その場の興奮や感動も伝える、生き生きとしたメール
研究会の学生から、うれしいメールをもらった。
別件のメールの最後に、卒論研究の分析途中の結果報告が2行と、画像が1枚。
「きれいに描けたので、なんとなくお見せしたくなりました。」
その一行が添えられた画像は、ヴィジュアル的にとても綺麗なグラフだった。
おおおっ!
僕もその図に感動した。
そして、想像がバーーーッと広がった。
そう、そうなんだよ。
僕が求めている「生き生きしたメール」って、こういうメールのことなんだ!
このことを、ぜひ研究会のメンバーにはわかってほしい。
「すごいことを思いついた!」
「データ分析の結果がうまく出た!」
「うわぁ、 綺麗!」
そういうことを思った瞬間に、その場で書くようなメール。
そういうメールは、そのときの興奮や気持ちも一緒に乗せる。
だから、離れた場所にいる読み手も、その空気を体感して感動できる。
僕が研究会のメンバーに求めているのは、まさにこのような「生き生きとした」メールである。
でも、現状は悲惨なもので、研究会ML(メーリングリスト)にはミーティング・ログと、僕が書いたメールへの返信しか流れてこない。
ログは大切だけれども、それはあくまでも記録にすぎない。すでに死んだ情報だ。
やりとりがあると言っても、そのほとんどは僕が投げたメール(主に要リプライのメール)への反応。みんなが起点になることはほとんど無い。
そんな場が、面白いわけがない。
官僚的で形骸化したコミュニケーション。
死んでるML。
これではあまりにも残念すぎる。
2010年的のメディア環境で言えば、「その場その場の感動は、twitterで書いている」ということなのかもしれない。
しかし、実際にそのようなものは書かれていないし、研究についてtwitterで書けることにも限界がある。
だからこそ、MLをもっと活用してほしいと思っている。
こう言えばわかりやすいかな。
研究会MLをもっとtwitter感覚で使ってほしい。
研究しているなかでの驚きやうれしさ(そして悲しみや怒りも)、気づきや興奮、そういうものをもっともっとリアルタイムにシェアしてほしい。
僕は普段からそういうメール書いてるでしょ?
こんなの見つけた!見て! とか。
ああいう感じだよ。
各メンバーの感動が(リアルにもヴァーチャルにも)渦巻いている組織。
そういう組織こそが、生き生きとした創造的な成果を生み出すのだ、と僕は思う。
別件のメールの最後に、卒論研究の分析途中の結果報告が2行と、画像が1枚。
「きれいに描けたので、なんとなくお見せしたくなりました。」
その一行が添えられた画像は、ヴィジュアル的にとても綺麗なグラフだった。
おおおっ!
僕もその図に感動した。
そして、想像がバーーーッと広がった。
そう、そうなんだよ。
僕が求めている「生き生きしたメール」って、こういうメールのことなんだ!
このことを、ぜひ研究会のメンバーにはわかってほしい。
「すごいことを思いついた!」
「データ分析の結果がうまく出た!」
「うわぁ、 綺麗!」
そういうことを思った瞬間に、その場で書くようなメール。
そういうメールは、そのときの興奮や気持ちも一緒に乗せる。
だから、離れた場所にいる読み手も、その空気を体感して感動できる。
僕が研究会のメンバーに求めているのは、まさにこのような「生き生きとした」メールである。
でも、現状は悲惨なもので、研究会ML(メーリングリスト)にはミーティング・ログと、僕が書いたメールへの返信しか流れてこない。
ログは大切だけれども、それはあくまでも記録にすぎない。すでに死んだ情報だ。
やりとりがあると言っても、そのほとんどは僕が投げたメール(主に要リプライのメール)への反応。みんなが起点になることはほとんど無い。
そんな場が、面白いわけがない。
官僚的で形骸化したコミュニケーション。
死んでるML。
これではあまりにも残念すぎる。
2010年的のメディア環境で言えば、「その場その場の感動は、twitterで書いている」ということなのかもしれない。
しかし、実際にそのようなものは書かれていないし、研究についてtwitterで書けることにも限界がある。
だからこそ、MLをもっと活用してほしいと思っている。
こう言えばわかりやすいかな。
研究会MLをもっとtwitter感覚で使ってほしい。
研究しているなかでの驚きやうれしさ(そして悲しみや怒りも)、気づきや興奮、そういうものをもっともっとリアルタイムにシェアしてほしい。
僕は普段からそういうメール書いてるでしょ?
こんなの見つけた!見て! とか。
ああいう感じだよ。
各メンバーの感動が(リアルにもヴァーチャルにも)渦巻いている組織。
そういう組織こそが、生き生きとした創造的な成果を生み出すのだ、と僕は思う。
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