井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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モバイル時代の英語力強化法:日本にいながらの環境構築(3)

2. 日本にいながら英語力を高める方法

さて、ここまでの話を踏まえて、「だから外国にいくことが大切です」という結論に達するのでは、あまりにも面白くないだろう。たしかにひと昔前までは、実際に現地に何年か住まないと身につかない、というのはひとつの真実だったのかもしれない。しかし、ここでは、それとは違う方向性を探求したい。「日本にいながらどうやって英語力を伸ばすのか」を考えたいのである。

この「日本にいながら」ということが現実味を帯びてきたのは、情報技術の発展のおかげである。インターネット経由で海外の情報・コンテンツが容易に、かつ安価に入手できるようになった。また、モバイル機器の登場によって、自分の身の回りに「パーソナルな環境」をつくり、持ち運ぶことができるようになった。これらを最大限に活用することで、日本で生活しながら海外にいるような環境をヴァーチャルに(実質的に、事実上そうであるように)つくり上げることはできないだろうか。その具体的な方法について考えてみたいのである。以下では、私の試行錯誤の経験から、具体的な方法を紹介することにしたい(これらは私自身が今も行っているものである)。


2 . 1 「言語のシャワー」を浴びる環境をつくる

日本にいながら英語力を高める第一方法は、「音としての英語」に絶えず触れることができる環境を構築することである。これは、現地で授業や講演を聴いたり、カフェで周りの人たちのおしゃべりを聴いたりするということと同じ状況を、ヴァーチャルに構築するということである。自分が興味ある分野・内容の音声/映像コンテンツを、iPodやiPad 等のモバイル機器に入れておけば、どこでも英語に触れることができるパーソナルな環境が出来上がる。この「言語のシャワー」をじゃぶじゃぶに浴びるための環境が、現地で英語を聴く機会が多いということの代わりをしてくれる。そのような環境を構築する要素として、ここでは、オーディオブック、講演映像、授業映像、テレビ映像、ラジオ音声を取り上げたい。

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オーディオブック

英語環境構築の一つ目の要素は、オーディオブックである。私が利用している「audible.com」( http://www.audible.com/ )では、本として出版されているものを音声で読み上げて収録したオーディオブック(音声ファイル)を販売している。1冊あたり8時間とか10時間くらいの長さになる。このオーディオブックがよいのは、対応する本が存在するということである。オーディオブックを聴いていて、聴き取りにくい部分の英文を本で確認することができる。逆に、本で読んだあと、音声で聴くということもできる。こうすることで、多重的に自分のなかに入ってくるはずだ。いくつか試したなかで、私のおすすめのコンテンツは、『Wikinomics』(Don Tapscott & Anthony D. Williams)である。もともとわかりやすく魅力的な表現/時事的な言葉が多い本なのだが、このオーディオブック版は、非常にゆっくりとしたペースの語りで、初心者にとって聴き取りやすい。このほか、私のお気に入りは、『The Stuff of Thought』(Steven Pinker)と 『The Trouble With Physics』(Lee Smolin)。ネットワーク科学の『Linked』(Albert-Laszlo Barabasi)もオーディオブックで出ている。『Grammar Girl's Quick and Dirty Tips to Clean Up Your Writing』(Mignon Fogarty)は、内容が英文ライティングの内容であるうえに、女の子のペラペラしゃべる感じが異色な感じで、他のオーディオブックに飽きたときには、よくこれを聴いている。

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講演映像

英語環境構築の二つ目の要素は、ウェブで公開されている講演映像である。私が活用しているものに「TED: Ideas worth spreading」( http://www.ted.com/ )があるが、このサイトでは世界的に有名な専門家たちが一般聴衆向けに行った魅力的な講演映像が多数公開されている。高詳細な映像をダウンロードしてPC で見ることもできるが、PodCast でダウンロードし、iPod 等で見る(聴く)こともできるので、時と場所を選ばない。また、10~20 分程度の講演なので、短時間で楽しめる点もよい。研究者も数多く講演しているほか、実務家や芸術家の講演/パフォーマンスもある。これまで見たなかで個人的に好きなのは、Steven WolframJohn MaedaFreeman DysonLee SmolinSteven StrogatzDaniel Dennett などである。オーディオブックのように「書かれた文章」を読み上げているのではなく、聴衆に語りかけているので、抑揚があり、自らのオーラリティーを高めるための参考になるだろう。

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授業映像

環境構築の三つ目の要素は、授業映像である。授業映像で有名なものに「iTunes U」( http://www.apple.com/education/itunes-u/ )があるが、実に様々な大学・学部の講義が映像としてアップされている。先ほどの講演映像とは異なり、授業なので、回を重ねてじっくりと説明がなされたり、議論が深められていく。いくつかの講義を選んで、自分なりの時間割を組めば、擬似的な留学体験ができるだろう。このほか、授業映像としては、「The Teaching Company」( http://www.teach12.com/ )という会社が販売しているレクチャーDVD もおすすめである。これは、大学で行った講義を収録したものではなく、このために録画された講義である。私がこれまで楽しんだのは、『Chaos』(Steven Strogatz)、『Understanding Complexity』(Scott E. Page)などである(このDVD、定価は高いが、毎日のように商品指定のSaleをしているので、それにタイミングを合わせて買うとよい)。

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テレビ映像

英語環境構築の四つ目の要素は、テレビ映像である。私が見ているのは米国でのテレビドラマシリーズのDVD で、英語字幕を表示して見る。ドラマでは、講演やレクチャーのようなモノローグではなく、ダイアローグ、つまり会話が展開する。また、口頭での省略やスラングも登場する。ドラマなので、あくまでも脚本に基づく演技ではあるが、それであるがゆえに、音声と同期して文字ベースの確認ができるので、他にはないメリットがある。また、時事的なコンテンツがよければ、海外の英語ニュースのストリーミングなどを見るのもよいだろう。最近では、YouTube に「CC」(Closed Caption)の機能もついているので、CC データが含まれていれば、様々なコンテンツを英語字幕も表示させながら見ることができる。


ラジオ音声

英語環境構築の五つ目の要素は、ラジオ音声である。今日、ラジオの音声がWeb 経由でストリーミングされていることが多い。例えば、私がボストンで聴いていたFM 局「Magic 106.7」( http://www.magic1067.com/ )も、Web 経由で日本で聴くことができる。ラジオ局によって内容やバランスはいろいろであるが、音楽とトークが混ざっているラジオ音声は、BGM として流しやすいだろう。

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以上の五つの要素のどれか一つに絞るのではなく、すべて取り入れるとよい。それぞれに特徴が違うので、ある方式に飽きたら、別の方式のものを流す、というようにすることで、絶えず英語が流れている状況を継続させることができる。「英語を聴く/聴かない」という選択ではなく、「どれで英語を聴くのか」という選択に変えることが大切なのである。

また、このヴァーチャル環境構築を支える機器も、いろいろ組み合わせて使うとよい。私の場合は、音声ものはiPod と自家用車の車載HD、音声と映像はiPad に入れている。当初、映像はPC で再生していたが、研究上の重い処理をさせているときにPC に負荷がかかりすぎるため、現在は映像はiPad に入れ、それをPC の横に置いて絶えず再生するようにしている。このように、いくつものコンテンツを、いくつもの機器に入れておき、状況に応じて何かしらの英語コンテンツが絶えず流れているようにする。これが、日本にいながら、ヴァーチャルに英語に触れることができる「言語のシャワー」環境を自ら構築するということである。

(つづく)

※「モバイル時代の英語力強化法 ―日本にいながらの環境構築―」(井庭 崇, 『人工知能学会誌』, Vol. 25, No. 5, 2010年9月)をベースに加筆・修正
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モバイル時代の英語力強化法:日本にいながらの環境構築(2)

1. 米国での研究生活で感じた自分の英語力の低さ

1 . 1 スピーキング

米国滞在中、何が最も難しかったかというと、それは何といってもスピーキングだろう。これは、相当厳しい。まず、言いたいことが文としての体をなしていない。構造が明らかに変、単語がきちんと選べていない、時勢はめちゃくちゃ、論理的でない。内容が知的であるとか、説得的であるとか、魅力的であるということ以前の問題である。言いたいことを言葉にしようとした途端、まるで幼稚園児のようなレベルになってしまう(いや、幼稚園児の方がよっぽど口が達者かもしれない)。旅行で使う英語や、「自分は何をしたい」とか「○○はどこ?」という会話にはあまり問題を感じなかったが、概念的な説明や論理的に主張をしようとすると、途端に破綻する。これまで国際学会で口頭発表をしたときの「出来た」感は、一体何だったのか?

結局のところ、その場で話をつくり出せるほど、自分のなかに英語の言い回しのストックがないということなのだ。英語表現におけるパターンといってもいい。話しをするときには、自分のなかにある表現のパターンを即興的に組み合わせながら、言いたいことを構成する必要がある。かつてWalter J. Ong [5] が論じたように、口承伝承の語り部は、物語のパターンをたくさん覚えていて、それらを即興的に組み合わせながら語っていた。英語で何かを話すときにも、まさにこの語りのパターンが必要なのだ。母語である日本語では自然に身に付いているパターンも、第二言語である英語ではそうはいかない。滞在中は、自分には英語でのオーラリティーが圧倒的に足りないと、日々痛感していた。

それに加え、発音やイントネーションの問題で通じないことも多い。自分の専門に直結する基本単語でさえ通じない。例えば、私の場合、"pattern" や "theory" という単語が通じなくて苦労した。"Pattern Language" や "Systems Theory" を専門にしているにもかかわらず、である。特に通じにくかったのは、自分の研究を交えて自己紹介するときである。相手は私がどの分野でどのような研究しているのかをまったく知らず、どのような言葉が出てくるのかを事前に想定し得ない場合である。そのような状況では、より正しい発音/イントネーションで話さないと、通じないのだ。これまで学会などで話が通じていたのは、学会のコンテクストや、発表スライドに書かれた文字のおかげだったのだろう。最終的には、これらの基本単語は、地域のボランタリーなESL クラスで、正しい発音を直接教えてもらうことで少しは矯正できたかもしれないが、不安な単語はまだまだたくさんあり、道のりは長い。

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1 . 2 リスニング

次に、リスニングについて。途中からだいぶ改善されたが、特に最初の半年は苦労した。なぜリスニングが難しいのかというと、いくつかの理由が考えられるが、そのなかでも、事前にはあまり想像していなかった難しさがあったので、その点について触れておくことにしたい。それは、米国で英語を話している人は、必ずしも英語が母語の人ではない、ということだ。ボストンは米国のなかでも特に国際的な街であり、研究者も学生も実に多様な国から来ている。そのため、訛りも多種多様であり、ときには「これは本当に英語?」と耳を疑ってしまうほどのこともあった。このような経験をすると、これまで私が日本で触れてきた英語は、英語ネイティブの「発音のきれいな」英語だったと気づいた。しかも、たいていの場合、日本人の癖や傾向を知った上でわかりやすく発音してくれている、日本人に聞き取りやすい英語だったのである。この「発音のきれいな」英語でなんとか聴き取れるかどうか、というレベルだった私には、この多様な訛りの英語を理解するのは、きわめて困難なことであった。しかし、これこそがグローバルな時代の英語なのだろう。

私の経験では、このリスニングの問題は、「慣れ」によって解消できる。スペイン語ネイティブの人はこの音がこう聞こえる、ドイツ語ネイティブの人はこの音がこう濁る、中国語ネイティブの人はここがこうなる、というように徐々にわかってくる。こういう感覚的なものは、おそらく経験の中で把握していくしかない。滞在中に大学の授業をまともに受けたわけではないので、リスニングの機会も限られていたが、それでも、1年間で最も伸びたのはリスニングの力だと思う。日頃、リスニング力が一番伸びにくいと思っていたので、これは意外なことであった。まさに「習うより慣れよ」である。毎日、カフェで周囲の人のおしゃべりが自然と耳に入ってくる。そういった「言語のシャワー」[6]を浴びることで、英語を音として聴くための回路が、自分のなかでつくられていくのだ。

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1 . 3 ライティング

そして、ライティング。向こうでも英語で論文を書くことになるわけだが、これはこれで苦労した。もちろん、いままでも英語で論文を書いた経験はあるが、以前にも増してきちんとした英語で書きたい、説得的で魅力的な文章を書きたい、という思いが強くなったため、苦戦することになった。特に昨年は、自分にとって新しい分野の論文を書くことにしたため、その分野の本や論文を徹底的に読み、言い回しを勉強しながら書く必要があった。分野/テーマが変われば、そこでの特有の言葉遣いや言い回しを身につけなければ、説得性や魅力を出すことはできないだろう。振り返ると、この遠回りはかなり重要であり、それがその後の研究自体をもドライブしたと思われる。書くことは考えることであり、書くスタイルは、考えるスタイルにもつながるのだ。これは重要な気づきであった。

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1 . 4 リーディング

米国滞在中は、本や論文は英語で読んでいた。内容を学ぶために読むこともあれば、表現を学ぶために読むことも多かった。すでに書いてきたように、スピーキングにしてもライティングにしても、言い回しが身についていないのは、これまで英語で読む量が圧倒的に少なかったからである。結局のところ、書籍については、日本では多くのものが翻訳されているので、それらを読むことで事足りてしまう。論文も、内容がわかればいいという感じで、アブストラクトや重要部分を中心につまみ食いしながら読みがちである。また、そのとき、何に注目して読んでいるかというと、ほとんどの場合内容の方であり、表現の方にはあまり意識がいってなかったように思う。文章の表現を意識的にみるということをしないと、表現のストックはたまらないのである。

聞くところによると、韓国のエリート養成では、高校生が年間に何十冊も洋書を読むという。どのような本なのかは定かではないが、数週間に1冊のペースである。これだけの量を、今の日本の大学生・大学院生や教員が読んでいるかというと、まったくもってあやしい。実際、私自身は、渡米前はそれだけの量を読んでいなかった。昨年からは、英語で書かれた本を読む量を圧倒的に増やし、英語での読書も楽しくなってきた。すでに邦訳でもっている本も、原著を買って読み直した。内容はすでにわかっているので、英語の表現に注目しながら読むことができるので、これは効果的だったように思う。「内容を知るための読書」ではなく、「英語での表現を学ぶための読書」である。

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(つづく)

[5] Walter J. Ong, Orality and Literacy, 2nd Edition, Routledge, 2002
[6] 学習パターンプロジェクト, Learning Patterns: A Pattern Language for Active Learners at SFC 2009, 慶應義塾大学SFC, 2009 ( http://learningpatterns.sfc.keio.ac.jp/ )

※「モバイル時代の英語力強化法 ―日本にいながらの環境構築―」(井庭 崇, 『人工知能学会誌』, Vol. 25, No. 5, 2010年9月)をベースに加筆・修正
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モバイル時代の英語力強化法:日本にいながらの環境構築(1)

昨年度(2009 年度)、私は1年間大学業務をお休みし、海外で研究する貴重な機会をいただいた。私が所属したのは、MIT Center for Collective Intelligence という、マサチューセッツ工科大学 スローン経営学大学院の研究所である。研究所のディレクターは、『The Future of Work』[1]の著者であり、情報技術が経営・組織をどう変えるのかを長年論じてきた Thomas W. Malone 教授である。オープンソース開発やオープンコラボレーション、予測市場などの「集合知による新しい組織化」が社会・組織の在り方をいかに変えるのかを考え、実践する研究所である。

私は、この研究所の Research Scientist である Peter Gloor 氏と、彼のもとに集まる学生・研究員との共同研究プロジェクトに参加した。Gloor 氏は、ダイナミックなネットワーク分析によってトレンドの予測をするという、この分野では珍しいタイプの研究をしている研究者である(その成果は、彼の『Swarm Creativity』[2]や『Coolhunting』[3]、『Coolfarming』[4]という本で紹介されている)。私は、この研究所を軸足として、MIT Media Lab、Harvard University Graduate School of Design、Harvard Kennedy School、Northeastern University などにも、ことあるごとに足を運んだ。ボストンならではの多様な知的コミュニティとそこでの交流を垣間みることができた。

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このエッセイでは、私自身が1年間の滞在を通じて最も強く感じ考えたことについて書こうと思う。それは、簡単にいうならば、「英語力は、いったいどうやったら伸ばすことができるのか」ということである。私は滞在中、これまで日本で長い期間英語教育を受けてきたにもかかわらず、どうして自分はこれほどまでに英語ができないのか、と何度も情けなるとともに、自分や日本の英語教育に対してある種の怒りさえ覚えた。日米の研究スタイルの違いなどよりも、何よりもこの英語の問題が最も痛感した問題なので、このエッセイのテーマを「英語」にすべきだと判断した。変に格好をつけたりせず、まずは、私の経験を赤裸々に語ることにしよう。その上で、どうしたら英語力を高めることができるのか、特に日本にいながらそれを行うにはどうしたらよいのかについて、私の考えを書くことにしたい。

(つづく)

[1] Thomas W. Malone, The Future of Work, Harvard Business Press, 2004
[2] Peter Gloor, Swarm Creativity, Oxford University Press, 2006
[3] Peter Gloor, Scott Cooper, Coolhunting, AMACOM, 2007
[4] Peter Gloor, Coolfarming, AMACOM, 2010

※「モバイル時代の英語力強化法 ―日本にいながらの環境構築―」(井庭 崇, 『人工知能学会誌』, Vol. 25, No. 5, 2010年9月)をベースに加筆・修正
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米国ボストン出張(2010年秋)

昨日まで1週間ほど、米国ボストンに出張してきた。今回は学会参加ではなく、現地の研究者とのミーティングと交流が目的。

最も大きなイベントは、ノースイースタン大学のバラバシ・ラボ(Center for Complex Network Research)での講演。講演タイトルは、"Hidden Order in Chaos: The Network-Analysis Approach to Dynamical Systems" (Takashi Iba) 。昨年取り組んでいた離散カオスのネットワーク分析の研究について、初めて人前で話したことになる。後半には、”Chaotic Walk"(「カオスの足あと」とも呼んでいる)研究の紹介もした。英語での講演(1時間)はまだたどたどしいが、手応えはあった。

発表の前後に、センターの若手の研究者たちとの交流もできた。つい先日 Nature に論文が掲載されたポスドクの Yong-Yeol Ahn や、人文・芸術系の分野でネットワーク分析の展開を推進している訪問研究者 Maximilian Schich、そのほか大学院生たちだ。ひとつ共同研究も始まりそうだ。

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また、MIT Media Labの Cesar Hidalgo のラボも訪問した。彼はネットワーク科学の国際学会つながりの友人。昨年度までHarvard Kennedy Schoolにいたが、今年からMIT Media Labに移り、「Macro Connections」というラボを立ち上げた。今年はMedia Labに、若手がリーダーのラボが3つ立ち上がったらしいが、これはそのうちの一つ。社会・経済のネットワーク分析の若手が、Media Labでどのように研究を展開するのか非常に楽しみだ。

あと、僕が昨年1年間過ごした MIT Center for Collective Intelligence も訪れ、最近の動向や研究上の話などをした。それ以外にも、現地にいる研究者/学生(日本人も含む)とたくさん交流ができ、非常に充実した1週間であった。

さらに、言語習得に関しても現状の確認と今後の目標が定まった。リスニングについては、それなりに聞けるようになっているのを確認した。次は、英語の発音とイントネーションをきちんと改善したいと強く思った。(今後、少しそちらのトレーニングをきちんとやることにしようと思う。)

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今回は、ホテルではなく、ウィークリーアパートメント(といっても戸建ての一部屋)に滞在した。その方がホテルに泊まるよりも安いし、町を満喫できる。行き慣れているスーパーで買い物をし、自分で朝食をつくり、Zipcar(時間貸しのレンタカーのようなもの)や地下鉄で町を移動し、いつもの店でランチを食べ、お気に入りの本屋で知的な休憩をする。やっぱり、僕はボストンの町並みと生活が好きだなぁ〜、と再認識。そして、空が広い。この自然のスケール感も好き。

研究の面でも、言語習得の面でも、精神的な面でも、たくさん刺激を受け、これからの秋冬の知的生活の原動力を得た。さあ、またがんばるぞ!


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※昨年住んでいたマンションの裏庭には、まだワイルドターキーちゃんがいた。思わず、"Wow! You are still here! How are you?"と声をかけた。いつもどおりマイペースで歩いていたので、元気なのだろう。
このブログについて/近況 | - | -

自分が「考える」ことの中心にいる。

クリストファー・アレグザンダーの『A Pattern Language』(邦題:パタン・ランゲージ)に、次のような言葉がある。

In a society which emphasizes teaching, children and students --- and adults --- become passive and unable to think or act for themselves. Creative, active individuals can only grow up in a society which emphasizes learning instead of teaching.

教えることを重視する社会では、子供や学生——また大人でさえ——が受動的になり、自分で考えたり行動できなくなる。教えることではなく、学ぶことを重視する社会になってはじめて、創造的で活動的な個人が育つ。

これは、"Network of Learning"(学習のネットワーク)というパターンの冒頭の文章である。まったくもってその通りだと思う。

教えよう、教えよう、とすればするほど、教えられる人はますます受け身になり、「与えられる」ことに慣れてしまう。これは、「教育」という営みが元来抱える葛藤だと言えるだろう。


そんなことをわかっていながら、僕はついつい「教える」モードになりがちで(基本的におせっかいなのだ)、その結果、学生たちの「自ら考える力」を弱めてしまうことが多い気がしてならない。

そういう背景(コンテクスト)があるので、先日書いた「教育しようなんて考えを、僕は捨てることにした。」という話になる。


さて、逆の立場からすると、「教えられない」「与えられない」としたら、どうしたらよいのだろうか?

自分で考え、行動し、学ぶ。

このことに尽きる。

自分が今、考えるべきことをしっかり考える。
自分が今、何を考えるべきかも自分で考える。
どう考えるかも自分で考える。


つまるところ、自分が「考える」ことの中心にいる、ということだ。


物事を自分を中心に考えるのは傲慢だが、自分が考えることの中心にいるのは素晴らしいこと。

しかし、自分で考えるというのは、実際にはかなり難しい。

それでも、それを抜きにすることはできない。実践あるのみだ。



もちろん、「自分で」というのは、「孤立」を意味するわけではない。

中心には必ず周辺が必要なのであって、システムには環境が必要なのと同様だ。



考える中心としての自分と、そこから広がるネットワーク。

もはや、教員 対 学生、という二者関係では考えることはできない。

この意識・感覚は、とても大切だと思う。


References
  • Christopher Alexander, Sara Ishikawa, Murray Silverstein, A Pattern Language: Towns, Buildings, Construction, Oxford University Press, 1977.
  • クリストファー・アレグザンダー 他(著), 平田 翰那(訳), 『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』, 鹿島出版会, 1984.
  • 「研究」と「学び」について | - | -

    “つくる数学” と “つくる授業”

    今年度から担当することになったSFCの科目「複雑系の数理」も、授業のやり方について新しい試みをしている。

    この科目では、複雑系の科学で行われている「つくることで理解する」(構成的理解)を実際に体験しながら、カオスなどの概念・理論を理解することが目指されている。

    「つくることで理解する」ことを目指すからには、単に与えられた課題をこなすのではなく、自分たちで「つくりながら」学ぶことが望ましい。できあがった理論をただ暗記するのではなく、研究者が日頃行っているような試行錯誤をしながら前に進んでいく感覚を味わってほしい。


    そこで、履修者たちが自ら授業を「つくる」という方式にすることにした。いうなれば、「つくる数学」を学ぶための「つくる授業」。

    ふつう、大学の授業というのは、教員が概念を説明し、演習用プログラムも配布し、質問にも答えるというかたちをとる。しかし、このやり方で一番「学び」が多いのは、実は、授業準備をする教員であって、その話を聞く学生はその一部しか得ることができないことが多い。

    そんなのはあまりにも学びたい学生に対して失礼ではないか!ということで、この科目ではまったく違うアプローチをとることにした。履修者に一番学びが多くなるような授業設計だ。具体的にいうと、履修者自身が事前に概念・理論を調べ、勉強し、他の履修者に説明する。演習用プログラムも用意し、質問にも答える。

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    実際どのように進めていくのかというと、履修者は3人でチームを組み、各チームはテーマ候補から、1つを選択してもらう。あとは、自分たちの担当の回までに授業準備をし、当日、他の履修者(と僕)に向かって授業をする。

    1回の授業あたり2チームが割り当たっていて、概念・理論の説明だけでなく、演習プログラムの準備、演習の進行、そして、その他のファシリテーションもすべて任されている。僕がやるのは、説明が間違っているときに指摘をしたり、必要なときに補足したり、最後にまとめの解説を行うだけ。

    このように、自分たちが参加する授業を自分たちでつくる。これがこの授業のコンセプトである(ということを履修前に告知してあるので、それを了承した学生だけが履修している)。

    先生が黒板に書いた数式をノートにひたすら写すのでもなく、与えられた課題を解くのでもなく、自分たちが中心となって授業を構成する。「つくる数学」を「つくる」こと無しに学ぶのではなく、「つくる数学」の授業を「つくりながら」理解する。体験としての学びではなく、行為としての学びと言ってもいいかもしれない。

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    初回のテーマは、ロジスティック写像におけるカオスで、ひとつのチームがCobweb Plotについて、もうひとつのチームが初期値の鋭敏性について担当した。初回ということで、多少の混乱があったものの(自分たちの担当範囲の勘違いや、概念の理解の間違い)、おおむねうまくいったと思う。

    僕の予想を超える出来事もあった。授業の演習で簡単なグループディスカッションをし、それをみんなに発表させ、面白かったグループに、賞状を授与するというチームがあったのだ。そんなこんなで、数理系の授業としては、かつてないほど盛り上がったのではないだろうか。今後も楽しみである。

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    授業関連 | - | -

    メディアとしての学習パターン:対話ワークショップの狙い

    ひとつ前のエントリ「"Design Your Learning!" Dialogue Workshop @SFC」で紹介したワークショップ。「学習パターン」を使ったこのワークショップで僕らが狙ったのは、大きく分けて次の二つのこと。

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    まず第一の狙いは、これから取り入れたい学習パターンのSolution(解決策)とAction(アクション)の具体的なイメージを掴んでもらう機会を提供することである。

    パターン・ランゲージは抽象的に書かれているので、自分が経験していないパターンを実感することは少々難しい。パターン・ランゲージでは、あえてそのように抽象的に書いているのであるが、パターンの記述に加えて、具体的な実現例を少し知るだけでも理解度がグッと増す。

    このワークショップでは、体験した人がその場で語ってくれるので、そのパターンをリアルに実感することができる。そして、ピンとこなければ質問だってできる。このような過程を経て、自分のこれからの学びのデザインに役立てることができるのだ。

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    そして第二の狙いは、「語り部」として自分の体験を語ることで、自分のなかにある「学び方」とその経験を振り返る機会を提供することである。自分を「学びの達人」だと思っている人は別として、ほとんどの人は、自分の学び方やその経験は、他の人に語るほどのものではないと考えているだろう。

    ところが、自分が実践した(ささやかな)学びの経験でも、学習パターンのどれかに当てはまり、その具体事例として捉え直すことができれば、それは語る価値があるものに思えてくる。

    しかも、実際に話すと、体験談を知りたいと思っている人が、「なるほど!」と、うれしそうに聞いてくれる。

    このように、学習パターンがメディアとなり、多くの人のなかに眠っている「学び」の経験談を、コミュニケーションの俎上にのせる。この経験は、その場でのコミュニケーションを誘発するだけでなく、自分の学び方や経験についての振り返りの思考を促すことにもなるはずだ。


    全員が、聞き手であり語り部であるという対称性をもつことはすでに書いたが、学習パターンを用いたワークショップは、聞き手の立場にいても、語り部の立場にいても、学びについて考える機会となるのである。

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    実は、去年から学習パターンを用いたワークショップの案については、井庭研/学習パターンプロジェクトでは議論を重ねていた。しかし当時は、「学習パターンを知ってもらう」という意図で構想していたため、面白そうなワークショップを思いつくことができなかった。

    今回のワークショップは、みんながもっている(ささやかな)経験を、学習パターンの光のもとで語ってもらう、という「語り部」への着目が功を奏したと思う。


    特に意識してはいなかったが、この発想の転換が可能だったのは、もしかしたら今年の春にお会いした今村久美さんの「カタリバ」の話の影響が、僕のなかに残っていたからかもしれない(今村さんにお会いしたのは『三田評論』座談会)。もしそうであるならば、出会い・語り合うということは、未来を変える可能性をもっているということになる。

    この学習パターンのワークショップも、学生の誰かが「出会い系だ!」と言っていたが、そういう未来を変える「出会い」につながるならば、僕らとしてはとてもうれしい。
    パターン・ランゲージ | - | -

    "Design Your Learning!" Dialogue Workshop @SFC

    SFCの授業「パターンランゲージ」で、初めての "Design Your Learning!" Dialogue Workshop with Learning Patterns を行った。学びのパターン・ランゲージである「学習パターン」を使ったオリジナルのワークショップだ。

    ワークショップの内容は、40個ある学習パターンのなかから自分がこれから取り入れたいと思う5つのパターンを選び、すでに経験している人から体験談を聞くというものである。

    人によって取り入れたいパターンも経験しているパターンもばらばらなので、全員が聞き手、かつ、語り部となる。

    ワークショップの時間を短縮するため、事前準備として、前の週に次のような宿題を出しておいた。

    『Learning Patterns』(学習パターン)の冊子を読み、以下のものを作成する。

    (1)自分が体験したことがある「学び」のパターンについて、すべてリストアップし、各パターン100~200字の体験談/エピソードを書く。複数枚にわたる場合にはホッチキス止めで提出。

    (2)自分が体験したことがある「学び」のパターンのリストを、A4用紙1枚に収まるように、なるべく大きめに印刷する。

    (3)自分が今学期取り入れたい「学び」のパターンを5つ選ぶ。それを A4用紙1枚に収まるように、なるべく大きめに印刷する。

    (1)は事前に一度経験を思い出しておくための準備であり、実際のワークショップでは、(2)と(3)の紙を使う。

    ワークショップを始める前に、まず教室の机と椅子をすべて壁側に寄せて、真ん中に大きな場をつくる。これで場づくりは完了。


    ワークショップでは次のことを行う。

    参加者は「自分が体験したことがあるパターンのリスト」の紙と、「自分が今学期取り入れたい5パターンのリスト」の紙を手に持って歩く。

    自分が今学期取り入れたいパターンを、すでに体験している人を探す。ただし、ふだんから話す機会がある友達は避ける(この機会がなければ話さないと思われる人と話す)。

    体験している人を見つけたら、体験談を聞き、「体験談の概要」と「その人の名前」をメモする。1パターンあたり、何人も聞く。

    逆に、自分の体験したパターンについて、体験談を他の人に話す。

    このようにして、ワークショップ中に、5パターン分すべての体験談を集める。5パターンそれぞれ最低1人は違う人の体験談が入るようにする。

    ルールは、たったこれだけ。所要時間50分。


    ワークショップは、(僕らが予想した以上に)かなり盛り上がっていた。

    自分の体験を生き生きと話す。そして、自分が取り入れたい「学び方」を実践している人から話を聞く。

    誰でも何らかの「学び」を日々実践しているので、知らない人同士であっても、必ず何らかの共通点や、理解しあえる差異があるものだ。特に、同じキャンパスにいる学生同士なので、重なる部分はさらに多くなるはずだ。

    学習パターンが、コミュニケーションのメディアとなり、ふだんはなかなか語らない/聞くことがない各人の「学び方」に関するコミュニケーションが誘発される。これが、このワークショップの肝である。

    ワークショップに込めた僕らの狙いについては次の機会に書くとして、今回はパターン・ランゲージを使った新しいワークショップをやったという報告まで。

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    授業関連 | - | -

    めずらしく小説を読んでいる

    小説を無性に読みたくなる時期というのがある。

    ほとんど小説を読まない僕にとって、かなりめずらしい感覚だ。

    それは突然訪れ、いきなり終る。



    ふだんから僕は本をよく読む方だが、それは科学書や思想書などの類の本。

    小説に描かれた世界を味わおうという気持ちは、これっぽっちも生まれてこない。

    でも不思議なことに、この時期には、逆に科学書などを読む気が失せてしまう。



    実は半月ほど前から、その波がやってきている。おそらく、7、8年ぶり。

    今回も、それは何の理由もなく始まった。

    そんなわけで、めずらしく小説を読んでいる。



    僕の印象では、小説には、「生」と「性」について書かれているものが多い。

    「生」は「死」との関係において、「性」は「愛」・「苦悩」との関係について。

    そういったテーマで、具体的なストーリーが、出来事や会話が、描かれる。



    僕が小説を好きになれなかったのは、「死」と「苦悩」が過剰すぎるからだ。

    人はよく死ぬし、愛(ときには歪んだ)や葛藤・苦悩で満ちあふれている。

    おそらく、人生にはそういうものが必要なときがあって、それを読むことが考えることになったり、救いになったり癒しになったりするのだろう。

    (僕の場合、そういうものは思想や科学の知識で埋めようとしていたようだ。)



    今回は、少しいつもと違う感覚を味わえている。

    「そういうことあるよね」とか「こういうの素敵だな」という気持ち。

    そして、「こういう時期って確かにあるね」という懐かしさ。

    「もう僕は経験できないけど、そういう人生もあり得るね」という想像。



    大人になったというか、思春期からだいぶ離れた年齢になったこともあるだろう。

    (まあ、こんなふうに僕は、いろんなことに気づくのが、ふつうの人よりもかなり遅いのである。)

    しばらく、楽しめそうだ。
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    探究と方法/道具


    物事を、自分で探究していく。

    このことは、想像以上に難しい。



    「自分で」というからには、他律的ではなく自律的に取り組まなければならない。

    だから、「探究」はそのとき自分が持っている知識と経験から出発するしかない。

    そして、そのたびごとに「考える」ことが求められる。



    考えるなかで、今の自分では「到底 足りない」ということに気づくだろう。

    こうして、探究の支援となるような「方法」や「道具」を身につけることになる。

    むろん、方法や道具を習得し使いこなすのは、簡単なことではない。



    そうこうしているうちに、人は方法や道具に飲み込まれてしまう。

    「与えられた」方法や道具を、ただ盲目的に使うことになってしまうのだ。

    こうなると、「探究する人」どころか、もはや「考えない人」である。



    こういうとき、本人は「一生懸命考えている」つもりであるから厄介だ。

    でも実際には、方法/道具を適合させる「接点」について考えているだけ。

    ただ一点に注目するあまり、意義、経緯、限界への想像力を失っている。



    そうならないためには、どうしたらいいのだろうか?



    各人が十分気をつける ——— たしかに、それは必要なことではある。

    それは重要で、必要なことではあるが、十分ではないだろう。

    人間は、見えないものへの想像力をいとも簡単に失ってしまう生き物だから。



    では、どうしたらいいのだろうか?



    僕の考えは、こうだ。

    「方法/道具をつくる探究」と「各人の探究」とを両方行う。

    この二重構造のなかで前に進んでいく。これしかない。



    もう少し具体的に言うと、こういうことである。

    「方法/道具をつくる探究」を複数人で行う。

    それと並行して、「各人の探究」を行う。



    みんなでモデリング&シミュレーションの方法/道具をつくりながら、各自、個人研究をする。

    みんなで社会分析の方法/道具をつくりながら、各自、個人研究をする。

    みんなでパターン・ランゲージの方法/道具をみんなでつくりながら、各自、個人研究をする。



    こういうことを、僕の研究会ではやってきた。

    振り返ると、こういう二重構造があるときは、うまくまわっている。

    どちらか一方に偏っているときには、うまくまわらなくなる。



    二つのことを並行して行うのは、大変ではある。

    でも、「自分のことで精一杯」と思い込み、実際そう行動する人は伸び悩む。

    なぜなら、自分の視野・能力・想像力の限界を超えるチャンスを逃すからだ。



    おそらく、研究会ごとに独自の方法/道具があるはずだ。

    それらをただ「知る」のではなく、「つくる」ことに参加しよう。

    このことこそが、「自分で探究していく」ことを可能にする。



    僕はそう考えている。
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