井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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説明がうまくなるコツ (『シンプリシティの法則』, ジョン・マエダ)

『シンプリシティの法則』(ジョン・マエダ, 東洋経済新報社, 2008)を読んで考えたことの続編だ。

僕が今回、この本のなかで特にビビっと来たのは、以下の部分。「繰り返し」によってシンプリシティを獲得するという話だ。

「数年前、私はスイスのタイポグラフィックデザインの大家、ヴォルフガング・ヴァインガルトをメイン州に訪ねた。当時彼が受け持っていた正規の夏期講座で講義をするためである。驚かされたのは、ヴァインガルトが毎年まったく同じ入門講義をすることだった。私の考えでは、同じことを繰り返し言うのは、価値のないことだった。そのため正直言うと、この大家に対する私の評価は下がりはじめていた。ところが、確か3度目の訪問の際に、こう気づいた。ヴァインガルトはまったく同じことを言っているにもかかわらず、言うたびにシンプルになっていると。基本の基本に焦点を合わせることによって、彼は自分が知っている何もかもを、伝えたいことの核心にまで煎じ詰めることができたのである。」(p.36)

この点はとても同感であり、多くの人に伝えたいと思う点でもある。

僕は基本的に話すことが苦手で下手なのだが、それでも内容によっては「説明がわかりやすい」といわれることがある。例えば、ルーマンの社会システム理論やカオスの説明などは、なかなか好評のようだ。実は、そのような説明は、何度も何度も説明しまくることによって得られたものだ。最初は言葉が足りなくてうまく説明できなかったり、冗長だったりした話が、徐々に洗練されていく。どのような言葉を選び、どのような順番で話し、どのような例を出せばよいのか。そして、どうすればその話題を面白く聞いてもらえるのか。そういうことを考えながら、何度も何度も話す。その最初のオーディエンス(被害者!?笑)になるのは、僕の近くにいるゼミ生だ。

あるホットトピックについて何度も話していると、誰に話したのかがわからなくなり、すでに一度話している人にも、再び話してしまうということが起きる。その結果、「その話、このまえも聞きました。」といわれることが多い。また、直接その人に向かって話していなくても、同じ場所にいる他の人に話しているのを聞いて、「(また同じ話だ・・・)」と内心思いながら、その話を何度も耳にするなんてこともあるだろう。でも、一度、次のことを考えてみてほしい。僕は、誰に話したかを忘れるほど多くの人に、何度も何度もその話をしているのだ。 もちろん僕が忘れっぽいというのも関係しているが、それを割り引いても、考える価値がある事実だと思う。

学生の場合、先生の近くにいる人ほど、先生のそのときのホットなトピックを何度も聞くことになる。もし、先生が熱くなっている話を1度しか聞いたことがないという場合は、それくらいの密度でしか接していないという表れでもある。僕も学生時代に竹中先生や武藤先生の同じ話を何度も何度も聞いたものだ。きっとこのように何度も聞くことで、ようやく先生の言いたいことの真意に近づいていけるのだと思う。人間は繰り返しインプットしないと、頭にきちんと入らないのだから。

もし同じ話を聞くチャンスがあったら、今度は意識して聞いてみるとよい。よくよく聞いてみると、説明の仕方が微妙に違っているはずだ。相手によって説明のレベルや例示を変えている場合もあるし、説明が若干進化しているはずだ。うまくいっていれば、余計な部分を省き、新しい言葉に置き換えられたりして、徐々にシンプルになっているはずだ。これはまさに、上記の引用の部分の話にほかならない。


さて、ここで言いたいのは、「だから、僕の話を何度も我慢して聞きなさい!」ということではない。話すことが仕事の僕らも、何度も何度も話すことで話が洗練されていく、ということを知ってほしいのだ。みんなだって、もっともっと話さないといけない。それが言いたい。

ゼミで研究発表をすると、内容や言葉があいまいなまま発表がなされることがある。これはおそらく、誰にも話していない状態で発表しているに違いない。自分で話していることを自分でもあまり深く理解できていないし、その説明がどのように伝わるのかがイメージできていない。言葉の選び方に迷いがあり、それゆえ曖昧でわかりにくものになってしまう。これでは研究内容の議論にまで至らず、聞いている方も内容の理解をすることで精一杯になってしまう。そういう発表はいただけない。先にほかのゼミ生に何度も話し、話を洗練させてから、発表の場に臨むべきだ。

話すことが得意な人も苦手な人も、どんどん相手をみつけて、何度も何度も話をしてみる。ゼミ生はそのための仲間なのだから、活用しない手はない。僕の個人指導を受けているわけではなく、研究のコミュニティに所属しているわけなので、何度も自分の研究について話すチャンスがあるわけだ。

この鉄則は、文章を書く際にも同じだ。論文や計画書を書くときには、そこに書く予定の内容を何度も何度も話すことが重要だ。準備段階でひきこもっていては、本番でうまく話せるわけがない。完全主義者は、ひとりで完全なところまでもっていこうとするかもしれないが、真の完全主義者は、事前にたくさん話し、本番で完全な話をする人のことかもしれない。

同じことを繰り返し言うのはばつが悪いこともある。あなたが人目を気にするならなおさらだ―――たいていの人は人目を気にするものだが。しかし、恥ずかしがる必要はない。反復はうまく機能するし、みんなそうしているのだから。合衆国大統領をはじめとする指導者たちも例外ではない。・・・」(p.37)

恥ずかしがらずに、何度も何度も話してみよう!
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シンプルに生きる (『シンプリシティの法則』, ジョン・マエダ)

Book-Maeda.jpg『シンプリシティの法則』(ジョン・マエダ, 東洋経済新報社, 2008)を読んだ。

情報が溢れ、複雑化する現代においては「シンプリシティ」(単純さ)が重要であるということ、そしてそれをどうすれば実現できるのか、ということがこの本のテーマである。John Maedaといえば、『Design by Numbers』などで有名なMITメディアラボの教授だ。著者紹介の情報によると、今年2008年6月には、米国有数の芸術大学であるRhode Island School of Design (RISD)の学長に就任するようだ。

ちょうど10年前、科学や芸術において「複雑性」=「コンプレクシティ」が注目され、単純な法則から複雑な世界がどのように生まれるのかが話題となった。そして10年たった今、複雑な状況においてシンプリシティをどのように獲得するかが話題となっているというのは、興味深い。Webといえば、htmlのベタ書きによるシンプルなページからなる世界だったが、いまや動的なコンテンツが載り、膨大な情報量が詰め込まれた「騒々しい」世界へと変化した。それゆえ、Googleのトップページのシンプルなデザインが効いているのである。同じように、iPodのシンプルなデザインも、そのシンプルさゆえに、相当なインパクトをもつことになる。GoogleもiPodも、どちらもこの「コンプレクシティの時代のシンプリシティ」を先取りした事例なのだ。

ジョン・マエダは、シンプリシティに関する「10の法則」と「3つの鍵」を提示する。

【10の法則】

1. 削除 シンプリシティを実現する最もシンプルな方法は、考え抜かれた削除を通じて手に入る。
2. 組織化 組織化は、システムを構成する多くの要素を少なく見せる。
3. 時間 時間を節約することでシンプリシティを感じられる。
4. 学習 知識はすべてをシンプルにする。
5. 相違 シンプリシティとコンプレクシティはたがいを必要とする。
6. コンテクスト シンプリシティの周辺にあるものは、決して周辺的ではない。
7. 感情 感情は乏しいより豊かなほうがいい。
8. 信頼 私たちはシンプリシティを信じる。
9. 失敗 決してシンプルにできないこともある。
10. 1 シンプリシティは、明白なものを取り除き、有意義なものを加えることにかかわる。

【3つの鍵】

1. アウェイ 遠く引き離すだけで、多いものが少なく見える。
2. オープン オープンにすればコンプレクシティはシンプルになる。
3. パワー 使うものは少なく、得るものは多く。

それぞれがどのような含意をもつかについては、実際に本を読んでもらうことにしたい(これが上記の内容を知るための一番シンプルな方法だ!)。文章は読みやすく、分量も少なめなので、さっと読むことができる。


まず、この本で取り上げたいのは、「シンプル」というキーワードだ。

個人的なことを言うと、ここ1ヶ月ほど、「シンプルにする」というのが、僕の基本方針であった。この本を読んだからというわけではなく、阿川さん(総合政策学部長)がいつも、大学の制度や説明に対して「複雑すぎる。シンプルに。」ということを言い続けているのを見ていた影響だ。なるほど、たしかに、物事はシンプルにしたほうがいい。

ここ1、2年の間、僕の仕事や生活はどんどん複雑になり、この冬、ついに破綻した。心も身体もついていけなかった。なので、なるべくシンプルにしようと心がける。もちろん、完全にシンプルにすることはできないし、したいとは思っていない。突き進むべきフロンティアは、未知の「コンプレクシティ」に満ちている。やっていること、考えていることが複雑な分、環境はシンプルでなければ破綻する。これを身をもって体感したのだ。

「シンプリシティとコンプレクシティはたがいを必要とする」(p.45)

シンプリシティだけでは飽きてしまう、だが、複雑すぎても破綻する。その両方が必要なのだ。現代社会では、複雑さは自ずと増大していく。そのなかで交通整理をするのであれば、基本方針としては「なるべくシンプルに」を心がけるとよさそうだ。

(次回につづく)
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コラボレーションの原理(コラボレーション技法ワークショップ第2回)

今日は、僕の担当する授業「コラボレーション技法ワークショップ」の第2回目であった。今日のテーマは、コラボレーションの原理についてである。

CollaborationImage200.jpg最初の問いは、「コラボレーション」とは何だろうか?ということだ。僕なりの説明をすると、コラボレーションとは、複数の人々が、ひとりでは決して到達できないような付加価値を生み出す協同作業(協働作業)のことだ。有効なコラボレーションが行われている組織やグループでは、単なるコミュニケーションや分担ではなく、発見や創造の「勢い」がメンバーの間で共鳴し、増幅する。その結果、飛躍的なアイデアやイノベーションを生み出すことができ、メンバーの満足感も高まることになる。

コラボレーションは、「分業」とは異なる。分業というのは、タスクを分けてそれぞれががんばり、調整・集約するものである。その結果、1+1+1が3になる。そうではなく、コラボレーションでは、コミュニケーションの連鎖が起き、相乗効果があり、1+1+1が、10とか100になってしまうようなことをいう。グループワークというのは、分業的にもなり得るし、コラボ的にもなり得る。

それでは、どうしたらグループワークにおいてコラボレーションを行うことができるのだろうか。言い換えると、どうしたら複数人で新しい付加価値を創造することができるのだろうか。この点を考えるために、「創造する」ということについて、一歩踏み込んで考えてみることにしたい。

ふつう私たちは、何かを「創造する」(つくる)というとき、「思考」や「行為」による創造について考えるのが一般的だ。この考え方は、個人による創造を考える場合には十分であるが、複数人で行うコラボレーションについて考える場合には、すぐさま困難に行き当たる。もし創造性が、個人の思考や行為にのみ宿るのであれば、コラボレーションの結果というものは、個々人の思考・行為の結果を足し合わせたものに過ぎなくなる。そのような捉え方では、コラボレーションの本質である相互作用のダイナミズムが抜け落ちてしまう。もしコラボレーションが、目標を分割して各人に振り分ける「分業」とは異なるものであるならば、「思考・行為を寄せ集めた集合」ではない捉え方が必要になる。

WhatIsCreation100.jpgそこで、「創造」というものを「創造的思考」、「創造的行為」、「創造的コミュニケーション」の3つに分けて考えてみることにしたい ※。そのうえで、「コラボレーションによる創造」では、創造的思考、創造的行為だけでなく、創造的コミュニケーションが不可欠である、ということを主張したい。

まず、創造的思考とは、心的システムにおける意識の連鎖によって、創造が行われることを意味している。例えば、いろいろなイメージを思い描いたり、アイデアを考えたりすることである。創造的行為とは、行為として創造が行われるということである。例えば、絵を描いたり彫刻を掘ったり、文章を書き記したりするのが、これにあたる。これら創造的思考と創造的行為は、基本的には、ひとりで行う個人レベルの話である。これに対し、創造的コミュニケーションとは、コミュニケーションを行うことで創造が行われるということである。例えば、複数の人で、アイデアや企画、デザインを議論・検討しながら練り上げていくということが、これにあたる。

以上のように「創造」を分類すると、「コラボレーション」と「分業」の違いは、創造的思考や創造的行為の存在の有無ではなく、創造的コミュニケーションの連鎖があるかないか、という違いだということがわかる。コラボレーションでは、創造的コミュニケーションが連鎖しなければならない。そのための工夫が、コラボレーション技法の本質なのだ。


※ 創造的思考/創造的行為/創造的コミュニケーションという分類については、以下の論文が初出。「コミュニケーションの連鎖による創造とパターン・ランゲージ」(井庭 崇, 社会・経済システム, Vol.28, 社会・経済システム学会, 2007年)。
「創造性」の探究 | - | -

「学習パターン」の制作に携わる学生メンバー募集!

学習パターンポスターCS150.jpg今月から、大学における学びのヒントを「パターン・ランゲージ」の手法を用いて言語化し、共有するというプロジェクトを開始する。

学びのためのヒントを「学習パターン」(Learning Pattern)と呼び、それを多数収録したカタログを制作するのが目的だ。このカタログは、来年度、『SFCガイド』や『講義案内』とともに、オフィシャルな冊子として学部生全員に配布される予定だ。

この制作に携わる有志学生メンバーの募集を、以下のように開始した。

「学習パターン」制作ワーキンググループ
学生メンバー募集!!


◆ワーキンググループの目標
SFCでは、2007年度より「未来創造カリキュラム」が始まりました。この新カリキュラムのもと、学生が「自分自身で “SFCでの学び” をデザインしながら、実際に学んでいく」ことを支援するため、来年度(2009年度)から新しいタイプのハンドブックが配布されることになりました。それが、「学習パターン・カタログ」です。

そこで、この「学習パターン・カタログ」を制作する学生メンバーを募集します。活動内容は、教員や学生へのインタビュー、議論などを通して、SFCでの学びについて考え、「パターン」(考えるためのヒント)としてまとめていくことです。

ぜひ、学習パターン・カタログを一緒につくりませんか? 学年・専門は問いません。SFCの全分野を網羅したいので、いろいろな分野の人の参加が必要です。やる気がある人歓迎です。参加希望の人は、下記のメールアドレスに連絡をお願いします。 SFCでの学びについて考えながら、世界初の試みに一緒にチャレンジしましょう!

◆学習パターンとは
学習パターンとは、SFCで学ぶにあたって「身につけたい知識と能力」と「そのための学習計画のヒント」をまとめたものです。これにより、学生が自分自身の学習計画を作成する支援を行うとともに、学生同士/学生・教員間のコミュニケーションを支援することを目指します。 なお、学習パターンは、建築家のクリストファー・アレグザンダーが提唱した「パターン・ランゲージ」という考え方/方法にもとづいています。大学における学びの支援に用いられるのは、世界で初めての試みになります。

◆活動
定例ミーティング・作業は、水曜日の午後を中心に行います。
(インタビュー等はそれ以外の時間に行います。)

◆連絡先
Learning Pattern WG
教員担当: 井庭 崇(総合政策学部)
学生代表: 仲 里和(総合政策学部2年)

参加希望・質問等は、 LPmail.jpgに、メールでお願いします。
パターン・ランゲージ | - | -

「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」(井関利明)

Book-Izeki1.jpg今日のゼミ輪読で読んだ文献のうち、まず、井関さんの「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」を紹介したい。

「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」(井関 利明, 『創発するマーケティング』, DNP創発マーケティング研究会 編著, 日経BP企画, 2008, p.11~p.82)

この論文は、魅力的な概念・文献を次々と取り上げ、現代社会と知の潮流について論じているものだ。井関さんの話は魅力的だと思うとともに、僕や井庭研が、いかに影響を受け、また同じ方向性を向いているかということを実感する。ここでは、この文献を読んで考えたことをいくつか紹介したい。

「まぼろしのコンセプト」
冒頭で、ジョン・J・ミュースの"Stone Soup"の童話絵本の話が紹介されている。これは、お互いに交流しない閉塞的な村に来た僧侶が、村の中心で、石を入れた鍋「ストーン・スープ」を煮はじめる。すると、それに興味をもった村人が現れ、何をしているのか尋ねては、持っている食材を持ってきて、その繰り返しで、最後には美味しそうなスープができあがる、という話だ。お互いに協力しようとは思っていなくても、「ストーン・スープをつくる」ということをきっかけに、コラボレーションが実現し、成果が生まれる。そして、この話をうけて、井関さんは次の点に注目する。

「『ストーン・スープ』(Stone Soup)という言葉は、まさにマジカル・ワード、あるいはコンセプトである。誰にも具体的なイメージを与えない。それでいて、不思議と好奇心をかき立て、やってみたい、つくってみたいと思わせ、人びとを動機づける。どうやら人びとに、参加してやってみたいと思わせるのは、魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉であるようだ。」(p.14)

この「ストーン・スープ」の話が面白いのは、スープに最初に入れているものが、ただの石だということだ。最終的には、石はスープの具になるわけでもなく、ダシがとれるわけでもない。むしろ、石は変化しないものの象徴であるといえる。しかし、この話の展開にとっては不可欠なものだ。石を入れずに、ただお湯を沸かしているだけでは、この話は成り立たない。「ストーン・スープ」という耳慣れない不思議な言葉が登場するからこそ、その後の村人の行動の連鎖につながっていくのだ。その点が、非常に示唆に富み、興味深い。

僕がこの話を聞いて思い出したのは、シナリオ・プランニングの話だ。シナリオ・プランニングでは、みんなで自分たちの組織の未来シナリオをつくるのであるが、最終的に得られたシナリオは最重要なものではない。それが当たるかはずれるかはあまり問題とはならない。最も重要なのは、シナリオをつくる段階で、いろいろな情報や考え方が共有され、自分たちについての理解が深まることにある。メンタルモデルがすり合わせられることにこそ意味があるのだ。つまり、シナリオ・プランニングでは、シナリオをつくるという目標のもとに、組織学習が行われる。このことは、まったく一緒ではないが、「ストーン・スープ」を目指すと掲げながら、実はストーンは重要でない、というのに、どこか似ている。

また、井関さんがいう「魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉」というのは、僕も意識して使うことがある。例えば、僕の「コラボレーション技法ワークシップ」の授業では、グループワークのテーマを、「見えないものが見える装置を提案する」とか「新しいテーマパークをつくる」というような抽象的かつ魅力的な言葉で設定する。すると、それが何を意味するのかという具体化は、各グループに任されることになる。すると、そこに創造力を発揮するチャンスがあり、独自性が生み出されるきっかけとなる。それを見守る僕としては、みんなが面白い発表をしてくれるのかは不確実であるのだが、それがまた楽しみでもある。何かが(何らかのスープが)できることはわかっているが、どういうもの(どういう味のどういう具のスープ)に仕上がるのかは事前にはわからない。そして、それに参加する人(村人)は、何かの制約や強制されているわけではないので、自分で具体化の内容(具材)を考えることができ、そこにモチベーションが高まる仕掛けがある。このようにして、創発の間接的なデザインを行うことができるのだ。

「魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉」というのは、明確な将来イメージとしてのヴィジョンとは異なる。それに向かって突き進むと、そこが実はゴールではなく、すでにその過程で問題が解決してしまっている、体現してしまっている、というような、いわば「まぼろしのコンセプト」なのだ(この言い方は、井関さんではなく、僕のネーミングによるもの)。人はそれなしでは、動き始めることはできない。そして、コラボすることはできない。しかし、「まぼろしのコンセプト」は、最終的には自然と本質・重要ではなくなり、忘れられていくのだ。

「Becoming」として捉える
散逸構造で有名な物理学者 I・プリゴジンを取り上げ、「Being」と「Becoming」の考え方が紹介されている。井関さんが好んでよく使う考え方だ。僕もこの考え方は普段から話で取り上げるし、僕のなかではかなり定着している考え方だ。

「"Being"(存在)の原義は『…がある。…である』という『一定の存在や状態』を意味している。したがって「確固たる、確立した、動かしがたい存在や状態」が含意されている。つまり、決定論的機械論の世界である。それに対して、"Becoming"の原義は『…になる』ことで、『たえざるプロセス』を意味している。したがって『生成する状態、形成していくプロセス、発展する形』を含意している。それは、生命体、生命進化、あるいは流動体の世界である。人間現象や社会現象をBecomingとしてみることは、それらを変動する環境のなかで、たえず新しい要素を取り入れながら生成し、形成され、自己再組織化していく動的なプロセスとして把えることである。万事を変化の相の下に理解することでもある。」(p.25)

このbecomingの考え方は、まさに井庭研の根幹であり、SFCの本質だ。井庭研は絶えずBecomingであり、SFCもBecomingである。これは、理想の完成形に満たなく形成「途中」にあるということではなく、そのときそのときの実現された理想的な形が、絶えず変化しつづけていくということだ。理想形が変わるのは、自分は変わり、世界・環境が変わっていくからだ。私たちは走り続けなければならない。世界は進みつづけるから。これは、不思議の国のアリスに出てくる「レッドクイーンの法則」に通じるものがある。

「ここではだね、同じ場所にとどまるだけで、もう必死で走らなきゃいけないんだよ。そしてどっかよそに行くつもりなら、せめてその倍の速さで走らないとね!」
ルイス・キャロル(山形浩生訳)『鏡の国のアリス』(2000)

数年前、SFCのオープン・リサーチ・フォーラムのテーマがまさにこれだった(ORF2005『レッドクイーンの法則-知の遺伝子変化を加速せよ-』)。SFCは走り続けるという宣言をしたわけだ。

新しいメディアは、人びとの「意識」と「社会」を変える
井関さんは、「プリント・メディアの知」と「デジタル・メディアの知」の違いについて次のように区別する。

「何よりも、プリント・メディアの世界は、『閉ざされた知の世界』である。印刷物は簡単に書き換えることはできない。・・・・また、書物の書き手は、限られた専門家であるのが普通であり、著者と読者の立場ははっきりと別れていた。その意味でも『閉ざされた知の世界』だ、といえるだろう。それに対して、『デジタル・メディアの知』は、誰もが参加し、いつでも修正、発展させることができる。つまり、確定した知の結果ではなく、プロセスの知だからである。いつ誰によって修正され、組み合わされ、発展させられ、新しい知識を生みだすか分からない。自由な参加と相互作用が前提なのである。しかも、プリント・メディアの世界では受け手であった読者が、デジタル・メディアの世界では『書き込む人たち』に変わり、共同して新しい意味を創造する、『開かれた知の世界』なのである。」(p.42)

「デジタル・メディアの知は、たえざる発見と創造のプロセスの知なのである。こうして、新しいメディアの登場と普及は、新しい知のパタンをつくりだし、人びとのコミュニケーションと社会関係の形を変えていく力をもつのである。」(p.44)


もちろん、これはよく言われることではあるが、この点を押さえておくことはとても重要だ。メディア論は、メディアそのものを論じるだけでなく、それがもたらす意識の変化と社会の変化までを含めて考えなければならない。そういうことだ。

ちなみに、井庭研の今後の輪読文献との関係でいくと、文字メディアの登場と普及による変化は『声の文化、文字の文化』(オング)、印刷メディアの登場と普及による変化は『想像の共同体』(アンダーソン)のところで考えることになる。デジタル・メディアの登場と普及による変化については、『リキッド・モダニティ』(バウマン)や、過去に読んだ『フラット化する世界』(フリードマン)、『ウィキノミクス』(タプスコット)などが論じている。

ここで、意識と社会と書いたが、これはルーマン理論でいうと「心的システム」と「社会システム」ということだ。新しいメディアが生まれると、「心的システム」と「社会システム」における連鎖の流れが変化する。その点を分析しなければならない。

中間層を上げる
デジタル・メディア時代における創発の担い手について、以下のような記述があった。

「かなりの知的程度をもち、メディア・リテラシーを備えた多数多様な人びとが、伝統的なテクノクラートや専門家とは異なる地平に、新しい「知的中間層」として登場してきたように思われる。この意味での「知的中間層」こそが、「創発社会」の新しい担い手となり、またビジネスのミライをも大きく左右する新しいパワーなのだろう。」(p.39)

この点はまさに、以前の宮台さんとの対談で僕が主張していた点だ。エリートを伸ばす必要があるという宮台さんに対し、僕はそれも重要だが、中間をいかに上げるかがポイントだ、ということを主張した。僕は、やはり、新しい「方法」と「道具」を中間層に普及させ、その人たちの支援をしたいと考えている。PlatBoxのシミュレーション・プラットフォームも、パターン・ランゲージも、社会システム理論も、僕にとっては、中間層が新しい発想・方法によって飛躍するためのツールなのである。そこを狙って、僕はその方法・道具の研究をしている。それを、新しいタイプの「知と方法」の探究として、学問分野に縛られることなく行っていく。まさにそういうことを目指しているのだ。

以上、面白い部分のほんの一部だけを取り上げたが、この論文ではさらに「クリエイティブ・クラス」や「ハイコンセプト」、「リキッド・モダニティ」、「マルチチュード」、「クラウドの知恵」など、最近話題となっているキーワードはほぼ網羅している。この魅力的な編集の仕方が井関さんらしい。井関先生は、非常に興味深い文献をむすびつけて、新しい「知と方法」については、「メディア」について論じてくれる。この一歩引いてとらえる視点と力量にはいつも関心させられる。とても魅力的なのだ。ただ、よくも悪くも井関先生は思想の方なので、僕らの役目というのは、その思想を受け継ぎ、具体化して実践することなのだと思う。その役目を楽しみながら、がんばりたいと思う。
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インターリアリティ プロジェクト(2008年度春学期)スタート!

interreality.jpg大学院プロジェクト「インターリアリティ」プロジェクトが始まった。

今年度は土屋さんがいないので、熊坂先生と僕の二人での担当となる。今年は僕らの研究室から修士に上がる学生がいなかったので、「このプロジェクトも少し寂しい感じになるねぇ」と思っていたが、学期が始まってみると、新規メンバーや聴講の学部生もいて、それなりの人数になった。

先学期の輪読では、ルーマンをはじめ社会学系の文献が多かったが、今学期は複雑系関連の理論を学ぶほか、データベースを使いこなす、というのがテーマである。まず複雑系関連では、べき乗分布やネットワーク科学の数理的な面を強化する。輪読する本は、『Scale-Free Networks: complex webs in nature and technology』(Guido Caldarelli, Oxford University, 2007)。Book-Network.jpg昨年出たばかりの本で、基礎的な考え方から最近の手法までを紹介してくれている。また、いろいろな分野におけるネットワークの可視化や解析の事例も紹介されているので、全体を見渡すのに適している文献だと思う。ちょうど昨年のネットワーク科学国際会議( International Workshop and Conference on Network Science '07)のころに出版されて、著者がアピールしていたり、バラバシがプレゼンの中で紹介したりしているのを覚えている。


さらに、べき乗分布に関するニューマンの論文も読む予定だ。しかし、いきなりこれらの専門的な文献に行くとなると、初心者にはきついかもしれないということで、イントロダクションとして、最初にひとつ日本語の文献を入れることにした。それは、『歴史の方程式:科学は大事件を予知できるか』(マーク・ブキャナン, 早川書房, 2003)だ。Book-Buchanan.jpgこの本は、僕がとてもおすすめしたい本で、べき乗分布に関する研究の歴史がしっかり書かれている。この本の著者は、この次に出した本『複雑な世界、単純な法則:ネットワーク科学の最前線』で有名なマーク・ブキャナン。博士号をもっているサイエンス・ライターだ。『歴史の方程式』自体はあまり有名な本ではないが、複雑系科学の読み物としてかなりおすすめなのだ。僕の授業「モデリング・シミュレーション技法」でも教科書の1つに指定していて、履修者に宿題で読ませている。

データベースについては、SQLなどの基本と実践スキルを少しでも身につけたいと思っている。このようなテーマにしたのは、最近、データの扱いが巧みな人たちの仕事を目の当たりにして、このスキルこそ、いまの僕たちに必要なものだ!と考えるようになったからだ。僕が初めてデータベースについて知った10年前は、データベースで扱える情報に僕が魅力的だと思うようなものはなかった。いうなれば「データをインプットして溜めるための技術」というくらいの認識だった。しかし、インターネットが普及して膨大なデータが取れるようになった現在では、データベースは、もはや「アウトプットのための分析スキル」の一部になったということを感じた。実データの解析にしても、シミュレーション結果の解析にしても、僕らはもっともっと使いこなせるようにならないと! この春、そう痛感したのだ。そこで、インターリアリティプロジェクトでは、複雑系の数理的な面を強化するだけでなく、データを実際にさばける能力をつけることにしよう、というわけだ。先学期ルーマンを読んだメンバーで、べき乗分布やデータベースのこともやる。新しい社会学には新しい方法と道具が必要だ―――これこそが、インターリアリティ流なのだ。

もちろん今学期も、熊坂先生の昔話や、僕と熊坂先生とのトークは欠かせない。結局、ここが一番面白かったりするんだよね。
井庭研だより | - | -

『あそぶ、つくる、くらす』(五十嵐 威暢)

Book-Igarashi.jpg本屋さんでとても素敵な本に出会った。デザイナーから彫刻家になった五十嵐 威暢さんという方の言葉と作品を紹介する本だ。

『あそぶ、つくる、くらす:デザイナーを辞めて彫刻家になった』
(五十嵐 威暢, ラトルズ, 2008)

この五十嵐さんという方を僕は存じ上げないのだが、本の質感と「あそぶ、つくる、くらす」というタイトルに惹かれて、手にとってみたというのが出会いのきっかけだ。五十嵐さんは、子供が自然に行っているような「あそぶ、つくる、くらす」が一体化した世界を目指している。

「僕の彫刻家としての活動は、『あそぶ、つくる、くらす』を、ひとつのものに再構築すること。それは大人にとっても極めて大切なことだと思う。」

なぜ大切なのかというと、それらは表裏一体なものだからだ。

「子どもたちがそうしているように
人はあそぶこととつくることを通して
いつのまにか自由を獲得し、豊かなくらしを手に入れる」(p.56)

たくさん紹介したいコトバが詰まっているが、実際に本で読んでほしいので、今はこれ以上引用することはしないことにしたいと思う。「つくる」ということの本質が書かれている素敵な本なので、ぜひ、実際に手にとって味わってほしい。
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ハイエク、ルーマン、アレグザンダーをつなぐ

最近僕は、経済学者/社会哲学者のフリードリッヒ・ハイエクと、建築家のクリストファー・アレグザンダーの思想を、社会学者ニクラス・ルーマンの社会システム理論を介してつなげることができないかと考えている。

フリードリッヒ・A・ハイエク(1899年~1992年)は、「自生的秩序」や、その秩序を生み出す行動の「ルール」、そして「現場に分散する知識」などの概念を提唱している。クリストファー・アレグザンダー(1936年~)は、「成長する都市」や、建築における名づけ得ぬ質を関係性の「パターン」として捉え、その知識を「パターン・ランゲージ」として記述・共有することを提唱している。どちらも自生的な秩序形成と知識の役割について議論しているといえる。

分野が異なるので、あまり比較されることがない二人であるが、とてもよく似た主張をしている。たとえば、ハイエクは、社会は「自然」と「人工」の間の「自生的な」存在であり、一部の人間が「設計」するということはできないと主張し、以下のように語る。

「文明は人間の行動の産物、あるいはもっと正確にいえば数百世代の人びとの行動の産物である。しかしその意味するところは、文明が人類の設計というのではなく、また、文明の機能あるいはその存続が何に依存しているのかを人間が知っているということでもない。文明を構想しその創造に着手することのできる知性を前もって与えられている、とする人間の概念はすべて根本的に誤っている。人間は知性のなかでつくりあげたある型を世界にそのまま押しつけたのではなかった。人間の知性それ自身、環境適応の努力の結果としてたえず変化する一つの体系である。」(Hayek, 1960: p.39)


このような観点から、ハイエクは、計画経済の社会主義を批判するのだ。一方、アレグザンダーも、建築の分野で次のように語っている。

「町の創出や個々の建物の創出は基本的には一つの発生【ジェネティック】プロセスである。いかに数多くの計画や設計をもってしても、このような発生プロセスに置き換えることはできない。しかも、いかに数多くの個人的才能をもってしても、このプロセスに置き換えられない。」(Alexander, 1979: p.197)


こうしてアレグザンダーは、建築家が都市計画や建築物を近代的な方法で設計するやり方について批判するのだ。

社会の秩序は、自生的に(自己組織的に)成長することが重要なのであって、外から誰かがつくるということなどできない。だからといって、なんでもありというわけにはいかない。そこで、人びとの自由や創造性を阻害することなく、秩序を「育てていく」ための工夫が必要になる。ハイエクは抽象的な「制度」に着目し、アレグザンダーは抽象的な「パターン」に着目する。着目点こそ異なるが、目指すところは一緒なのだ。このほかにも、ハイエクとアレグザンダーには、秩序や知識の議論において共通点が多い。

もちろん、両者には差異もある。それは、ハイエクは主に社会制度(体制)について考えるのに対し、アレグザンダーは建造物・空間について考えるという点だ。この違いは、同じ「自生的秩序」に注目しているものの、社会哲学者と建築家という違いからくるものだといえる。

僕は、ハイエクとアレグザンダーの共通部分をとるのではなく、両者の和集合をとって、より包括的な自生的秩序&知識の理論が展開できるはずだ、と考えている(参照)。

HLA200.jpgそのとき、実は二人とも具体的な秩序形成のメカニズムについては言及していないので、その部分を担う体系が必要となってくる。そこで、同じく自生的秩序観をもっていると思う社会学者ニクラス・ルーマン(1927年~1998年)の社会システム理論をあてがうとよいというのが僕の構想だ。


以上の内容を、先月鹿児島で行われた進化経済学会で発表してきた。とりあえずは試論として、三者を同じ土台に載せるということはできたのではないかと思う。発表した場が進化経済学会だったこともあり、「ハイエクやルーマンは知っていたが、アレグザンダーは知らなかったのでその点が興味深かった」という感想を多くいただいた。また、研究の進め方についてもアドバイスをいただいたので、それを踏まえてさらに深めていきたいと思う。

HLAhistory200.jpg今回、ハイエク、ルーマン、アレグザンダーの発表文献の年表もつくってみた。関係性を書き込んでいないので、まだ何ともいえないが、きっとここからもなにか見えてくるだろう。

『ハイエク、ルーマン、アレグザンダー年表』(PDF, 井庭崇, 2008)


● 井庭 崇, 「ハイエク、ルーマン、アレグザンダー: 自生的な秩序形成と知識の理論」, 進化経済学会第12回大会, 鹿児島, 2008年3月
社会システム理論 | - | -

一緒に学ぶ仲間とともに。

今学期の井庭研は、サブゼミも充実している。今週スタートしたサブゼミは、以下のとおり。

ルーマン サブゼミBook-Luhmann.jpg
ニクラス・ルーマンの社会システム理論を英語で読むサブゼミだ(もともとルーマンの著作はドイツ語で書かれているので、ここで読むのはその英訳版)。読むペースとしては、基本的には授業「社会システム理論」の宿題の進行に合わせて、その該当部分を英語で読んでいく。ルーマン用語の日本語-英語対応リストなども作成してみたいと思う。
『Social Systems』(Niklas Luhmann, Stanford University Press, 1995)

量子社会 サブゼミBook-Zohar.jpg
『The Quantum Society』という本を読みながら、量子力学と社会科学の関係づけを試みるサブゼミ。この本は、量子力学の考え方にもとづく社会観について1冊を割いている、世界で唯一の本だと思う。このサブゼミを通じて「量子力学にもとづく社会科学」を構想したいと思う。
『The Quantum Society: Mind, Physics and a New Social Vision』(Danah Zohar, Ian Marshall, William Morrow & Co, 1994)

ハイエク サブゼミ Book-Hayek.jpg
「自生的秩序」をはじめとして、フリードリッヒ・ハイエクの考え方を理解することを目指すサブゼミ。ハイエク自身の『法と立法と自由』などや、『ハイエクと現代リベラリズム』などの本を、参加者の興味に合わせて各自が読んできて、報告しあう。
『法と立法と自由〔Ⅰ〕:ハイエク全集1-8新版』(ハイエク, 春秋社, 2007)
『ハイエクと現代リベラリズム:「アンチ合理主義的リベラリズム」の諸相』(渡辺 幹雄, 春秋社, 2006)

英語 サブゼミ
スピーキング、リーディング、文法など、英語の勉強をしようというサブゼミ。この時間は英語でスピーキングを行うということにも挑戦。いま井庭研では英語熱が高まっていて、ゼミ生の約半分がこのサブゼミに参加している。

インターリアリティ プロジェクトBook-Network.jpg
サブゼミではないが、井庭・土屋・熊坂で担当する大学院プロジェクト「インターリアリティ」では、今学期はネットワーク科学やべき乗分布の理論について輪読する。また、大量のデータを扱うデータベースのスキルの向上も目指す。
『Scale-Free Networks: complex webs in nature and technology』(Guido Caldarelli, Oxford University, 2007)


これらのうち、時間的に参加できない英語サブゼミを除いて、僕は上記のほとんどに参加する。一緒に学ぶ仲間がいて、本当にしあわせだなぁ。

    SubSeminar2.jpg SubSeminar1.jpg
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天気がよかったので。

KamoikeSeminar.jpg天気がよかったので、今日のゼミは鴨池のほとりでやることにした。せっかくの晴天なのに教室にいると気分が滅入るかな、と思って。外が明るい分、部屋の中はどうしても影になってしまうから。
こうして、井庭研週2体制の最初の金曜ゼミは、芝生の上で行われることになった。風もあまりなく、とても気持ちよく過ごせた。とはいえ、5時半にはさすがに寒くなったので、共同研究室に移動したのだけど。

今日のゼミの内容は、研究テーマ発表。今学期取り組むテーマについて3分間語る。1枚のレジュメにまとめて、それを配って説明する。「テーマが曖昧な人は、事前に僕のところに相談に来るように」と言ってあっただけあって、みんなだいたいの方向性は定まっていた。新しい教育・学習支援の方法や、コミュニケーションの観点からの社会分析、e302Seminar.jpg自生的秩序の研究、生命・複雑系のアートなど、僕からみると、どの研究もとても面白そうなものばかり。今後の進展が楽しみだ。
来週から金曜ゼミでは、研究レビューが始まる。週3人ずつ自分の研究の中間報告をし、それをみんなでレビューするというものだ。一緒に研究を育てて、かたちにしていきたい。
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