書籍販売市場などの実データ解析をしているが、そこでもべき乗分布が発見されている。このことは何を意味するのだろうか。

まず最初に、書籍販売市場において「典型的な」あるいは「一般的な」商品というものは存在しないということである。平均と分散で商品を見ることはできない、ということである。これはおそらく現場レベルではずいぶんまえからわかっていたことだと思う。販売冊数-順位のべき乗分布は、それが統計的にも言えるということを示している。

さらに、販売冊数-順位のべき乗分布は、大ヒットをした商品が売れた理由は、何か特別な理由があるからではない、ということ示唆している。このことは、大地震がスケールに依存しない普遍的なメカニズムによって、地震の連鎖の雪崩によって結果として生まれたというのと同じように、商品の大ヒットも市場の普遍的なメカニズムによって、「売れるものがますます売れる」という連鎖の雪崩によって、結果として生まれるのかもしれない。そうすると、僕らはマーケティングや市場戦略というものをどう考えればよいのだろうか………とても興味深い。(この点については、また別の機会に議論することにしたい。)

このように、べき乗分布について考えるときには、商品市場の例がわかりやすく、想像力豊かに考えることができる。そう思って、僕はべき乗分布のインプリケーションについて考えるときはいつも、市場のべき乗分布で考えている。なかなかおすすめの方法だ。
複雑系科学 | - | -

書籍販売市場における隠れた法則性

MarketPowerLaw-Linear200.jpgMarketPowerLaw-Log200.jpg以前の僕らの研究(※)で、全国に分布する2,000以上の書店のPOS(販売時点情報管理)システムの実データを解析したところ、販売冊数-順位の関係が、月間・年間のどちらの場合も「べき乗分布」になっていることがわかった。

例えば、2005年度における販売冊数と順位の関係を示すと、左図のようになる。縦軸が、販売冊数の割合(そのタイトルの販売冊数を書籍全体の販売冊数で割ったもの)、横軸が順位である。つまり、グラフの左から右に向かって、販売冊数が多いタイトル(銘柄)から低いタイトルまでが並んでいる。もし販売冊数が同じものがあっても、同位とはせず、順に順位を振っていく。例えば、まったく同じ販売冊数のタイトルが2つあったとしても、100位が2つあるというふうにするのではなく、100位と101位に分けてプロットする。ここで示したグラフは、上が線形グラフ、下が両対数グラフである。上の線形グラフをみると、「ロングテール」である(「しっぽ」の部分が長い)ことがよくわかると思う。

LinearLogGraph200.jpgここで、「線形グラフ」と「両対数グラフ」について、少し解説しておくことにしよう。線形グラフ(linear graph)というのは、一般的によく用いられている普通のグラフだ。線形グラフでは、目盛りごとに100、200、300というような感じで「線形」に数が増えていく。両対数グラフ(double logarithmic graph)では、目盛が増えると、1、10、100、1000というように対応する値が増えていくグラフである。このグラフでは、実は10の「何乗か」という指数の部分が、0、1、2、3と増えているのだ。べき乗分布のデータは、線形グラフでは、軸に限りなく近くて、その特徴が理解できないため、両対数グラフで見ることが多い。べき乗分布は、両対数グラフでは直線上に並んでプロットされる。

販売量-順位分布のべき乗が示しているのは、「破格に売れているタイトルがごく稀にあり,ほとんど多くのタイトルはあまり売れていない」という事実である。テール部分が近似線から乖離しているのは、書店や棚の規模が有限であるために生じる「カットオフ」だと考えられる。書籍販売市場がウィナー・テイク・オール市場だということは、以前から知られていたが、この分析結果の面白い点は、売れ行きの規模に関係なく、順位が下がれば販売量が規則正しく減少していくということである。べき乗分布は、単に「20:80の法則」(ニッパチの法則)が示しているような「ほんの一部のタイトル(銘柄)がとても売れている」ということだけを示しているのではない。また、ロングテール論がいうような「テールが長く、集めるとかなりの量になる」ということだけを示しているわけでもない。べき乗分布が示しているのは、それら二つの特徴を含みながら、最上位や最下位の間に存在するすべての書籍が、べき乗則という法則に従っているという驚くべき事実なのだ。これは、本当に不思議なことだ。

SystemLayerEmergence-power200.jpgまた、月間のデータでも、どの月もほぼ同じべき乗分布を示しているというのも興味深い。市場で販売されているタイトルは日々入れ替わっており(現在日本で発行される新刊タイトル数は年間7万7千点にのぼる)、そこで購入している人たちも日々入れ替わっているにもかかわらず、べき乗分布という市場レベルの法則性は維持されている。それゆえ、この法則性は、個々の要素には還元することができない市場レベルの「創発的秩序」だといえる。

「べき乗分布」は、実は、都市、社会ネットワーク、価格変動、所得など様々な領域で発見されている。都市人口の規模と順位は、べき乗分布になることが知られている。このことは、1890年以降のアメリカの都市についても、日本の都市についても当てはまる。また、社会ネットワークにおけるノードの次数(そのノードがもつリンク数)と順位の関係にも、べき乗分布があることが知られている。そのほか、所得分布の一部がべき乗になることが知られており、「パレートの法則」と呼ばれている。企業の所得分布もべき乗分布に従うことがわかっており、業種ごとの比較研究などもある。さらに、価格変動の規模と頻度の関係をべき乗分布が見出されている。これらのべき乗分布の生成メカニズムについては、少しずつわかってきてはいるものの、まだまだ解明されていないホットイシューだ。

商品市場においてどのようなメカニズムでべき乗分布が生成されるのかについては、まだわかっていない。僕らは今まさにそのメカニズムの解明に取り組んでいるところだ。


※この研究成果は、以下のジャーナル論文、学会研究会で報告している。

●井庭 崇, 深見 嘉明, 斉藤 優, 「書籍販売市場における隠れた法則性」, 情報処理学会論文誌:数理モデル化と応用, Vol.48, No.SIG6 (TOM17), 2007年3月発行, pp.128-136 [CiNiiのページへ]

●井庭 崇, 深見 嘉明, 斉藤 優, 「書籍販売市場における隠れた法則性」, 情報処理学会 第61回数理モデル化と問題解決研究会, 大阪, 2006年9月 [PDF]

●井庭 崇, 深見 嘉明, 吉田 真理子, 山下 耕平, 斉藤 優, 「書籍販売市場における上位タイトルの売上分析」, 情報処理学会 第64回 数理モデル化と問題解決研究会, 大阪大学, 2007年5月 [PDF]
複雑系科学 | - | -
CATEGORIES
NEW ENTRIES
RECOMMEND
ARCHIVES
PROFILE
OTHER