井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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ライティング・パターン「流れのチェック」(Water-Flow Check)

論文等を書くときのコツを、ライティング・パターン(Writing Patterns)としてまとめていきたい。今回は、書いている論文をブラッシュアップするときのコツである。


「流れのチェック」(Water-Flow Check)

上から下へ水を流して、最後まで流れきるかを調べよう。

Context: いま書いている論文で、書くべきことはとりあえずすべて書けた。
 ▼
Problem: 書かれた文章の部分と部分のつなぎ方が不自然だったり飛んでいたりして、説得的でなかったり信頼に欠ける論文になってしまう。
 ▼
Solution: 読者と同じように、論文の内容を知らないという想定で、論文を上から下へ読んでいき、流れに強引さや飛びがないかをチェックする。これは執筆の後半戦で何度も行う。PCの画面上だけでなく、プリントアウトして紙で読むと効果的である。


これは基本中の基本だが、僕が赤入れする論文は、たいていこれができていない。たぶんやってないのだろう。せいぜい部分と部分の順番が正しいかの確認だけ。sectionの順番は気にするのに、文章の順番はあまり気にならないものらしい。

しかし、それでは足りない。このパターンで言いたいのは、水を流してどう流れるのかをみるくらいの精度でチェックするということ。順番の確認レベルではない。途中で、穴があったり、強引なカーブがあったりすると、水はちゃんと流れず、こぼれてしまう。

ポイントは「読者の気持ちで読む」ということへの本気度だろう。部分の順番の確認というのは、あくまでも著者の視点。そうではなく、ロールプレイ的に読者になりきり、上から下へ「言葉を拾い」ながら、それまでに出てきた情報だけで「理解」してみる。文章の上でただ目を動かすのではなく、読者としての「理解」までをシミュレートすることが大切。おそらく多くの人が、それをきちんとやっていないのではないのだと思う。

もちろん、この著者から読者への切り替えは、慣れないうちは難しい。最初のうちは、時間的に切断してしまうといい。プリントアウトされるまで待つ時間にも意味がある。あるいは、トイレに行く、コーヒーを入れる、軽くストレッチをするなどして、著者としての集中状態から一度離れる。

もうひとつのコツは、プリントアウトしたものを手に持ち、ぶつぶつ声に出して読む。そうすると、部分のつながりではなく、必ず言葉のレベルでの移動を余儀なくされる。しかも、言葉の音のリズムもチェックできる。

このようなチェックをするとき、僕は立って部屋のなかや廊下をぶらぶらしながらやることが多い。読者モードへの身体的な転換の方法である。論文執筆時は、座ってパソコンに向かうという姿勢が長くなるので、違う体勢になるという意味でもおすすめである。(僕が研究室で論文の赤入れをしているとき、プリントアウトした原稿とペンをもってどこかに行ってしまうのは、このため。廊下にいることが多い。)
ライティング・パターン | - | -

パターン・ランゲージ制作の拠点があるとしたら、どんなものだろうか?

ひとつ前のエントリー「クリエイティブ・メディア(創造的メディア, creative media)とは」で、パターン・ランゲージとパーソナル・ファブリケーションはともに、クリエイティブ・メディアだということを書いた。

そのように関連づけ、アナロジーで考えてみると、パーソナル・ファブリケーションにあって今のパターン・ランゲージにないのは、FabLabのような「場」だと気づく。パターン制作には高価な物理的装置は必要ないので、一見、場は重要でないように見えるが、それでも場について考えるのは重要かもしれない。

僕らがパターン・ランゲージをつくるとき、必ずひとつの場所に集まって作業するし、やりやすい環境や、必要な道具立て(ポストイット、サインペン、ホワイトボードなど)もある。だから、場が重要ではないとはいえない。しかし、これまで場の可能性については、ほとんど考えられてこなかった。

僕は、世界のあちこちで、また、いろんな分野・領域で、誰もが自分に必要なパターン・ランゲージ(より正確に言うならば、その上位概念のクリエイティブ・ランゲージ)を書けるようになることを目指している。そうであるならば、世界に点在する拠点とそのネットワークであるFabLabのように、僕らも場について、もっと真剣に考えるべきなのかもしれない。

街や組織のなかにパターン・ランゲージ制作の拠点があるというのは、どんな感じだろうか。FabLabから発想すると……あるパターンを書きたいと立ち寄り、熟練者からアドバイスをもらいながら書いて、来てる人たちでライターズ・ワークショップを行い、洗練させる。最後は冊子やオンライン化もできる。


いろいろな領域における創造・実践の知恵が行き交う空間。

それが言語化され、かたちになる場所。


考えただけでも、素敵な感じがする。

とはいえ、まずは僕はFabLabに遊びに行かねばらならない。

話はそれからだ。
パターン・ランゲージ | - | -

クリエイティブ・メディア(創造的メディア, creative media)とは

僕がパターン・ランゲージ制作で取り組んでいるのは、それがクリエイティブ・メディアをつくるということだからである。

クリエイティブ・メディアという言葉は、ソーシャル・メディアのように、数年後には一般的な言葉になると、僕は考えている。それは、僕の好きな言葉 "The best way to predict the future is to invent it."(Alan Kay)にあるように、自分がそうするという意味も含んでいる。


では、「クリエイティブ・メディア」とは何か。ここでは、作業定義として、以下のような定義を与えておくことにしたい。

クリエイティブ・メディア(創造的メディア, creative media)・・・人々の創造性を刺激し、誘発し、拡張するメディアの総称。エンパワーされるのは、個人のみならず、組織、社会も含む。上記の機能を果たせば、実装形態は問わない(言語、方法、ソフトウェア、装置など)。


パターン・ランゲージは、コミュニケーション・メディアであるとともにクリエイティブ・メディアでもある。デザインの実践知(発想・こだわり・知恵)が、相互に関係するモジュールとして記述されており、それらが、そのドメインでのデザインを支援する。人々をクリエイティブにするランゲージなのだ。

僕にとっては、パーソナル・ファブリケーションの装置たち(とそれにまつわる思想と方法)もクリエイティブ・メディアである。それがあることによって、創造性が刺激・誘発・拡張される。しかも、FabLabという場も同様にクリエイティブ・メディアとして機能している。


ここでいう「クリエイティブ・メディア」は、僕の「創造システム理論」(Creative Systems Theory)で言うならば、「発見メディア」(discovery media)とほぼ同義である。これは、ソーシャル・メディアはコミュニケション・メディアであるというのに似ている。

情報社会において、ソーシャル・メディアが重要な位置を占めたが、創造社会では、クリエイティブ・メディアが重要な位置を占めることになると考えるのが自然だろう。少なくとも僕はそう考えている。
創造社会論 | - | -

発想言語「新生復活の未来ヴィジョン」

未来ヴィジョンを考えるときの一つの発想の仕方として、「新生復活の未来ヴィジョン」と呼び得るものがあるように思う。

それを、発想言語の形式(Context、Clue、Consequence)で書くと、以下のようになる。


「新生復活の未来ヴィジョン」
Context:新しい時代のヴィジョンを掲げる。
Clue:過去と現在の二つの時代の特徴を象徴的に表現し、過去にあったよいもので現在失われたものを新しいかたちで復活させることを考える。
Consequence:未来の話は本来はイメージしにくいものだが、過去にあったものが変化したというものであば、未だ見ぬものへのイメージがわき、説得力も出る。


この考え方は、いろいろな著者に見られる。

例えば、この前取り上げたモリス・バーマンは、中世までは神の存在による「参加」があったが、近代は科学的な醒めた思考が支配して、自分と世界が分離してしまった。だが、中世の世界観には戻れない。だから、新しいかたちで「参加」が可能となる思想が必要だ、と言う。

パターン・ランゲージを提唱した建築家クリストファー・アレグザンダーも、同様の発想をする。昔は無意識的に「よい質」をもった街がつくられ、育てられてきた。しかし、近代社会では物の製造のように建築がつくられ、そういったよさが失われた。しかし、無意識的な時代には戻ることはできない。だから、意識の文化の上で、古きよき時代の質を取り戻す新しいプロセスとツールが必要だと考える。そのツールが、パターン・ランゲージであった。

まったく一緒ではないが、ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』
も語り口が似ている。文字がなかった時代には、物語は口承で受け継がれていて、その時代には「オーラリティー」が発達した。文字の時代になると「リテラシー」が発達し、オーラリティーは失われていった。しかし、これからは映像の時代であり、第二のオーラリティーの時代になるのだ、という。


このような発想の仕方は、別の対象にも適用できるだろう。つまり、未来ヴィジョンを考えるときに、過去から現在で失われたものを新しいかたちで復活させることで、現在の問題を解決したり、未来像を描いたりするのである。この発想の型を一度認識すれば、自覚的に使うこともできるはずだ。
発想言語 | - | -

発想言語(アブダクション・ランゲージ)の基本形式

以前このブログで、"「創造の知」の言語化 − なぜ僕はパターン・ランゲージをつくるのか?"というエントリで、「創造言語」(Creative Language)という概念を提唱し、それに関連する概念を整理した。

そのなかで、僕は、「創造言語」が創造を支援する言語であるということと、創造言語のひとつの形式が「パターン・ランゲージ」であるということを書いた。創造には、デザイン(問題発見・解決)的なものもあれば、そうではなく直感や経験にもとづく場合もある。そのなかで、デザインについてまとめたものがパターン・ランゲージなのだと考えた。

それでは、パターン・ランゲージではない創造言語には、どのようなものが考えられるのだろうか。今回は、そのひとつの案として、「発想言語」(アブダクション・ランゲージ)(とここで仮に呼ぶもの)について考えてみたい。

発想言語は、発想の型を記述した言語である。

パターン・ランゲージでは、context、problem、solutionという3つの要素で書いたのに対して、発想言語では、Context、Solution、Consequence の3つの要素が大切に思える。ただし、真ん中だけ「S」始まりなので、これを「C」に変えたくなり、Cで始まる「Clue」(手がかり、糸口、ヒント)という言葉で置き換えることにしよう。まとめると、こうなる。

発想言語(アブダクション・ランゲージ)の基本形式
Concext、Clue、Consequence


つまり、発想言語には、ある「状況」において、どういう「方法」でやると、どういう望ましい「結果」が得られる(と期待できる)のか、ということが書かれる。


このような形式がよいと考えたのには、これまでの僕らのパターン・ランゲージ制作の経験が関係している。

発想の仕方というのは、パターン・ランゲージの形式(context、problem、solution)では書きにくいのだ。というのは、発想の仕方で「こうするとよい」というのは、何かの問題を解決しているのではなく、ただそうするといいことがある、という経験則に過ぎないからである。そのため、発想の仕方について、無理矢理にパターン・ランゲージ形式でProblemを書こうとすると、とても嘘っぽいパターンになってしまう。そのような経験を何度もして、Probemを中心とするようなデザイン(問題発見・解決)の形式ではない記述形式の必要性を感じていた。

そこで、今回その代替案として、上記のような形式を考えてみたというわけだ。

なお、基本形式が変わることで、それら主要要素にぶら下がっている付加要素も、再編成されることになるだろう。例えば、パターン・ランゲージではProblemに付随していたForces(問題を生じさせている力)は、発想言語では、Consequenceにつけることにしたい。「Clueに従うとConsequenceを生む」ということを可能とする諸力を明らかにするのが、ConsequenceにおけるForcesだ。

このような「発想言語」というものも、パターン・ランゲージ同様、どんどん書いていきたい。
発想言語 | - | -

創造社会における「参加」(内と外の融解)について考える

創造社会」(Creative Society)とはいかなる社会かを考え、その姿を描いてくために、このブログではいろいろな観点から、創造社会や創造性について考えていくことにしたい。

今回は、モリス・バーマンの「参加」(participation)の概念を手がかりに考えてみたい。バーマンは『デカルトからベイトソンへ:世界の再魔術化』のなかで、近代の科学的意識とは別の意識として「参加する意識」(participation consciousness)について述べている。

バーマンによると、「参加する意識」とは、「自分を包む環境世界と融合し同一化しようとする意識」(p.14)のことである。これに対して、科学的意識は、「自己を世界から疎外する意識」(p.14)であり、「自然への参入ではなく、自然との分離に向かう意識」(p.15)であるという。

バーマンのいう「参加」(participation)とは、「自己の『内側』と『外側』が体験の瞬間において一体化すること」(p.79)である。それは「内と外、主体と客体、自己と他者とが、境界を貫いて結ばれること」である。そして、そういうときは、「『私』が、『経験をする主体』なのではなく、経験そのものになる。」(p.79) という。
Participation320.jpg

このようなことは、私たちの日常でも起きていると、バーマンは言う。「現代人にとっても参加する意識は、ごく日常的に現れているのだ。… 私にしても、たったいま、そのことを意識するまでは、タイプのキーを叩くことに没入していた。この文章を書いている「私」というものをまるで感じていなかった。」(p.79)

この感覚は僕もとてもよくわかる。何かをつくっているとき、つまり創造においては、うまくいくとこういう状態になる。このことを、創造の観点からすると、創造に関与しているのは、人も世界もである。つまり、創造に取り組んでいて、それについて考えようとすると、社会的なレベルでの主体と客体というのは消えさり、一体化するということだ。

このように、バーマンのいう「参加」とは、人が何かにコミットする・行為するという意味ではない。そうではなく、自分と世界の境界があやふやになり、その区別がなくなる(区別が重要でなくなる、その区別が本質的ではなくなる)ことを意味している。参加とは、内と外の境界の融解のことなのである。


自分の経験を思い出して、イメージしてみてほしい。何かをつくることに没頭しているときのことを。真剣に何かをつくっているときのことを。そうやって没頭して何かをつくっているときは、いまつくっているものがカタチづくられ、成長していくことが、中心的な出来事となる。そのとき、その創造で起きていることこそが、主要な出来事になり、それ以外のことは周辺的な事柄になる。

このとき、つくり手である「自分」と、自分がいる「世界」の境界・区別は、二次的な問題になる。創造にのめり込むほど、自分と世界の境界・区別は意識されなくなる。違う言い方をすれば、自分と世界はコラボレーションしているのであり、創造の企ての共謀者となる。あるいは、こう言ってもいい。いまつくっているものが成長していくのは、「自分」を含む「世界」が作用しているからだ、と。

いま書いてきたことを、僕の「創造システム理論」(Creative Systems Theory)的に言うならば、創造における発見の連鎖(のオートポイエーシス)が活発なとき、それ以外はすべて環境側に位置するものになるということだ。発見という水準においての区別が重要なのであり、主体と世界という区別は意味を失うことになる。

CreationCentered.jpg


いまのことを僕の例でひとつ。3年前に、カオスの状態遷移ネットワークのなかにスケールフリーネットワークが潜んでいることを発見したときのこと(論文1論文2、)。

3年前のある日、カオスの状態遷移を試しに描いてみたら、なかなか複雑なネットワークであることがわかった。こういうときは、可視化だけでなく、指標でみようということで調べてみたら、次数がべき乗分布に従っていて、スケールフリーネットワークだった。

これはすごい!と思い、条件を変えて調べてみたら、どの値でもスケールフリーであることがわかった。それならば、カオスの他の関数(写像)ではどうか?と調べてみたら、他の関数でもスケールフリーのものがみつかった。

この経験を振り返ると、発見の連鎖こそが中心的な出来事であったと感じる。状態遷移ネットワークは、僕が見出す前から、その関数に潜んでいたといえる。しかし、ある関数を状態遷移ネットワークでみるという必然性はないから、僕が新しく生み出したと言えないこともない。

このように、数学者や科学者は、世界に潜む法則性を発見(discover)している(数学者の探求における創造性については、William Byersの『How Mathematicians Think: Using Ambiguity, Contradiction, and Paradox to Create Mathematics』が詳しい)。discoverとは、覆い(cover)をとる(dis)ということである。ある面では、世界に潜んでいたものであり、別の側面では、人間がつくりだしたものでもある。

このことは、芸術家にも言えるだろう。例えば、彫刻家が、素材と“対話”しながらつくっていく、というねがわかりやすいだろう。頭のなかにあったものを外化するというのではなく、世界とコラボレーションしながら、ものがつくられている。


これまで、創造に打ち込むときにある「参加」について書いてきた。しかし、これ以外にも「参加」が生じることがあると思う。バーマンのいう「参加」は、「自己の『内側』と『外側』が体験の瞬間において一体化すること」であり、それは「内と外、主体と客体、自己と他者とが、境界を貫いて結ばれること」であった。このような「参加」は、何も創造のときだけでなく、もっと静的な生じ方もあるように思う。

例えば、座禅や瞑想など、静を追求することで、「参加」に至ることもあるように思われる。つまり、何も行為しなくても、「参加」は可能だということである。これはあくまでも推測にすぎないが、スティーブ・ジョブズをはじめとして、禅(Zen)にはまった多くのクリエイターたちは、この「参加」の感覚を求めていたのかもしれない(あくまでも、推測に過ぎないが)。

宗教的体験でも「参加」は生じると思われる。神という存在の前では、その差異こそが重要であり、自分と世界の差異はとるにたらないものとなる。このことを単に頭で考えるのではなく、「感じる」のだろう。しかしながら、バーマンは、近代社会は魔術から醒めたのであり、神という存在に頼るのではない「参加」を考える。それを「再魔術化」(reenchantment)と呼んだ。基本的には、僕もこの方向で考えている。


以上を踏まえ、創造社会においては、創造に没頭することによる「参加」が頻繁に起きることになること、そしてそれに伴って、静的な「参加」についても見直されるということ、それが僕の現段階での予想である。
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