井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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自分が「考える」ことの中心にいる。

クリストファー・アレグザンダーの『A Pattern Language』(邦題:パタン・ランゲージ)に、次のような言葉がある。

In a society which emphasizes teaching, children and students --- and adults --- become passive and unable to think or act for themselves. Creative, active individuals can only grow up in a society which emphasizes learning instead of teaching.

教えることを重視する社会では、子供や学生——また大人でさえ——が受動的になり、自分で考えたり行動できなくなる。教えることではなく、学ぶことを重視する社会になってはじめて、創造的で活動的な個人が育つ。

これは、"Network of Learning"(学習のネットワーク)というパターンの冒頭の文章である。まったくもってその通りだと思う。

教えよう、教えよう、とすればするほど、教えられる人はますます受け身になり、「与えられる」ことに慣れてしまう。これは、「教育」という営みが元来抱える葛藤だと言えるだろう。


そんなことをわかっていながら、僕はついつい「教える」モードになりがちで(基本的におせっかいなのだ)、その結果、学生たちの「自ら考える力」を弱めてしまうことが多い気がしてならない。

そういう背景(コンテクスト)があるので、先日書いた「教育しようなんて考えを、僕は捨てることにした。」という話になる。


さて、逆の立場からすると、「教えられない」「与えられない」としたら、どうしたらよいのだろうか?

自分で考え、行動し、学ぶ。

このことに尽きる。

自分が今、考えるべきことをしっかり考える。
自分が今、何を考えるべきかも自分で考える。
どう考えるかも自分で考える。


つまるところ、自分が「考える」ことの中心にいる、ということだ。


物事を自分を中心に考えるのは傲慢だが、自分が考えることの中心にいるのは素晴らしいこと。

しかし、自分で考えるというのは、実際にはかなり難しい。

それでも、それを抜きにすることはできない。実践あるのみだ。



もちろん、「自分で」というのは、「孤立」を意味するわけではない。

中心には必ず周辺が必要なのであって、システムには環境が必要なのと同様だ。



考える中心としての自分と、そこから広がるネットワーク。

もはや、教員 対 学生、という二者関係では考えることはできない。

この意識・感覚は、とても大切だと思う。


References
  • Christopher Alexander, Sara Ishikawa, Murray Silverstein, A Pattern Language: Towns, Buildings, Construction, Oxford University Press, 1977.
  • クリストファー・アレグザンダー 他(著), 平田 翰那(訳), 『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』, 鹿島出版会, 1984.
  • 「研究」と「学び」について | - | -
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