井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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井庭研OB初の結婚式に参加

wedding1.jpg井庭研OB初の結婚式に出席した。

新郎は、井庭研が出来てから2年目の卒業生だ。新婦の方は僕はほとんど存じ上げないので、これからのお付き合いとなる。

当たり前といわれるかもしれないけど、席次表の僕の名前の上には「恩師」と書かれている。これまで「友人」として結婚式に参加することはあっても、「恩師」というのは初めての経験。僕らの関係は、先生・学生というよりは、先輩・後輩という感じに近かったようにも思うが、改めてそういう言葉をみると、少しドキっとする。そして、そんなたいそうなもんじゃないけどね~、と照れてしまう。その名に恥じぬよう、もっともっとしっかりしなきゃ、とも思う。

披露宴では、カメラマン気取りで、一眼レフのデジカメで撮影しまくった。勝手にやっているので、気が楽だ。頼まれているわけではないので、プロが撮るようなベストショットを狙わなくて済む。そのかわり、オフィシャルなものとは少し違った視点から撮影する。

そうそう。僕はスピーチがないので安心していたら、お色直しのときに新郎をエスコート(?)する役に指名されて、とても驚いた。そんなこともあるんだね。びっくり。

2次会は白金台のレストランを貸し切って行われた。披露宴に出席していない研究会OB・OGも加わり、みんなで祝った。研究会OB・OG有志からのプレゼントも、ちょっぴりユーモアを交えながらも、実用的なものを贈った。

3jikai.jpg3次会は、近くのおしゃれなバーへ。3次会といっても、新郎・新婦がいるわけではないので、どちらかというとOB・OG会という感じで、いろいろな話ができた。ワインもボトルをあけ、かなりよい気分に。現役メンバーと一緒の「打ち上げ」ではなく、OB・OGだけとまったりと飲むという機会がこれまでなかったが、やっぱりこういうのもいいね。みんな徐々に大人になっているなぁ。そんなことを感じながら、とても素敵な時をすごすことができた。

ということで、なにはともあれ、結婚したお二人、おめでとう! お幸せに (^_-)☆
井庭研だより | - | -

幻のバンド !? リアル・ライフ・ファクトリー

最近ちょっとまじめな硬い話が多いので、少しくだけた昔話を。

僕が博士課程に入ったとき、先輩に「なにはともあれ、D1(博士1年)は遊べ」と言われた。それ以降は遊べなくなるから、という意味だったと思う。そうか、D1は遊んでいいのか、ということで、いろんな遊びをした(笑)。1999年だから、いまから約10年前のこと(いま思えば、この1年遊んだから、博士修了が遅れたのかもしれない)。

その遊びのひとつとして、即席の大学院生バンドを組んで学園祭(SFC秋祭)に出たことがある。メンバーは、同じ大学院プロジェクトのD1植野と、修士の島くん、ミゾエ、おっちー。僕は作詞とボーカルを担当した。このメンバーのなかで、バンド経験者は植野だけ。しかも、彼は本来はギタリストなのだけど、このときはドラムに初挑戦した。おっちーは趣味でギターを弾いていたが、バンド経験は無し。僕も、カラオケが好きという程度で、基本的に初心者(昔ロック研に半年だけいたけど)。ベースのミゾエは楽器経験全く無し、キーボード&コーラスの島くんも未経験者だ。

そんな未経験者ばかりの即席バンド(結成からライブまで3ヶ月!)にもかかわらず、僕らはオリジナル曲にこだわった。できるかわからないけど、とにかくやってみる。誰かがつくったありものの曲のコピーではなく、自分たちの言葉・音を届けよう。下手でもいいじゃないか、自分たちの言葉・音なんだから。そう考えて、自分たちで作詞・作曲した。なので、3ヶ月間は練習のためというよりも、曲づくりの時間となった。作曲は基本的には、植野がギターでつくっていった。本当にすごいと思う。曲をつくるということは、とてもすごいことだ。

TheRealLifeFactory420.jpg


僕らのバンドのバンド名は、「The Real Life Factory」(リアル・ライフ・ファクトリー)。「リアル」とか「ライフ」とか、僕の好きな言葉を入れたのと、歌を通じて「リアル」な「ライフ」(人生、生活、生命・・・)を生み出したいという思いがあった。だからこそ、僕らはリアルな日常を歌うし、歌によってライフがリアルになっていくことを願う。そんなイメージだ。

僕らの身の丈にあった僕らの生活圏を歌うということを、ある意味とことん突き詰めたのが、「Sur Long Dayz」という曲。これは、「シュール・ロング・デイズ」と読むのだけど、実際には歌では「シューロンデイズ」と聴こえる。そう、「修論」(しゅうろん)=修士論文の歌なのだ。僕らがこの歌を作る半年前に経験した修論執筆の日々を、歌にしてみたわけだ。半分以上冗談でつくった曲だけど、オーディエンスのなかでは一番人気だった。曲もメロディアスでいい感じだしね。僕もこの曲、お気に入りだ。本当の意味で自分たちの歌だしね。

あ、修論の日々を歌ったものなので、修論を抱えている修士2年生が聴くと「微妙にブルーになる曲」だということなので、ご注意を。提出してから聴きましょう(笑)。でも、提出したら、聴かないか。

歌詞は、こんな感じ。↓


Sur Long Dayz
シュール・ロング・デイズ

                   music by Ken UENO & Takashi IBA
                   arranged by Ken UENO & Tadashi OCHIDA
                   words by Takashi IBA

[1]
今日もいつもの寝癖のままで
つけっ放しの画面に臨む
とりあえずメールを軽く流して
平和な世間を抜け出すんだ

†きっと笑い話になるよなんて
 君の言葉を信じてみることにしよう

‡見えない記号が飛び交う中で
 見たことのない文字の流れを絞り出すけど
 曜日は僕らに何も伝えない
 のっぺりした 僕らの Sur Long Days

[2]
あの人に泣かされたあの夜の
カツ重弁当 ビミョウに旨かった
仲のいいレンジと一緒に
簡単ブランチ お茶漬け食べる

†きっと笑い話になるよなんて
 君の言葉を信じてみることにしよう

‡見えない記号が飛び交う中で
 見たことのない文字の流れを絞り出すけど
 曜日は僕らに何も伝えない
 のっぺりした 僕らの Sur Long Days

‡見えない記号が飛び交う中で
 見たことのない文字の流れを絞り出すけど
 曜日は僕らに何も伝えない
 のっぺりした 僕らの Sur Long Days


                   Copyright(C) 1999, The Real Life Factory


歌詞だけじゃ、あんまりよくわからないよね。「これ!」というよい音源がないのが残念なのだが、1999年の学園祭ライブの録音があるので、それを公開しよう。ビデオから採った音なので音質やバランスは、はっきりいってよくない。あと、あらかじめいっておくけど、僕ら、音をはずしたりするけど、それもまあ、ご愛嬌ということで(笑)。

icon-face-mini.gif 「Sur Long Dayz」(MP3音源: The Real Life Factory, 1999)

恥ずかしいけどさ、ま、昔のことだからいいかな、と思って。。
よかったら、聴いてみてね。そして感想をきかせて。

うーん、でも恥ずかしいな、やっぱり。。。(>_<)
ちょっと昔の話 | - | -

『プチ哲学』(佐藤雅彦)

Book-Puchi.jpg佐藤雅彦さんの『プチ哲学』を読んだ。

『プチ哲学』(佐藤雅彦, 中公文庫, 中央公論新社, 2004)

学習パターンプロジェクトのときに「かわいい!」と話題になったので、さっそく生協で買ってきたのだ。単行本のときから気になってはいたが、ようやく読めた。

この本では、佐藤さんのかわいい絵による漫画と、それに関する「哲学」がセットになって提示されている。漫画では、佐藤さんらしいかわいい世界観と独特のリズムが表現されている。ちっちゃなキャラがちょこまかするような、ちっちゃな世界。『プチ哲学』は、まさにそんな世界で描く「プチ」哲学の本だ。

内容については、ネタばれしちゃうので細かくは書かないけれど、僕が好きだったのは、「ひよこの誕生」と「かわいい勘違い」と「お昼寝の時間」。そして、漫画が意味もなくかわいい「立方体の寝かた」、「なるほど!!!」と唸った「中身当てクイズ」。これ以外にも、素敵なものがたくさんあるので、ぜひ実際に実物を読んでみてほしい。文庫版は安いし持ち運びやすいので、おすすめ。

あと、ちょっとしたことなのだけど、僕がうまいと思ったのは、次のような構成になっているところ。各章は、「お話のタイトル」から始まり、「漫画」が入ったあと、「哲学の言葉」がくるという構成になっている。「漫画」→「哲学の言葉」はよくあるカタチだけれども、その前にちゃんと「お話のタイトル」を配置しているのがポイントだと思う。ふつうは、最初に「哲学の言葉」を持ってきがち。ふつうなら、そうしちゃう。でも、佐藤さんは、わくわくして漫画の世界に入れるように、ちゃんと「お話のタイトル」を最初にもってきている。これが「哲学の言葉」から入ってしまうと、「漫画」は「哲学」にぶらさがってしまう。そうではなく、この本では、「漫画」に「哲学」がぶらさがるかたちになっている。これだからこそ、教訓じみた感じがなく、漫画を読む感覚で読み進められるようになっている。さすが、佐藤さん。と思った。

最後に、佐藤さんの言葉を引用したいと思う。

「『考える』ということを、自分は何のためにやっているかというと、このパン! という瞬間に生まれる『!』の『喜び』のためにやっている、といっても過言ではない。自分の頭の中で、このパン! が一日一回でも来ると『生きている』感じがして嬉しい。」(p.154)

心から同感する。僕がなんで研究活動を続けられるのかというと、この閃きの瞬間が本当に心地よいからなんだと思う。一般的なイメージでいうと、研究者というのは、なにやら小難しく考えることが好きな人だと思われているようだが、実はこのたまにくる閃きの瞬間が忘れられない人たちなのかもしれない。この閃きの瞬間こそ、研究の本質的な瞬間なんだと思う。そしてこのことは、研究以外の創造的な活動にも言えることだと思う。

閃きの快感と達成感を燃料に、今日も僕らは走り続ける。ブーーン!  εεεεε micro-siro.gif
最近読んだ本・面白そうな本 | - | -

学習パターンプロジェクトの進捗報告

LearningPattern3.jpgいま、学習パターンプロジェクトでは、「SFCにおいて、自分の目的に応じてどのように授業を履修し、学習していけばよいのかを考える」ことを支援する方法を研究・開発している。具体的には、「SFCらしい学び」のヒントを、「学習パターン」(Learning Pattern)として記述し、共有する仕組みを考えている。

この「学習パターン」という方法の背景には、「パターン・ランゲージ」という考え方がある。パターン・ランゲージは、もともとは建築の分野において、古き良き街に潜むパターンを抽出し、それを記述するために提案された。その後、ソフトウェアの巧みな設計についてのコツを記述する方法として導入され、有名となった。最近では、デザインや組織論などにも応用されている。学習パターンは、このパターン・ランゲージという方法を、学習支援に用いるという試みだ。

SFCでは、国際関係から組織・経営、人文・思想、情報技術、デザイン、建築、生命科学にいたるまで幅広い分野の専門科目が提供されている(注:一般教養としてではない)。しかも、1年生から4年生まで、学年に関係なく好きな科目を好きな時期に履修することができる。それゆえ、「どの科目をどのタイミングで履修するのか」や「どのように何を学ぶのか」という、学生自身によるセルフプロデュースが重要となる。そのための支援を、僕らは「学習パターン」を用いて行いたいと考えている。

学習パターンでは、学生の多様な状況・将来像に合わせて適用できるようにするように、「身に着けたい能力」と「そのための学習・履修計画案」の組み合わせをパターンとして記述し、まとめていく予定だ。それらのパターンをたくさん集め、カタログ冊子にまとめる。このカタログ冊子は、来年度、『SFCガイド』や『講義案内』とともに、オフィシャルな冊子として学部生全員に配布されることになっている。

LearningPattern1.jpg学習パターンプロジェクトの学生タスクフォースチームは、春学期、昨年度から始まったSFCの新カリキュラム(未来創造カリキュラム)の構成について、その理念・思想・仕組みを理解することから始めた。『SFCガイド』や『講義案内』を熟読し、さらにカリキュラム改定に深くコミットした僕からいろいろな話を聞いて理解を深めていった。

その過程でわかってきたのは、新カリキュラムの思想や意図がほとんど学生に伝わっていなかったという事実だった。ガイドブックには書いてあっても、そんなにじっくりは読まないし、読んでも心にひっかかることなくスルーしてしまったのだろう。1年間そのカリキュラムのもとで学んできたにも関わらず、たとえば「創造融発科目ってそういう意図の科目だったのかぁ。確かに!」というような声を何度も聞いた。ということで、この過程を通じて、チームメンバー自身がSFCのカリキュラムを深く理解できた。これが春学期の一番の成果といえるかもしれない。

LearningPattern2.jpgさて、その後、学生タスクフォースチームが行ったのは、それぞれの科目群における「学び」のポイントを考えるということだ。各科目群はどのような意図をもって設置されたのか、そして、その科目において学生は何を学べばよいのか。そういうことを考えていった。できるところにはキャッチーなフレーズを考えたりしながら、その魅力を表現しようと試みた。

そして、学期末には、それまで考えてきたことを、最終的にどのようなカタチにまとめていくのかについて議論した。パターン・ランゲージには、これがベストという決まった形式があるわけではない。C・アレグザンダーによる建築のパターン・ランゲージは叙述的に書かれているし、ソフトウェアの世界では項目別に整理されて記述される。各パターンをどのように書くかは、誰が読むのかということや、そこで何が語られるのか、ということと深く関係している。さらに、パターン・ランゲージは、たいてい数十~数百個のパターンから構成されるので、それらはカタログの形式でまとめることが多いが、それをどのようにまとめるのかということも考えなければならない。

議論の結果、「学習パターン」が本当に有効活用されるためには、次の二点について考えるべきだ、ということになった。

(1)50~100個のパターンからなる分厚いカタログ冊子はほとんど読まれないだろう。どうしたら読んでもらえるかを考えるべき。
(2)「SFCらしい学び」の支援であれば、履修選択の時期だけでなく、学期中絶えず参照できるようにすべき。

この二つのポイントを考慮して、次のようなアイデアや方向性がでてきた。

● A4サイズではなく、手帳くらいのサイズにして、厚さも薄くする(そして、ウェブに載せる情報と冊子に入れる情報を選別する)。
● 読むだけのものではなく、書き込めるようにする。たとえば、自分の時間割を書き込めるようにする。
● 本質的に重要な「学習パターン」を10個程度にする。絞り込んで、本当の意味での「共通言語」化を目指す。
● 科目の組み合わせについては「おすすめ履修メニュー」で示すことにして、学習パターンとは分けて考える。
● 【学期始め】の履修選択時のコツだけでなく、 【学期中】の学びのコツや、【学期末】の振り返りのコツなども取り上げる。
● 「リサーチ・パターン」も10個くらい掲載する。「研究プロジェクト中心」を謳うSFCにおける学びでは、「研究」活動の支援は重要。
● イラストやデザインについても工夫する。佐藤雅彦さんの『プチ哲学』のような魅力を入れたい。

今後は、これらのアイデアや方向性を活かしたパターン作成に取り組んでいく。

【関連情報】
「SFCカリキュラムにおける学びと研究の支援:学習パターンとリサーチ・パターンの融合へ」(小林 佑慈)
パターン・ランゲージ | - | -

データベース勉強会

database.jpgインターリアリティプロジェクトの番外編として、データベース勉強会を行った。学期中にも何度かデータベースの勉強会をしたが、一日かけて残りをやろうということになった。学期末の研究発表会の翌々日にもかかわらず、共同研究室に集まって、まじめに「勉強」をした。うん、実にまじめだ。

『書き込み式SQLのドリル:ドンドン身に付く、スラスラ書ける』をテキストにして、熊坂研の川崎さんにレクチャーしてもらう。そして、各自、この本の練習問題に取り組み、実際に自分のPCで実行してみる。データベースには馴染みがないので、ごく簡単なところから始めた。どこまで力がついたかはまだ自分でも判断がつかないが、SQL(データベース言語)を用いてデータベースを操作するということが、どういうことなのかは、なんとなくわかった気がする。あとは実践のなかで、もう一度本を片手に、思い出しながらやるしかない。その基盤ができたことが重要だと思う。

book-sql.jpg『書き込み式SQLのドリル:ドンドン身に付く、スラスラ書ける』(山田 祥寛, ソシム, 2006)

この本は、タイトルに「ドリル」という言葉が入っていることからもわかるように、練習問題が多く、考えさせる構成になっている。ほかにもいくつか入門書をみてみたが、どれも「読む」ことがベースとなっていて、自分が「わかった」のか「わからない」のかが、よくわからない。この本だと、練習問題で、自分がいかにわかっていないかを痛感させられるので、立ち止まって考えることができる。タイトルや装丁は軽そうに見えるけど、意外といい。これから学ぶ人におすすめだ。
井庭研だより | - | -

『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)

book-zero.jpg若手評論家 宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』を読んだ。

『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛, 早川書房, 2008)

具体的な物語のところは飛ばし飛ばし読んだものの、一気に最後まで読んだ。文章もしっかりしていて読みやすく、期待の若手という感じだ。最近の批評と違って、僕でも知っている有名な漫画やドラマが取り上げられているので、その意味でも身近に感じた。

僕は、個人や社会のもつ「想像力」に興味がある。いま書いている本にも想像力に関するものがあるので、書店でこの本を見たとき、まずタイトルに惹かれて手に取ってみた。すると、いきなり最初から、日本における批評の現状を鋭利な言葉でぶった切っていた。これはただごとではないな、と思った。

「残念だが、二〇〇一年以降の世界の変化に対応した文化批評は国内には存在していない。それは現在、批評家と呼ばれるような人々が、この二〇〇一年以降の世界の変化に対応することができずに、もう十年近く、国内の『批評』は更新されずに、放置されていたのだ。」(p.12)

「端的に本書の目的を説明しておく。まずは九〇年代の亡霊を祓い、亡霊たちを速やかに退場させること。次にゼロ年代の『いま』と正しく向き合うこと。そして最後に来るべき一〇年代の想像力のあり方を考えることである。」(p.12)

宇野さんは、1978年生まれということで、僕よりも4歳下にあたる(この本で批判の対象となる東浩紀さんは1971年生まれ、つまり僕は二人の真ん中に位置する)。そういう下の世代が、上の世代が考えたり論じたりしていることは時代遅れだ、と指摘しているのを読むと、ドキっとする。自分はどうだろうか、と考えてしまう(もっとも、この本で指摘されている「時代遅れ」の考え方は、僕はとっていなかったが)。

この本では、1990年代の「古い想像力」と、2000年代(つまりゼロ年代)の「新しい想像力」を比較しながら、時代がシフトしていることを描き出そうとしている。これは、物語作品の批評という点からだけでなく、社会論として読んでも興味深い。


■「古い想像力」と「新しい想像力」

宇野さんが指摘する「古い想像力」と「新しい想像力」について、紹介しておこう。

まず、「古い想像力」というのは、「九〇年代後半的な社会的自己実現への信頼低下を背景とする想像力」(p.15)である。そこでは、アイデンティティの拠り所が、「~する」「~した」という「行為」に結びつけられるのではなく、「~である」「~ではない」という「状態」に結びつけられる。そのため、問題に対する解決は、行為によって状況を変えることでなされるのではなく、自分の位置づけを解釈し直すことでなされる。この想像力のもとでは、「何が正しいことかわからない、誰も教えてくれない不透明な世の中で、他者と関わり、何かを成そうとすれば必然的に誤り、誰かを傷つけて、自分も傷つく」(p.16)ので、何も選択せず、社会にもコミットせず、引きこもる、という発想が生み出される。「古い想像力」とは、そのような考え方を指している。物語作品でいうならば、『新世紀エヴァンゲリオン』が、この「古い想像力」を代表する作品となる。

宇野さんによると、二〇〇一年前後、この「引きこもり」的なモードは弱まっているという。それは、アメリカ同時多発テロ、小泉政権における構造改革、「格差社会」意識の浸透などによって、「引きこもっている」だけでは、生き残れないという感覚が出てきたことによる。「ある種の『サヴァイヴ感』とも言うべき感覚が社会に広く共有されはじめた」(p.18)のだ。これが「新しい想像力」である。この想像力を象徴する代表的な作品が『バトル・ロワイアル』だ。「社会が『何もしてくれない』ことは徐々に当たり前のこと、前提として受け入れられるようになり、その前提の上でどう生きていくのか」(p.20)が問題になってきたといえる。

このような「古い想像力」から「新しい想像力」へのシフトに、日本の文化批評はまったく追いついていないというのが、この本の指摘だ。特に、現在の文化批評の代表的な存在である東浩紀への批判は手厳しい。

「東浩紀の九〇年代における活動の集大成的な著作『動物化するポストモダン』(二〇〇一/講談社現代新書)は批評の世界を大きく切り開くと同時に、大きな思考停止をもたらしている。」(p.36)

「『セカイ系』という言葉が発案されたのは二〇〇二年、インターネットのアニメ批評サイトでのことだったが、この時期既に『セカイ系』的想像力は時代遅れになりつつあったと言っていい。しかし『オタク第三世代』を中心に、消費者の急速な高齢化がはじまっていた美少女(ポルノ)ゲームや一部のライトノベルレーベルといった特定のジャンルでは、九〇年代的な想像力の残滓として『セカイ系』が生き残り続け、東浩紀はそれを『時代の先端の想像力』として紹介したのだ。そしてサブ・カルチャーに疎い批評の世界は、東浩紀の紹介を検証することなく受け入れ、かくして、既に耐用年数が切れた古いものが新しいものとして紹介され、本当に新しいものは紹介されず、この国の『批評』は完全に時代に追い抜かれたのである。」(p.31)

こんなふうに、若手が登場するとき、上の世代への批判的立場として登場するというのは、この世界ではある意味常套手段であり、それによって論旨が明確になるという面があるが、それにしてもこの言葉の鋭さ・思い切りに、ドキっとさせられる。「わぁ、言っちゃった。すごいな。」という。

本人たちは交流もあるようだし、謝辞でも東さんへの言及があるので、そういう意味では心配はないが、ぜひ今後も健全な「議論」の連鎖につながってほしいと思う。東さんがかつて上の世代とドンパチやったように、今度は、下の世代の論敵と、刺激的な議論がなされていくのを、一読者として読んでみたいという気持ちがある。

それと同時に、宇野さんの次の本が楽しみだ。「敵」(批判する相手)が明確で、そこに上下差があると、新人登場の「物語」としてこれほどわかりやすいものはない。文脈が明確で、論が立てやすい。そして、チャンピオンへ挑む若手というのは、いつの時代もどんな分野でも、周囲の共感・応援が受けやすい。ほほえましく思われる。だけど、問題はその次だ。二度目も同じ手で行くわけにはいかない。さらに、今後チャンピオンと並んだとき、あるいは追い抜いたとき、倒すべきライバルがいない状況で、どのような論が展開できるのか。そこが本当の勝負どころであり、楽しみなところだ。登っているときは人は意外と強い。登りつめてしまったとき、そこからがきついのだ。その意味で、東さんも、宮台さんも、大澤さんも、大変なんだと思う。もはやそういう自分との戦いの領域に入っているからだ。それでも、本を書き続けている。このことが、僕にはとてもすごいことに思えてならない。


■断片化(島宇宙化)する社会のなかで

最後に、「島宇宙化」し断片化した社会において、重要なのがコミュニケーションだ、という宇野さんの指摘を取り上げたい。だからこそコミュニケーションのあり方を考えるべきだ ――― これについては、僕も同感だ。この本では、そこから先はほとんど論じられていないが、ここから先が僕の研究に関係してくる。

「私たちはたしかに自由を手に入れた。価値観を有し、同じ小さな物語を生きる人々を検索し、その島宇宙の中で信じたいものを信じて快適に生きていくことが可能のように思える。だが、インターネットは検索して、棲み分ける道具であると同時に、世界をつなぐ道具でもある。本来なら出会わなかったかもしれない小さな物語たちが、ウェブという同じ空間に並べられることで接してしまう。よりマクロな次元では小さな物語たちは棲み分ける一方で、ソーシャルネットワーキング・システムのコミュニティのように同じウェブという空間に並列されてしまう。そして異なる小さな物語が同じ空間に並列されることによって、それぞれの小さな物語はその正当性の獲得と自己保存のために、内側に対してはノイズを排除する力が働き、外側に対しては他の物語そのものを否定する力が働く。匿名掲示板、ブログサイトの『炎上』、『学校裏サイト』------小さな物語は他の小さな物語を排斥する排他的なコミュニティとして私たちが生きる世界のあらゆる場面を覆っているのだ。」(p.38)

「自己像の承認を暴力的に要求するのではなく、コミュニケーションによってその共同体の中で相対的な位置を獲得することへ------大きな物語が失効し公共性が個人の生を意味づけない現在、私たちは個人的なコミュニケーションで意味を備給して生きるしかない。だが、これは同時に私たちが生きるこの社会は、すべてがコミュニケーションによって決定されるつつある、ということだ。そして、公共性が個人の生を意味づけない社会に生きる私たちは、コミュニケーションから逃れられない。」(p.316)

「必要なのは、不可避の潮流に目をつぶり、背を向けて引きこもることではない。受け入れた上でその長所を生かし、短所を逆手にとって克服することだ。つまり、どのようなコミュニケーションこそがあり得る形なのか ――― それが現代を生きる私たちの課題として浮上してくる。」(p.317)


現在、僕が執筆している本『「想像の圏外」を想像する』(共著)の視点に通じるものがある。僕らは、宇野さんのように物語作品との関係ではなく、それを社会現象と結びつけて考えているので、まさに上の指摘の点から僕らの論が始まるのだ。ただし、僕らの場合は、排他性によるネガティブな視点ではなく、リアルな社会におけるコミュニティ形成のあり方を考えている。実はこの本、ここ2年くらい断続的に書いていてなかなか終わらないのだが、この夏にはケリをつけたいと思っている。そういう意味で、僕より若い宇野さんの『ゼロ年代の想像力』から、刺激と元気をもらった気がする。
最近読んだ本・面白そうな本 | - | -

井庭研 2008年度春学期 研究発表会 を開催しました

2008prezen5.jpg井庭研 2008年度春学期 研究発表会を開催した。
井庭研の研究発表会は、学会形式で行う。スーツなどフォーマルな格好で、「研究者」としてのプレゼンテーションを行う。司会も、学生自身が行う。そして、井庭研OB・OGが、ゲストコメンテーターとして参加する。

今回発表された研究の一覧は、以前紹介した通りだ(「井庭研 2008年度春学期 研究発表会のご案内」参照)。今学期は、どの研究もそれぞれに面白く、「井庭研らしい」研究に仕上がっていた。もちろん春学期は、一年間かけて行う研究の中間報告的なものになるので、研究の完成度の面では今後に期待!というところもあるが、それぞれに新しい領域を切り拓いているという意味で、素晴らしい成果だと思う。

特に、今学期国際学会などで対外的な発表をしている人は、その活動と研究を両立させるのがかなり大変だったと思う。4年生も、学期半ばまで就職活動をしていたわけで、それを終えてからすぐ研究に復帰し、学期末まで走り抜けた。おつかれさま、と言いたい。

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■ Award ――― ひとつの象徴として
井庭研の研究発表会では、優秀な研究や活動に“Award”を授与している。ある観点からみて「模範」・「象徴」となる研究や活動を行った人を僕が選び、授与するものだ。そのときどきによっていろいろな種類の“Award”がある。

まず今学期の「井庭賞」(Iba Award)を受賞したのは、三宅論文と下西論文。この二人は、この春学期に、先学期までの研究成果を国際学会で発表しているのだが(三宅発表、および下西発表)、井庭研論文では、その具体的研究を広い視野のもとで位置づけし直す、ということに挑戦した。このように、個別研究をより大きなコンテクストのなかに位置づけるということは、単に「やってみたらこうなった」という研究を超える意味で、とても大切なことだ。その意味で、この二人が行ったことは、「模範」的であるとして、井庭賞を授与した。

「『場』とコミュニケーション:創造的なコミュニケーション・メディアのために」(三宅 桐子)
「科学と芸術の関係について:レオナルド・ダ・ヴィンチを事例に」(下西 風澄)

「新人賞」(Kick-Off Award)は、花房論文と坂田論文。それぞれ、今学期から井庭研に参加した2年生と3年生だ。初学期の成果としては、十分しっかりしたものとなっただけでなく、とても魅力的だ。今後の展開が楽しみだ。

「オートポイエティック・システムとしての音楽:ルーマン理論に基づく音楽の創発現象の考察」(花房 真理子)
「付加価値の連鎖による環境保全と地域活性:茨城県霞ヶ浦再生事業「アサザプロジェクト」を事例にして」(坂田 智子)

そして、「多面的活動賞」(Multi-Activities Award)という賞を,
成瀬さんに授与した。成瀬さんは、今学期、実にいろいろな研究活動を展開した。まず、ロスで行われた日米数理社会学会合同会議では、先学期から取り組んでいた「生態系をオートポイエティック・システムとして捉える」という研究を発表した。また、「プロジェクト推進のためのパターン・ランゲージ」の英語版を作成し、井庭研論文では「地域活性化のためのパターン・ランゲージ」の研究に取り組んだ。また、井庭研で取り組んでいる「学習パターン」プロジェクトに参加しているほか、今学期から始まった「英語サブゼミ」をとりまとめ、「量子力学サブゼミ」にも参加している。このように、今学期に本当に多くの分野・テーマの活動にコミットした。その精力的な姿勢は、評価に値すると思う。

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このほか、プロジェクトへのAwardとしては、企業との共同研究で、商品市場の実データ解析に取り組んだ「市場分析プロジェクト」に“Hard-Work (^_^) Award”、そして、個人研究とは別に多くの人が参加した「学習パターンプロジェクト」に“Collaboration Award”を贈った。

研究発表会でAwardを授与するというのは、実は、かつての竹中研の伝統から受け継いでいる。竹中先生いわく、「賞は人をつくり、人は賞をつくる」。賞をもらった人は、エンカレッジされて、さらにがんばる。その結果、その人が大成すると、その人がかつてもらった賞だということで、賞の価値があがる。このような連鎖によって、賞と人はお互いに高めあうのだ。竹中先生がやっていたのと同じように、僕もポケットマネーで図書券をプレゼントする。さらなる学びのために使ってほしいと思う。(僕自身、学部3年のときに、竹中研でAwardをもらい、自分が飛躍するための力をかなりもらったという経験がある。)


■ 研究へのコメント ――― 「研究」として行うからには
今回の発表会では、OB・OGの成長ぶりを見れたことも、うれしかったことの一つだ。今回来てくれた8人のOB・OGは、それぞれゲストコメンテーターとして有益かつ適切なコメントをくれた。ついこの前まで、自分がコメントを言われる側に立っていたわけだが、研究や発表に対して、説得力をもってコメントできている姿を見ると、頼もしいかぎりだ。

そこで言われていたことをまとめると、第一のポイントは、「研究として行うからには、その手続きを明示する」ということだ。たとえば、パターン・ランゲージの研究では、それがどのような手続きで制作されたものであるかをきちんと明記しなければ、単なる主観的な創作物となってしまう。「研究」としてやるからには、他の人が追試できるように「手続き」や「証拠」を明示しなければならない。

そして、第二のポイントは、「研究として行うからには、関連する研究との関係を明らかにする」ということだ。これはすべての論文に言えることだが、先行研究のサーベイをもっときちんと行わなければならない。いま論文の参考文献にあがっているものは、その論文へのインプットを担った書籍が多く、似たような研究や比較対象となる研究の論文への参照がほとんどない。これでは、その研究を、ほかの研究との関係性のなかに位置づけられていないことになり、「研究」論文として仕上がっていないということだ。研究の初段階で先行研究のサーベイをしすぎるのはよくないが(「自分」の研究ができなくなってしまう)、研究をまとめる段階では、やはり先行研究をきちんと把握し、比較や差異化を行わなければならない。

以上の点については、夏から秋学期にかけての各研究の課題だといえる。今後のさらなる発展に期待したい。

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■ 春学期を振り返って ――― 融合、活発、そして学び
今学期の最初のゼミは、鴨池で行った(「天気がよかったので。」参照)。あれから早4ヶ月。約120日が過ぎた。長かったといえば長かった気もするが、あっと言う間だったとも言える。最初のゼミでは、寒くて途中で教室へ逃げ込んだわけだが、それが気づくと、暑くて暑くてたまらない季節になっている。

今学期の井庭研では、国際学会発表を積極的に行ってきた。すでに国際学会発表10件を行ったし、夏から秋にかけても6本予定している。英語での発表をこんなにハイペースで行うのは初めてだ。加えて、個人研究のほかに「学習パターン」の活動なども活発だった。今学期から、これまで別々に活動していた井庭研1・2を融合することにしたが、それは成功だったと思う。井庭研という場がかなり魅力的でパワフルな場になったと感じている。そして、各自の学びも格段に進んだのではないだろうか。みんな、本当におつかれさま!

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(井庭研メンバーおよびOB・OG, 2008年春学期 研究発表会, 2008年7月27日)
井庭研だより | - | -

『ネットワーク科学への招待』が出版されました!

Book-NetworkScience150.jpg僕も1章書いている本が出た。

『ネットワーク科学への招待:世界の“つながり”を知る科学と思考』(青山 秀明, 相馬 亘, 藤原 義久 (共編著), 臨時別冊・数理科学2008年7月号(SGCライブラリ 65), サイエンス社, 2008)

この本は、雑誌『数理科学』でリレー連載していた論文を、まとめたものだ。日本におけるネットワーク科学の著名な研究者たちも参加している。目次は以下のようになっている。

I 序論
 ネットワーク科学とは

II 物理・数理
 非線形科学と複雑ネットワーク
 振動子ネットワークの引き込みと体内時計
 複雑ネットワーク上のランダム・ウォーク
 複雑ネットワーク上のコンタクト・プロセスへ向けて
 6次の隔たり:ある計算

III 生物・生態
 毒性の進化と「小さな世界」
 遺伝子発現ダイナミクスの統計則
 生体ネットワークをどう研究するべきか
 生体内相互作用ネットワークの数理モデル
 複製細胞の反応ネットワークダイナミクス
 生態ネットワークのダイナミクス

IV 経済・社会
 社会ネットワーク分析とは何か?
 スモールワールドの検証とフラクタルモデル
 見えざる経済構造:企業ネットワークと企業ダイナミクス
 生産ネットワークの大規模構造と連鎖倒産
 イノベーションの創発ネットワーク:光触媒研究におけるコミュニティ形成とその機能
 イノベーションネットワークと地理モデル

V 情報
 情報通信ネットワークが持つべき特性
 ネットワーク科学とインターネット
 SNSという複雑ネットワーク
 P2Pネットワークと複雑ネットワーク
 ネットワークの可視化技術:大規模情報からの意味情報の抽出
 相関構造の有意成分とネットワーク推定

VI ネットワーク科学のゆくすえ
 ネットワーク科学の方法論と道具論
 ささやかな幻滅と大きな期待


この中で、僕が書いたのは、「ネットワーク科学の方法論と道具論」(井庭 崇)である。ここでまるごと引用するわけにはいかないので、その論文のイントロ部分のみ、紹介することにしたい。

「ネットワーク科学の方法論と道具論」(井庭 崇)

1. はじめに:概念・方法・道具

いまから十年ほど前、ネットワークに関する新しい概念がふたつ提唱された。「スモールワールド・ネットワーク」と「スケールフリー・ネットワーク」の概念である。これらの概念は、その後の研究を方向付け、ネットワーク科学の分野を切り拓くきっかけとなった。「概念」とは物事の捉え方であり、私たちに従来とは異なる現実を見せてくれる。かつて社会学者のタルコット・パーソンズが「概念とはサーチライトである」と表現したとおり、ネットワークの新しい概念も、その光によって、これまで見ることのできなかった現実を捉えることを可能にしてくれた。

このように、科学の営みを振り返るとき、概念の革新に注目が集まることが多いが、実は「方法」や「道具」の知識についても革新がおきているということを忘れてはならない。科学的研究では、「概念」と「方法」と「道具」を駆使して研究が行われている(図1)。そして、それらがお互いに影響しあいながら、それぞれの革新を誘発している。本稿では、このような観点から、ネットワーク科学について再考したい。これにより、いわばネットワーク科学の「科学哲学」を構想し、また、次なる十年を展望することを目指したい。
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このような問題意識のもと、この論文では、「概念」、「方法」、「道具」の相互作用について、実際の事例を通して理解していく。論文で取り上げているのは、近年のネットワーク科学の立役者であるダンカン・ワッツとアルバート・ラズロ・バラバシの事例だ。それぞれスモールワールドネットワークとスケールフリーネットワークの概念を生み出し、この分野をリードしてきた立役者たちである。彼らがどのように、「概念」、「方法」、「道具」を生み出しながら、研究を進めてきたのかを読み解いていく。

本屋さんで見つけたら、ぜひ手にとってみてほしい。
ネットワーク分析 | - | -

「研究」と「勉強」の違い

研究会の新規履修者の面接を行った。SFCでは、学部1年生から研究会に所属し、研究に従事することができるので、1年生や2年生も新規希望者としてやって来る。

井庭研の面接は、担当教員の僕が一人で行うのではなく、研究会の現役メンバーを数人交えて行う。というのは、研究会というのは一種の「生き物」であって、もはや僕だけのものではないという思いがあるからだ。僕との相性のみならず、研究会メンバーとの関係もかなり重要なのだ。面接では、新規希望者一人につき、30分の時間をかけて、取り組みたい研究テーマや、興味・関心分野について話をきいていく。

その研究会面接で、僕が必ず言う話がある。それは、「研究」と「勉強」の違いについての話だ。面接で、研究テーマをきいてみると、「~を勉強したい」と答える人が多くいる。こう答えるというのは、「研究」と「勉強」の違いがよくわかっていない証拠だ。研究テーマについて話しているのではなく、これから知りたいことを挙げているに過ぎない。そこで、僕は面接時に、「研究」と「勉強」はどう違うのか、ということを説明する。

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まず、「知のフロンティア」があるとしよう。こちら側には、人類が現在知ってる「既知」の領域が、そして向こう側には、人類がまだ知らない「未知」の領域が広がっている。これから研究を始めるとき、当然、僕らはフロンティアに立っているわけもなく、そこから遠いところにいるだろう。そして、少しずつ知識をつけて前に進んでいく。そしてあるとき、フロンティア・ラインの一地点に到達するだろう。このようにして、既知の領域を進んでいくことを「勉強」という。不勉強でビハインドだった自分が、授業や本、人の話などから知識を得て、いまどこがフロンティアなのかがわかるようになる。これが「勉強」をするということだ。

これに対し、「研究」というのは、まったく異なるアクティビティだ。研究とは、フロンティアからさらに一歩前へ進み、既知の領域を広げるということ。もちろん、道なき道を開拓しながら進んでいくことになるので、それはとてもしんどい作業であり、一朝一夕にできるものではない。さて、ここで重要なのは、かならずフロンティアを開拓しなければならないということだ。すでに開拓されているところで、新たに開拓したとしても、それは「車輪の再発明」であり、研究にはならない。SFCカリキュラムの言葉に照らして言うと、「研究=先端×創造」なのであり、「研究とは、先端領域で創造を行うこと」なのだ。「研究」には「勉強」が不可欠だが、いくら「勉強」をしても「研究」にはならない。この「研究」と「勉強」の違いを意識することが、研究テーマを考える上でとても重要なのだ。

この「研究」と「勉強」の違いという話は、実は、僕がまだ学部生だったころ、竹中平蔵先生が研究会でよく語っていた話だ。この話は、「研究」と「勉強」の違いを非常にクリアに言い表していると思う。そんなわけで、僕は毎年、この話を面接のときに繰り返し話す。

研究会は「研究」のための場であるから、研究テーマをもった人たちの集まりだといえる。なので、研究会面接で熱く語ってほしいのは、勉強テーマではなく、研究テーマについてなのだ。荒削りでもいい。「研究」へと向かう志向性がほしい。そして、できるかできないか、という現実性よりも、何をやりたいのかというヴィジョンがほしい。

以前紹介した『音楽を「考える」』(茂木健一郎, 江村哲二, ちくまプリマー新書, 2007)のなかで、茂木さんと江村さんが、次のように語っている。まさにそのとおりだと思う。

(茂木)「若いときには自分の使える技法やツールと、胸に抱いている大志、夢見ている世界との間には明らかに大きすぎるギャップがある。それくらいアンバランスなやつじゃないと、表現者としては大成しないんだということが経験でわかりました。これはほとんど例外がない。」(p.47)

(江村)「結局は、自分に何ができるかじゃなくて、何がしたいかなんです。何ができるかなんて言いはじめたら、何もできなくなっちゃう。まずはそんなことはどうでもよくて、ただただ自分は何がしたいと思っているのか、という問題に尽きます。」(p.48)

面接で僕らが見ることに、自分の研究・活動をドライブするような内発性をもっているか、ということがある。なかなかそれを感じさせてくれる人がいないのが現状であるが。。。同僚の土屋さんは、研究テーマには「愛」か「憎しみ」がなければならない、という。研究へと自らを突き動かす「情熱」が必要なのだ。そうでなければ、しんどい研究作業など続けられるわけがない。

繰り返し言うけれども、荒削りでもいいので、自分なりの研究テーマの糸口をもっていてほしい。そして、自分をドライブする内発性をもっていてほしい。それが、研究を志すみんなへの本質的なメッセージだ。
「研究」と「学び」について | - | -

『社会を越える社会学』(ジョン・アーリ)

Book-Ali.jpg井庭研の今学期最後の輪読文献は、ジョン・アーリの『社会を越える社会学』だった。井関さんの論文から始まり、『リキッド・モダニティ』などの社会論、メディア論、複雑系、量子力学の文献を読んできた今学期の総まとめとなるような文献だ。

ジョン・アーリ, 『社会を越える社会学:移動・環境・シチズンシップ』, 法政大学出版局, 2006


この本では、「移動」(モビリティ)という観点から、グローバリゼーション時代における新しい社会学のパラダイムの提唱が試みられている。特に「国民国家」内における「社会」を主な研究対象としていた従来の社会学に対し、より流動的で移動がベースとなった捉え方をしていこうという。その意味で、(国民国家内における)「社会」を越える社会学、というわけだ。

「本書のねらいは、二十一世紀における一つの「学問分野」としての社会学に必要とされる研究カテゴリーを発展させることにある。本書は、ヒト、モノ、イメージ、情報、廃棄物の多種多様な移動について検討し、これらの移動相互の複雑な依存関係や、その社会的な帰結を研究対象にする〔新たな〕社会学の宣言をおこなう。」(p.1)

「再構成された社会学の中心には、社会(ソサエティ)よりも移動(モビリティ)を据えるべきだ」(p.368)

この本で、まず面白かったのが、「場所」についての次の指摘だ。

「「場所」という単一の範疇は、すでに確立しているというよりはむしろ、主催者、ゲスト、建物、モノ、機械が特定の時刻に特定の場所で何らかのパフォーマンスをおこなうためにたまたま寄り集まるというような複雑なネットワークのなかで、その意味が示されることになる。そして場所はパーフォマンスのシステム、すなわち、他の諸組織や建物、モノや機械とのネットワーク化されたむすびつきを通して現実のものとなり、しかも意図せざる結果として安定的なものとなるようなシステムを介して(再)生産される。それゆえ、場所はダイナミックなもの――「動きの場」であり、ひんぱんに移動し、必ずしも一箇所に停泊しない船のようなもの――である。「新しい移動」パラダイムでは、場所それじたいが人間、非人間の行為主体からなるネットワークの内部で、遅いか早いか、遠距離か近距離かの違いはあれ、旅するものと考えられている。場所は関係のようなものであり、人、物材、イメージ、そしてそれらがおりなす差異のシステムの布置構成のようなものである。」(p.xiv)

場所について考えるとき、まず物理的な場所についてイメージしがちであるが、ここで論じられているのは、社会的な関係性における「場所」である。物理的存在としての固定的な「場所」と、関係性のなかでの浮遊し、ゆらぐ「場所」 ――― 場所について考えるときには、この二重性について考えることが重要だと思う(この場所のもつ二重性については考えていることがあるので、それについてはまた今度書きたいと思う)。この二重性は、やはり「粒子」と「波」の性質を併せ持つ量子の話を思い起こさせる。

興味深いのは、アーリ自身もこの本のなかで、移動パラダイムの社会学に関係するものとして、量子力学的な考え方を取り上げていることだ。以下のように、Zoharらの『The Quantum Society: Mind, Physics and a New Social Vision』(Danah Zohar, Ian Marshall, William Morrow & Co, 1994) が紹介されている。この本は、ちょうど今学期のサブゼミで読んだ文献だ。

「ゾーハーとマーシャルが『量子的社会』という観念を練り上げている。絶対時間、絶対空間という固定したカテゴリー、相互作用する「ビリヤードの球」からなる剛体の不可入性、そして完全に決定論的な運動法則に基づく古典物理学に見られる、かつての確実性の世界が崩壊したとゾーハーらは述べる。それに代わるのが、「量子物理学の奇妙な世界、つまり空間、時間、物質の境界をものともしない奇怪な法則からなる不確定な世界」である(Zohar and Marshall 1994: 33)。さらにはゾーハーらは、波動/粒子の作用と社会生活の創発的性格との類似性を見いだしている。「量子的実在は……潜在的には、粒子のようでもあり波動のようでもある。粒子は単一体であり、空間的、時間的に定位され計測可能なもので、ある時点でどこかに存在する。波動は『非局所的』で、空間と時間を超えて拡がり、その瞬時的な作用は至るところに及ぶ。波動は同時にあらゆる方向に拡がり、他の波動と重合し一体となり、新たな実在(創発的な全体)を形成する(Zohar and Marshall 1994: 326)。本書では、「創発的な全体」を生み出しているように見える様なグローバルな「波動」をいくらか類推的に分析することを試みる。とはいえ他方では、「空間的、時間的に定位され計測可能」である無数の単体粒子、つまり人間と社会集団が確固として存在している。」(p.215)

このように、この本では、アーリは関連する文献を数多く引用・参照しているが、あまり自身の独自の考え方や具体的な分析事例は書かれていない。そのため、この本は、アーリの主張・研究として読むというよりは、関連文献への索引として読むほうがいいかもしれない。そう考えれば、非常に広範な文献をカバーしているので便利だ。

ただし、アーリはルーマンの理論に批判的な指摘をしているが、僕からするとその指摘は適切でないように思う。むしろ、アーリの議論は、ルーマンの社会システム理論で補強するとよいのではないかと思える。そういう意味で、この本を読むときには、アーリの評価をすべて鵜呑みにせず、実際にその文献を読んで、自分で関係付けをし直す、というのがよいだろう。

この本の最後に、次のような記述がある。超領域的な研究を志向する僕らを勇気づけるので、少し長くなるが引用したい。

「ドガンとパールは、社会科学の革新における「知の移動」の重要性を示している(Dogan and Pahre 1990)。彼らは二十世紀の社会科学についての広範な調査に基づきながら、革新は基本的に、学問分野の内部に凝り固まった学者からも、あるいはかなり一般的な「学際的研究」をおこなう学者からも生まれないということを明らかにしている。むしろ革新は、学問分野の境界を横断する学問的移動、つまり彼らが「創造的な境界性(マージナリティ)」と称するものを生み出すような移動によってもたらされる。社会科学において新しく生産的なハイブリッド性を生み出すのに役立つのがまさにこの境界性であり、それは、学問分野の中心から周縁へと移動し、その境界を横断していくような学者によってもたらされる。こうしたハイブリッド性は、制度化された下位分野(たとえば、医療社会学)や、よりインフォーマルなネットワーク(たとえば、歴史社会学)を構成することができる(Dogan and Pahre 1990: chap.21を参照)。この創造的な境界性は、複合的で、重層的で、離接的な移動過程、つまり学問分野/地理/社会の境界を横断して生じうる過程に起因する。知の移動は社会科学に適しているように思われる。」(p.368)

この部分から僕は、分野にこだわらず自らの研究をすすめた結果、渡り歩いた領域が、創造的な境界性を生むのだ、というふうに理解した。システム理論、モデリング・シミュレーション技法、コラボレーション技法、パターン・ランゲージ、ネットワーク分析、経済物理学、量子力学などなど、これらは分野としてはかなりバラバラなものであるが、僕の中ではつながっている。もちろん、なんでもつながるわけではないから、内と外を分ける、境界線はある。それこそが、「創造的な境界性」の意味するところではないだろうか。DoganとPahreの文献を実際に読んで、さらに考えてみたい。
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