井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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【映像公開】水野大二郎×井庭崇対談「創造社会論:デザイン」

慶應義塾大学SFC(湘南藤沢キャンパス)で2014年春学期に僕が担当している新規科目「創造社会論」では、各界で創造的な活動をされている方々をゲストとしてお呼びし、対話しながら創造・実践の秘訣をパターン・ランゲージにまとめるという授業をしています。

この授業では、対談の映像をすべて無料で一般公開しています。SFC-GC(Global Campus)というサイトで公開されているので(創造社会論2014)、興味があるテーマの回をぜひご覧ください。

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初回のゲストは、水野大二郎さん(慶應義塾大学環境情報学部専任講師)でした。

水野さんの取り組んでいるDESIGN EASTやファッション、FABなどの事例紹介を交えながら、創造を誘発する場やコミュニティのつくり方や、創造的な社会における生き方や働き方、デザインの研究・実践について語り合いました。創造社会についてのイメージを膨らませるとともに、高度な話もできて、とても刺激的な対談でした!

創造社会論 第1回(映像&スライド)
http://gc.sfc.keio.ac.jp/cgi/flv/flv_play_gc.cgi?2014_38368+01+1
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創造社会論 第2回(映像)
http://gc.sfc.keio.ac.jp/cgi/flv/flv_play_gc.cgi?2014_38368+02+1
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Photos

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創造社会論 | - | -

応急処置的な社会から、自己革新的で創造的な社会へ

いま私たちが感じている閉塞感がどこから来るのかを辿っていくと、その根本には、現在の社会が「応急処置的な社会」であるという点に行き着くように思う。

日々目新しい商品やサービス、情報が生まれてはいるものの、根本的なところで新しいものを「つくる」こと、そして既存のものを「つくり直す」ということが回避される。そのための議論もいつのまにか封じ込められ、とりあえず問題を大きくしないためのパッチを当てて、やり過ごされる。

この傾向は社会全体に言えるだけでなく、組織やコミュニティにおいても同様である。状況が変わり、新しい問題が生じていても、私たちは依然として過去の仕組みや考え方にしがみつき、そこから離れることがますます難しくなっている。


これは、個々人の意識・意欲の衰弱であるとともに、そのような逸脱を引き戻す社会・組織的な引力によるものだと考えることができる。応急処置的な社会・組織では、いくつかの理由によって、「つくる」こと、「つくり直す」ことが回避・封印される。

第一に、「過去の成功」によるものが、まだそれなりに機能しているという理由である。「これはこれで、なかなかうまくできている。歴史的にも実証されてきた。新しいものがよりよいとは限らないよ。」というわけである。

第二に、変革には「コスト」が膨大にかかるという理由である。「すでに今あるのだから、よいではないか。これを捨てて新しいものをつくるのは、とてもコストがかかって大変だよ。お金も、時間も、労力もかかる。」ということになる。

第三に、どのようにつくるのかという「方法の忘却」という理由もある。「あのころは必死だったから、無我夢中でつくったものだ。でもね、もうああいうのは、おすすめできない。そもそもどうやってつくったのか、思い出せないよ。とにかく、ああいうのはあのときだけでいい。」と言われてしまい、それ以上話が続かない。


このような理由で、新しいものを「つくる」ことや、既存のものを「つくり直す」ことへの道が封じられることになる。抜本的な改革は先送りされ、応急処置的にパッチを当てて、なんとかその場をしのぐということになる。

個々人にとっても、心のどこかで、「まあ、たしかに現存のものでも、まだなんとかなる」という気持ちがあり、何か大きなアクションに移そうという気も起きない。こうして、不満や違和感を感じながらも、時間だけが過ぎていく。


このまま行くと、私たちの未来はどうなってしまうのだろうか。

当然、古い制度・仕組みにがんじがらめになったまま、そこから抜け出せないという未来が見えてくる。しかも、現在の仕組みをつくった世代が引退すれば、当然後に残るのは、自分たちの社会・組織を「つくったことがない世代」である。こうして、社会・組織から「つくる能力・経験」の喪失が起きてしまうと、そこから抜け出すことはより一層難しくなる。

なんとか低空飛行を続けることができるかもしれないが、社会的破綻へと至る可能性も否定できない。


私たちは、そのようなシナリオとは別の未来を生きることはできないのだろうか?


こういうとき、いつも私の頭をよぎるのは、アラン・ケイの次の言葉である。

「未来を予測する最善の方法は、自ら未来をつくるということである」
(The best way to predict the future is to invent it.)

この言葉に象徴されるように、現在の延長線上の未来を見て、それをただただ傍観者として眺めているのではなく、自ら積極的に未来にコミットしていくという姿勢が大切だろう。

自分がコミットするのであれば、どのような未来がよいだろうか?

ここでは、そのポジティブな未来シナリオを描いてみることにしたい。

まだ漠然としていて、具体性に欠けるシナリオではある。しかし、そういうことを語り始めることこそが、今まさに必要なことなのだと思う。


そのポジティブな未来とは、「自己革新的で創造的な社会」である。

自分たちで自分たちの仕組みをつくり、つくり直していく社会 ——— このような社会を「創造社会」(Creative Society)と呼ぶことにしたい。

創造社会では、多くの人が、自分たちで自分たちのモノ、認識、仕組みをつくる。現在、誰もが生活や仕事のなかでコミュニケーションを行なっているように、創造社会では誰もがクリエイションをごく当たり前のこととして行なうようになる。

これまで、何かを消費し、コミュニケーションをすることが生活・人生の豊かさであったのと同じように、何かをつくるということが、生活や人生の豊かさを象徴するようになる。


このような創造社会では、つくるための「道具」が整備されていく。誰でも自分の思い描いたものをつくり出すことができる道具を手に入れるようになる。

そして、それを複数人でコラボレーションしながらつくるための「場」も用意される。これにはリアルな場もあれば、ヴァーチャルなプラットフォームの場合もある。

さらに、「つくる能力の共有・継承」も行なわれるようになる。どのようなつくればよいのかというノウハウがマニュアルやレシピとして共有されるだけでなく、良質なものを生み出すためにどのような発想・視点・感覚でつくればよいのかというコツも共有・継承されることになる。

このような未来に向かうような準備・仕込みをすることで、現在の延長である暗い道からテイクオフすることができるのではないだろうか。


上述のなかで最も難しいのが、一番最後に挙げた「良質なものを生み出すための発想・視点・感覚の共有・継承」である。

マニュアルがあるだけでは、必ずしも「うまく」実践することはできない。レシピがあるだけでは、つくることはできたとしても、「感動的な」ものをつくることができるようになるわけではない。「良質なものを生み出すための発想・視点・感覚の共有・継承」が必要なのだ。しかし、そのような方法論は整備されていない。そのためのイノベーションが、今まさに求められているのである。


私は、この「良質なものを生み出すための発想・視点・感覚の共有・継承」のために、「パターン・ランゲージ」という方法が役に立つと見ている。

パターン・ランゲージとは、いきいきとした良質なものを生みだすための生成的な言語である。

もともとは「いきいきとした質をもつ街や住まい」のつくり方の記述方法として考案されたものだが、その後、ソフトウェアや人間行為のデザインに応用された方法である。

パターン・ランゲージでは、個々の創造領域において「質がよいとはどういうことか」、そして「それをどのようにつくることができるのか」ということが記述される。その実践的な力やセンスを、生成的(generative)な側面に着目して取り出し、共有・継承していく ——— それがパターン・ランゲージが目指すところである。

生成的な側面に着目するというのは、生み出された「結果」に見られる共通点を抽出するのではなく、良質な結果を生み出す「プロセス」における共通点を抽出するということを意味している。それゆえ、「パターン・ラゲージ」の「パターン」とは、結果(生み出されたもの)におけるパターンではなく、生成におけるパターンのことを指しているのである。パターン・ランゲージでは、生成のパターンを記述・共有することによって、生成の実践が支援されるのである。


このような生成的な側面に着目して「過去の成功」を読み解き、パターンという小さな単位にまとめ、それを踏まえて「つくる」「つくり直す」ことができるようになれば、ゼロから始めるのとは異なり、成功確率の面でもコストの面でも実行可能性への期待が持てるようになる。また、その時代その時代の方法が明示化され、共有・継承されていくことによって、社会・組織における「つくる」「つくり直す」能力の再生産が可能になる。


以上のような考えのもと、パターン・ランゲージというメディアによって、現在の「応急処置的な社会」を脱し、「自己革新的で創造的な社会」へと向かうことの後押しができるのではないか ——— そのような思いで、私(たち)は、日々、パターン・ランゲージの研究に取り組んでいる。
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創造社会における「未来をつくるための基本スキル」 = Fab, PL, SI

僕が、創造社会(Creative Society)における「未来をつくるための基本スキル」として考えているのは、次の3つである。

・Fab(パーソナル・ファブリケーション)
・PL(パターン・ランゲージ)
・SI(ソーシャル・イノベーション)


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■創造社会における「未来をつくるための基本スキル」

Fab(パーソナル・ファブリケーション)で物理的なモノができて、PL(パターン・ランゲージ)で認識・感覚・方法がシェアされ、SI(ソーシャル・イノベーション)で仕組みがつくられる。これらが、未来をつくるための基本スキル(広義のリテラシー)だと僕は考えている。

Fab(パーソナル・ファブリケーション)が、創造社会における、人々の「ものづくり」だというのは、わかりやすい。

PL(パターン・ランゲージ)も、一部の専門家がつくっているうちは、創造社会という文脈では面白くない。多くの人が自分たちで自分たちのコミュニティのための言語をつくるようになると、新しい社会のあり方になる。

SI(ソーシャル・イノベーション)は、大きなパワーをもつ権威や組織が社会的な仕組みをつくるのではなく、たった一人の人やそこから始まるチームが、新しい仕組みをつくるという意味で、創造社会的である。


■「未来をつくるための基本スキル」をめぐる現状と課題

Fab(パーソナル・ファブリケーション)は、入手しやすくなった装置と、FabLabのような場、世界的なネットワークがあることから、一歩進んでいると言える。課題は、「つくり方」が新しくなるだけでなく、これまでにない新しいモノをつくることができるのか(その可能性を感じられるか)、だと思う。

PL(パターン・ランゲージ)は、ようやく建築とソフトウェア以外の知を記述することのイメージができるようになり、コミュニティ内で自分たちのパターンを書くという試みも始まった。課題は、使いやすい方法論と道具立てだと思う。職人技で終わらないように、方法と道具をつくり、共有する必要がある。

SI(ソーシャル・イノベーション)は、実践が先行している分、広がりの可能性についてはイメージしやすい。課題は、イノベーションを構想し実現するための方法と道具をつくり、共有することだろう。起業家のパッションや個性はとても重要だが、そのストーリーだけで話が終わらない工夫が必要。


■「未来をつくるための基本スキル」同士の相乗効果

創造社会をつくるPF(パーソナル・ファブリケーション)、PL(パターン・ランゲージ)、SI(ソーシャル・イノベーション)は、それぞれに突き進みながら、これからお互い相乗効果をもつようになるだろうし、そういう活動をしていきたいと思っている。

PF→PLは、パターン・ランゲージなどの知が単なる言葉で終わらないために、いかに実世界にインプリしていくのかという面で関わりをもつだろう。コミュニティの言語を体現するメディアは、自分たちでつくることになる。そのメディアのなかには、物理的なモノや仕掛けも含まれる。

PF→SIは、ものづくりが近代的な工場大量生産から変わることで、都市・地方のあり方が変わり、社会的な変革を引き起こし、またそれを支援することになるだろう。ローカルな試みはローカルに実現され、そこから他の地域・コミュニティに広がる。FabLabのような場がその象徴になるだろう。

PL→PFは、パーソナルなものづくりのパターン・ランゲージというのが重要になるだろう。装置と場だけあっても、人は「良い」ものをつくれるようにはならないからだ。

PL→SIは、ソーシャル・イノベーションのパターン・ランゲージをつくるということが考えられる。井庭研のえりー&すーじーがつくっている「チェンジメイキング・パターン」とその活用の仕組みづくりや、僕がまとめた「起業と経営」パターンなどは、それにあたる。

SI→PFは、ものづくりの「つくり方」の革命である(に過ぎない)PFを、社会的な変革へとつなげるための展開に寄与するだろう。技術と情熱をもつ人が、自分たちの地域・コミュニティで場をつくり、広げることの実現と、そのための仕組みづくりを支援する。

SI→PLは、認識・感覚・方法の記述である(に過ぎない)PLを、社会的な変革へとつなげるための展開に寄与するだろう。そもそも誰がどのようなPLをつくり、それをどう活用するのかということは、現場の問題意識にもとづくべきである。それを実際にコミュニティの言葉にするための工夫も必要。

以上が、創造社会(Creative Society)における「未来をつくるための基本スキル」だと僕が考える、Fab(パーソナル・ファブリケーション)、PL(パターン・ランゲージ)、SI(ソーシャル・イノベーション)の相乗効果だと思う。
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創造性(クリエイティビティ)の新しい捉え方

僕の創造システム理論では、「創造」は「発見」(小さな発見、気づき)の連鎖だと捉える。

つまり、ある活動やプロセスが「創造的」(creative)であるというのは、「発見」が次々と生まれているかどうか、だと考えるのである。「発見」が途絶えてしまい、もう生み出されなくなってしまった活動・プロセスはもはや創造的と言うことはできない。

このとき、得られた発見の内容や、生み出した成果が、社会的に見て、新規性があったり、価値があるものか、ということは、ひとまず問わない。それは、創造の観点ではなく、社会的な観点だからである。

なぜそのように考えべきだと考えたかというのを、二つの話でしたいと思う。

ひとつめは、子どもが登場人物である。「積み木」で遊んでいた子が、しばらくしてその積み木でドラムのように音を出したとする。それに合わせて、誰かが歌を歌ったとしよう。この子たちは、創造的だろうか?

僕はその子たちは創造的だと捉える。世界中の保育園でしょっちゅう起きていることなので社会的にみれば新規性はないだろう。しかも、そこに何かの役にたつ付加価値があるわけでもない。それでも、積み木で音を出すことを発想したり、それを音楽だと思って歌を歌おうとしたことは創造的なことだと思うのだ。

もう一つは、孤島に住む研究者の話である。その研究者は数年間の研究の末、誰も解決できなかった理論的問題を解決した。それをもって学会に出向いたところ、同じような論文が1ヶ月前に発表されていたことを知る。彼の方が後の発表なので新規性はない。それでは、彼の研究は創造的ではなかったのだろうか?

僕は、このような場合、研究成果としての社会的価値は下がると思うが、研究自体は創造的であったと考える。つまり、彼は研究のなかで、次々と発見(発想・気づき)をつないでいって、創造をしたのである。

その意味で、「創造的かどうか」ということを、社会的に新規であるか、価値があるかということを切り離して考えたいのだ。

そうだとすると、創造をどのように考えればよいのか。創造性は学問的にはふつう心理学で扱われる。創造的な思考は、認知・心理・意識の観点からどのように説明できるのかということが研究される。しかし、僕はそれとも違う道を行きたい。

というのは、意識・思考のなかにだけではなく、論理展開やコミュニケーションのズレのなかにも、創造的な発見の源があるからだ。人(の意識・思考)が創造的だと捉えるのではなく、プロセスそのものが創造的であるということを捉えたい。

そこで、創造というものを、ひとつの次元として切り出し、社会にも心理(思考)にも還元しないアプローチをとる。創造そのものの成り立ちを考え、そこで起きていることを直球で捉えたい、と思う。

創造のプロセスを考えるとき、何がその創造における「発見」になるのかというのは、その創造のプロセスのなかでの意味づけに過ぎないということに注目する。「アイデア」は、「アイデア」というものがどこかに在るわけではなく、その創造のコンテクストのなかで、ある考えが「アイデア」となるのである。

そう考えると、創造は発見の連鎖で成り立っているが、その発見は、創造のコンテクストに依存して定義されることになる。このような円環構造が創造にはある。そしてそれこそが本質的なのだ。

この円環を、システム理論的にはオートポイエティックな関係という。僕の考えでは、創造は発見を要素とするオートポイエティック・システムなのである。ある発見は次なる発見の前提となり、発見が連鎖していく限りにおいて創造が成り立つのであり、そのことによって要素である発見の生起が可能になる。

創造の要素ではる《発見》とは何かというと、ある「アイデア」がいま取り組んでいる創造に「関連付け」られると「見い出す」ことができたときに生じる。アイデアは外に開かれていて、関連付けはその創造自体を指し示す。このことから、プロセスとしては「閉じ」ながら「開く」ことができるのである。

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これが、僕の提唱する「創造システム理論」(Creative Systems Theory)の考え方だ。社会学者ニクラス・ルーマンは、社会というものを意識・思考から切り分け、社会システムと心的システムを定義したが、僕はこれに創造システムを加える。

これら3つのシステムは別の論理・コンテクストで動くが、連動はしている。その観点から捉えると「創造のプロセスは、意識によって心的に転がしたり、コミュニケーションによって社会的に転がしたりする」と捉えることができるようになる。これが、心理次元にも社会次元にも還元しない、創造性の新しい捉え方である。

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【創造システム理論について書いた論文・書籍】

  • "An Autopoietic Systems Theory for Creativity" (Takashi Iba, Procedia - Social and Behavioral Sciences, Vol.2, Issue 4, 2010, pp.6610-6625)

  • 「自生的秩序の形成のための《メディア》デザイン──パターン・ランゲージは何をどのように支援するのか?」(井庭 崇, 『10+1 web site』, 2009年9月号)

  • 『社会システム理論: 不透明な社会を捉える知の技法(リアリティ・プラス)』(井庭 崇 編著, 宮台 真司, 熊坂 賢次, 公文 俊平, 慶應義塾大学出版会, 2011)第2章
  • 創造社会論 | - | -

    創造社会とクリエイティブ・メディア

    僕は時代の変化を、C→C→Cという3つのCで捉えている。

    Consumption(消費社会)→Communication(コミュニケーション社会=狭義の情報社会)→Creation(創造社会)である *。

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    創造社会は,人々が自分たちで自分たちの認識・モノ・仕組み,そして未来を創造する社会である。創造社会は、企業等の組織だけでなく、一般の個人が「創造」を担う点に特徴がある。

    かつてP.F.ドラッカーは、「知識社会」の到来を指摘したが、そこでの主眼は企業・組織と労働者をめぐる社会的変化であった。

    創造社会においても、知識社会と同様に「イノベーション」が重要であることは変わらないが、創造(つくること)が企業・組織の内に留まらず、また労働と切り離して捉えるという点で、よりラディカルである。

    そう考えると、「創造社会」、ひいてはそこに至までの「社会の創造化」は、企業・組織の現象ではなく、社会の現象として捉えるべきである。

    そのような観点で考えるとき、公文俊平先生の「情報社会」の議論が参考になる。オープンソース・ソフトウェア開発やWikipediaの編集などでは、従来の組織とは異なるかたちでコミュニティが形成されている。情報技術の発展により、人々は活動のなかで自由につながり組織化されていくのである。

    同様に、「創造社会」では、これまで企業・組織で行われてきた創造行為が広く一般に解放されることを意味する。「創造社会」においては、人々の創造活動の過程で社会的なネットワーキングがなされ、コミュニティが形成される。

    つまり、「組織によって創造がなされる」ことから「創造の過程でコミュニティが形成される」ことへのシフトが生じるのである。

    もちろん、企業・組織が無くなるというわけではない。しかしながら、創造社会における企業・組織あり方は、人々が創造的な活動をすることを踏まえたかたちに変わっていくだろう。

    従来は、個人と企業・組織の関係は「労働」や「商品・サービス」の関係に限定されてきたが、創造社会においては創造活動の協働的なパートナーシップが個人と企業・組織の間で築かれることになるのである。

    そうなれば、企業・組織における知識や情報の蓄積や管理のあり方も変化を迫られることになる。創造活動が組織的な境界を超えて縦横無尽に展開されるようになるため、それらを囲い込むことはできなくなり、また囲い込むことが戦略上不利になる可能性が高くなる。

    そのため、暗黙的であれ形式的であれ、企業・組織内に蓄積される知識・情報をどのように記述し、共有し、外部と未来に開いていくのかということは最重要な課題となるだろう。特に、創造に寄与する知識の記述と共有は、重要なテーマとなる。

    このような創造社会においては、創造を支える新しいメディアが求められ、重要な役割を果たすことになる。そのようなメディアを、僕は「クリエイティブ・メディア」(Creative Media)と呼んでいる。

    このようなクリエイティブ・メディアとして僕が有力視しているのは、「パターン・ランゲージ」だ。パターン・ランゲージは、創造における実践知を記述する言語であり、それが人々の創造を支援するメディアとなるのである。



    * 以前は、2つ目のCの時代を「情報社会」と記述していたが、最近は、「コミュニケーション社会(狭義の情報社会)」と呼ぶことにした。これで、混乱なく、公文俊平先生の「情報社会」が、僕の2つめのCと3つめのCを包含する概念だと捉えることができるようになる。
    創造社会論 | - | -

    パターン・ランゲージ制作の拠点があるとしたら、どんなものだろうか?

    ひとつ前のエントリー「クリエイティブ・メディア(創造的メディア, creative media)とは」で、パターン・ランゲージとパーソナル・ファブリケーションはともに、クリエイティブ・メディアだということを書いた。

    そのように関連づけ、アナロジーで考えてみると、パーソナル・ファブリケーションにあって今のパターン・ランゲージにないのは、FabLabのような「場」だと気づく。パターン制作には高価な物理的装置は必要ないので、一見、場は重要でないように見えるが、それでも場について考えるのは重要かもしれない。

    僕らがパターン・ランゲージをつくるとき、必ずひとつの場所に集まって作業するし、やりやすい環境や、必要な道具立て(ポストイット、サインペン、ホワイトボードなど)もある。だから、場が重要ではないとはいえない。しかし、これまで場の可能性については、ほとんど考えられてこなかった。

    僕は、世界のあちこちで、また、いろんな分野・領域で、誰もが自分に必要なパターン・ランゲージ(より正確に言うならば、その上位概念のクリエイティブ・ランゲージ)を書けるようになることを目指している。そうであるならば、世界に点在する拠点とそのネットワークであるFabLabのように、僕らも場について、もっと真剣に考えるべきなのかもしれない。

    街や組織のなかにパターン・ランゲージ制作の拠点があるというのは、どんな感じだろうか。FabLabから発想すると……あるパターンを書きたいと立ち寄り、熟練者からアドバイスをもらいながら書いて、来てる人たちでライターズ・ワークショップを行い、洗練させる。最後は冊子やオンライン化もできる。


    いろいろな領域における創造・実践の知恵が行き交う空間。

    それが言語化され、かたちになる場所。


    考えただけでも、素敵な感じがする。

    とはいえ、まずは僕はFabLabに遊びに行かねばらならない。

    話はそれからだ。
    パターン・ランゲージ | - | -

    クリエイティブ・メディア(創造的メディア, creative media)とは

    僕がパターン・ランゲージ制作で取り組んでいるのは、それがクリエイティブ・メディアをつくるということだからである。

    クリエイティブ・メディアという言葉は、ソーシャル・メディアのように、数年後には一般的な言葉になると、僕は考えている。それは、僕の好きな言葉 "The best way to predict the future is to invent it."(Alan Kay)にあるように、自分がそうするという意味も含んでいる。


    では、「クリエイティブ・メディア」とは何か。ここでは、作業定義として、以下のような定義を与えておくことにしたい。

    クリエイティブ・メディア(創造的メディア, creative media)・・・人々の創造性を刺激し、誘発し、拡張するメディアの総称。エンパワーされるのは、個人のみならず、組織、社会も含む。上記の機能を果たせば、実装形態は問わない(言語、方法、ソフトウェア、装置など)。


    パターン・ランゲージは、コミュニケーション・メディアであるとともにクリエイティブ・メディアでもある。デザインの実践知(発想・こだわり・知恵)が、相互に関係するモジュールとして記述されており、それらが、そのドメインでのデザインを支援する。人々をクリエイティブにするランゲージなのだ。

    僕にとっては、パーソナル・ファブリケーションの装置たち(とそれにまつわる思想と方法)もクリエイティブ・メディアである。それがあることによって、創造性が刺激・誘発・拡張される。しかも、FabLabという場も同様にクリエイティブ・メディアとして機能している。


    ここでいう「クリエイティブ・メディア」は、僕の「創造システム理論」(Creative Systems Theory)で言うならば、「発見メディア」(discovery media)とほぼ同義である。これは、ソーシャル・メディアはコミュニケション・メディアであるというのに似ている。

    情報社会において、ソーシャル・メディアが重要な位置を占めたが、創造社会では、クリエイティブ・メディアが重要な位置を占めることになると考えるのが自然だろう。少なくとも僕はそう考えている。
    創造社会論 | - | -

    創造社会における「参加」(内と外の融解)について考える

    創造社会」(Creative Society)とはいかなる社会かを考え、その姿を描いてくために、このブログではいろいろな観点から、創造社会や創造性について考えていくことにしたい。

    今回は、モリス・バーマンの「参加」(participation)の概念を手がかりに考えてみたい。バーマンは『デカルトからベイトソンへ:世界の再魔術化』のなかで、近代の科学的意識とは別の意識として「参加する意識」(participation consciousness)について述べている。

    バーマンによると、「参加する意識」とは、「自分を包む環境世界と融合し同一化しようとする意識」(p.14)のことである。これに対して、科学的意識は、「自己を世界から疎外する意識」(p.14)であり、「自然への参入ではなく、自然との分離に向かう意識」(p.15)であるという。

    バーマンのいう「参加」(participation)とは、「自己の『内側』と『外側』が体験の瞬間において一体化すること」(p.79)である。それは「内と外、主体と客体、自己と他者とが、境界を貫いて結ばれること」である。そして、そういうときは、「『私』が、『経験をする主体』なのではなく、経験そのものになる。」(p.79) という。
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    このようなことは、私たちの日常でも起きていると、バーマンは言う。「現代人にとっても参加する意識は、ごく日常的に現れているのだ。… 私にしても、たったいま、そのことを意識するまでは、タイプのキーを叩くことに没入していた。この文章を書いている「私」というものをまるで感じていなかった。」(p.79)

    この感覚は僕もとてもよくわかる。何かをつくっているとき、つまり創造においては、うまくいくとこういう状態になる。このことを、創造の観点からすると、創造に関与しているのは、人も世界もである。つまり、創造に取り組んでいて、それについて考えようとすると、社会的なレベルでの主体と客体というのは消えさり、一体化するということだ。

    このように、バーマンのいう「参加」とは、人が何かにコミットする・行為するという意味ではない。そうではなく、自分と世界の境界があやふやになり、その区別がなくなる(区別が重要でなくなる、その区別が本質的ではなくなる)ことを意味している。参加とは、内と外の境界の融解のことなのである。


    自分の経験を思い出して、イメージしてみてほしい。何かをつくることに没頭しているときのことを。真剣に何かをつくっているときのことを。そうやって没頭して何かをつくっているときは、いまつくっているものがカタチづくられ、成長していくことが、中心的な出来事となる。そのとき、その創造で起きていることこそが、主要な出来事になり、それ以外のことは周辺的な事柄になる。

    このとき、つくり手である「自分」と、自分がいる「世界」の境界・区別は、二次的な問題になる。創造にのめり込むほど、自分と世界の境界・区別は意識されなくなる。違う言い方をすれば、自分と世界はコラボレーションしているのであり、創造の企ての共謀者となる。あるいは、こう言ってもいい。いまつくっているものが成長していくのは、「自分」を含む「世界」が作用しているからだ、と。

    いま書いてきたことを、僕の「創造システム理論」(Creative Systems Theory)的に言うならば、創造における発見の連鎖(のオートポイエーシス)が活発なとき、それ以外はすべて環境側に位置するものになるということだ。発見という水準においての区別が重要なのであり、主体と世界という区別は意味を失うことになる。

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    いまのことを僕の例でひとつ。3年前に、カオスの状態遷移ネットワークのなかにスケールフリーネットワークが潜んでいることを発見したときのこと(論文1論文2、)。

    3年前のある日、カオスの状態遷移を試しに描いてみたら、なかなか複雑なネットワークであることがわかった。こういうときは、可視化だけでなく、指標でみようということで調べてみたら、次数がべき乗分布に従っていて、スケールフリーネットワークだった。

    これはすごい!と思い、条件を変えて調べてみたら、どの値でもスケールフリーであることがわかった。それならば、カオスの他の関数(写像)ではどうか?と調べてみたら、他の関数でもスケールフリーのものがみつかった。

    この経験を振り返ると、発見の連鎖こそが中心的な出来事であったと感じる。状態遷移ネットワークは、僕が見出す前から、その関数に潜んでいたといえる。しかし、ある関数を状態遷移ネットワークでみるという必然性はないから、僕が新しく生み出したと言えないこともない。

    このように、数学者や科学者は、世界に潜む法則性を発見(discover)している(数学者の探求における創造性については、William Byersの『How Mathematicians Think: Using Ambiguity, Contradiction, and Paradox to Create Mathematics』が詳しい)。discoverとは、覆い(cover)をとる(dis)ということである。ある面では、世界に潜んでいたものであり、別の側面では、人間がつくりだしたものでもある。

    このことは、芸術家にも言えるだろう。例えば、彫刻家が、素材と“対話”しながらつくっていく、というねがわかりやすいだろう。頭のなかにあったものを外化するというのではなく、世界とコラボレーションしながら、ものがつくられている。


    これまで、創造に打ち込むときにある「参加」について書いてきた。しかし、これ以外にも「参加」が生じることがあると思う。バーマンのいう「参加」は、「自己の『内側』と『外側』が体験の瞬間において一体化すること」であり、それは「内と外、主体と客体、自己と他者とが、境界を貫いて結ばれること」であった。このような「参加」は、何も創造のときだけでなく、もっと静的な生じ方もあるように思う。

    例えば、座禅や瞑想など、静を追求することで、「参加」に至ることもあるように思われる。つまり、何も行為しなくても、「参加」は可能だということである。これはあくまでも推測にすぎないが、スティーブ・ジョブズをはじめとして、禅(Zen)にはまった多くのクリエイターたちは、この「参加」の感覚を求めていたのかもしれない(あくまでも、推測に過ぎないが)。

    宗教的体験でも「参加」は生じると思われる。神という存在の前では、その差異こそが重要であり、自分と世界の差異はとるにたらないものとなる。このことを単に頭で考えるのではなく、「感じる」のだろう。しかしながら、バーマンは、近代社会は魔術から醒めたのであり、神という存在に頼るのではない「参加」を考える。それを「再魔術化」(reenchantment)と呼んだ。基本的には、僕もこの方向で考えている。


    以上を踏まえ、創造社会においては、創造に没頭することによる「参加」が頻繁に起きることになること、そしてそれに伴って、静的な「参加」についても見直されるということ、それが僕の現段階での予想である。
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