井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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発想言語「新生復活の未来ヴィジョン」

未来ヴィジョンを考えるときの一つの発想の仕方として、「新生復活の未来ヴィジョン」と呼び得るものがあるように思う。

それを、発想言語の形式(Context、Clue、Consequence)で書くと、以下のようになる。


「新生復活の未来ヴィジョン」
Context:新しい時代のヴィジョンを掲げる。
Clue:過去と現在の二つの時代の特徴を象徴的に表現し、過去にあったよいもので現在失われたものを新しいかたちで復活させることを考える。
Consequence:未来の話は本来はイメージしにくいものだが、過去にあったものが変化したというものであば、未だ見ぬものへのイメージがわき、説得力も出る。


この考え方は、いろいろな著者に見られる。

例えば、この前取り上げたモリス・バーマンは、中世までは神の存在による「参加」があったが、近代は科学的な醒めた思考が支配して、自分と世界が分離してしまった。だが、中世の世界観には戻れない。だから、新しいかたちで「参加」が可能となる思想が必要だ、と言う。

パターン・ランゲージを提唱した建築家クリストファー・アレグザンダーも、同様の発想をする。昔は無意識的に「よい質」をもった街がつくられ、育てられてきた。しかし、近代社会では物の製造のように建築がつくられ、そういったよさが失われた。しかし、無意識的な時代には戻ることはできない。だから、意識の文化の上で、古きよき時代の質を取り戻す新しいプロセスとツールが必要だと考える。そのツールが、パターン・ランゲージであった。

まったく一緒ではないが、ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』
も語り口が似ている。文字がなかった時代には、物語は口承で受け継がれていて、その時代には「オーラリティー」が発達した。文字の時代になると「リテラシー」が発達し、オーラリティーは失われていった。しかし、これからは映像の時代であり、第二のオーラリティーの時代になるのだ、という。


このような発想の仕方は、別の対象にも適用できるだろう。つまり、未来ヴィジョンを考えるときに、過去から現在で失われたものを新しいかたちで復活させることで、現在の問題を解決したり、未来像を描いたりするのである。この発想の型を一度認識すれば、自覚的に使うこともできるはずだ。
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発想言語(アブダクション・ランゲージ)の基本形式

以前このブログで、"「創造の知」の言語化 − なぜ僕はパターン・ランゲージをつくるのか?"というエントリで、「創造言語」(Creative Language)という概念を提唱し、それに関連する概念を整理した。

そのなかで、僕は、「創造言語」が創造を支援する言語であるということと、創造言語のひとつの形式が「パターン・ランゲージ」であるということを書いた。創造には、デザイン(問題発見・解決)的なものもあれば、そうではなく直感や経験にもとづく場合もある。そのなかで、デザインについてまとめたものがパターン・ランゲージなのだと考えた。

それでは、パターン・ランゲージではない創造言語には、どのようなものが考えられるのだろうか。今回は、そのひとつの案として、「発想言語」(アブダクション・ランゲージ)(とここで仮に呼ぶもの)について考えてみたい。

発想言語は、発想の型を記述した言語である。

パターン・ランゲージでは、context、problem、solutionという3つの要素で書いたのに対して、発想言語では、Context、Solution、Consequence の3つの要素が大切に思える。ただし、真ん中だけ「S」始まりなので、これを「C」に変えたくなり、Cで始まる「Clue」(手がかり、糸口、ヒント)という言葉で置き換えることにしよう。まとめると、こうなる。

発想言語(アブダクション・ランゲージ)の基本形式
Concext、Clue、Consequence


つまり、発想言語には、ある「状況」において、どういう「方法」でやると、どういう望ましい「結果」が得られる(と期待できる)のか、ということが書かれる。


このような形式がよいと考えたのには、これまでの僕らのパターン・ランゲージ制作の経験が関係している。

発想の仕方というのは、パターン・ランゲージの形式(context、problem、solution)では書きにくいのだ。というのは、発想の仕方で「こうするとよい」というのは、何かの問題を解決しているのではなく、ただそうするといいことがある、という経験則に過ぎないからである。そのため、発想の仕方について、無理矢理にパターン・ランゲージ形式でProblemを書こうとすると、とても嘘っぽいパターンになってしまう。そのような経験を何度もして、Probemを中心とするようなデザイン(問題発見・解決)の形式ではない記述形式の必要性を感じていた。

そこで、今回その代替案として、上記のような形式を考えてみたというわけだ。

なお、基本形式が変わることで、それら主要要素にぶら下がっている付加要素も、再編成されることになるだろう。例えば、パターン・ランゲージではProblemに付随していたForces(問題を生じさせている力)は、発想言語では、Consequenceにつけることにしたい。「Clueに従うとConsequenceを生む」ということを可能とする諸力を明らかにするのが、ConsequenceにおけるForcesだ。

このような「発想言語」というものも、パターン・ランゲージ同様、どんどん書いていきたい。
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創造社会における「参加」(内と外の融解)について考える

創造社会」(Creative Society)とはいかなる社会かを考え、その姿を描いてくために、このブログではいろいろな観点から、創造社会や創造性について考えていくことにしたい。

今回は、モリス・バーマンの「参加」(participation)の概念を手がかりに考えてみたい。バーマンは『デカルトからベイトソンへ:世界の再魔術化』のなかで、近代の科学的意識とは別の意識として「参加する意識」(participation consciousness)について述べている。

バーマンによると、「参加する意識」とは、「自分を包む環境世界と融合し同一化しようとする意識」(p.14)のことである。これに対して、科学的意識は、「自己を世界から疎外する意識」(p.14)であり、「自然への参入ではなく、自然との分離に向かう意識」(p.15)であるという。

バーマンのいう「参加」(participation)とは、「自己の『内側』と『外側』が体験の瞬間において一体化すること」(p.79)である。それは「内と外、主体と客体、自己と他者とが、境界を貫いて結ばれること」である。そして、そういうときは、「『私』が、『経験をする主体』なのではなく、経験そのものになる。」(p.79) という。
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このようなことは、私たちの日常でも起きていると、バーマンは言う。「現代人にとっても参加する意識は、ごく日常的に現れているのだ。… 私にしても、たったいま、そのことを意識するまでは、タイプのキーを叩くことに没入していた。この文章を書いている「私」というものをまるで感じていなかった。」(p.79)

この感覚は僕もとてもよくわかる。何かをつくっているとき、つまり創造においては、うまくいくとこういう状態になる。このことを、創造の観点からすると、創造に関与しているのは、人も世界もである。つまり、創造に取り組んでいて、それについて考えようとすると、社会的なレベルでの主体と客体というのは消えさり、一体化するということだ。

このように、バーマンのいう「参加」とは、人が何かにコミットする・行為するという意味ではない。そうではなく、自分と世界の境界があやふやになり、その区別がなくなる(区別が重要でなくなる、その区別が本質的ではなくなる)ことを意味している。参加とは、内と外の境界の融解のことなのである。


自分の経験を思い出して、イメージしてみてほしい。何かをつくることに没頭しているときのことを。真剣に何かをつくっているときのことを。そうやって没頭して何かをつくっているときは、いまつくっているものがカタチづくられ、成長していくことが、中心的な出来事となる。そのとき、その創造で起きていることこそが、主要な出来事になり、それ以外のことは周辺的な事柄になる。

このとき、つくり手である「自分」と、自分がいる「世界」の境界・区別は、二次的な問題になる。創造にのめり込むほど、自分と世界の境界・区別は意識されなくなる。違う言い方をすれば、自分と世界はコラボレーションしているのであり、創造の企ての共謀者となる。あるいは、こう言ってもいい。いまつくっているものが成長していくのは、「自分」を含む「世界」が作用しているからだ、と。

いま書いてきたことを、僕の「創造システム理論」(Creative Systems Theory)的に言うならば、創造における発見の連鎖(のオートポイエーシス)が活発なとき、それ以外はすべて環境側に位置するものになるということだ。発見という水準においての区別が重要なのであり、主体と世界という区別は意味を失うことになる。

CreationCentered.jpg


いまのことを僕の例でひとつ。3年前に、カオスの状態遷移ネットワークのなかにスケールフリーネットワークが潜んでいることを発見したときのこと(論文1論文2、)。

3年前のある日、カオスの状態遷移を試しに描いてみたら、なかなか複雑なネットワークであることがわかった。こういうときは、可視化だけでなく、指標でみようということで調べてみたら、次数がべき乗分布に従っていて、スケールフリーネットワークだった。

これはすごい!と思い、条件を変えて調べてみたら、どの値でもスケールフリーであることがわかった。それならば、カオスの他の関数(写像)ではどうか?と調べてみたら、他の関数でもスケールフリーのものがみつかった。

この経験を振り返ると、発見の連鎖こそが中心的な出来事であったと感じる。状態遷移ネットワークは、僕が見出す前から、その関数に潜んでいたといえる。しかし、ある関数を状態遷移ネットワークでみるという必然性はないから、僕が新しく生み出したと言えないこともない。

このように、数学者や科学者は、世界に潜む法則性を発見(discover)している(数学者の探求における創造性については、William Byersの『How Mathematicians Think: Using Ambiguity, Contradiction, and Paradox to Create Mathematics』が詳しい)。discoverとは、覆い(cover)をとる(dis)ということである。ある面では、世界に潜んでいたものであり、別の側面では、人間がつくりだしたものでもある。

このことは、芸術家にも言えるだろう。例えば、彫刻家が、素材と“対話”しながらつくっていく、というねがわかりやすいだろう。頭のなかにあったものを外化するというのではなく、世界とコラボレーションしながら、ものがつくられている。


これまで、創造に打ち込むときにある「参加」について書いてきた。しかし、これ以外にも「参加」が生じることがあると思う。バーマンのいう「参加」は、「自己の『内側』と『外側』が体験の瞬間において一体化すること」であり、それは「内と外、主体と客体、自己と他者とが、境界を貫いて結ばれること」であった。このような「参加」は、何も創造のときだけでなく、もっと静的な生じ方もあるように思う。

例えば、座禅や瞑想など、静を追求することで、「参加」に至ることもあるように思われる。つまり、何も行為しなくても、「参加」は可能だということである。これはあくまでも推測にすぎないが、スティーブ・ジョブズをはじめとして、禅(Zen)にはまった多くのクリエイターたちは、この「参加」の感覚を求めていたのかもしれない(あくまでも、推測に過ぎないが)。

宗教的体験でも「参加」は生じると思われる。神という存在の前では、その差異こそが重要であり、自分と世界の差異はとるにたらないものとなる。このことを単に頭で考えるのではなく、「感じる」のだろう。しかしながら、バーマンは、近代社会は魔術から醒めたのであり、神という存在に頼るのではない「参加」を考える。それを「再魔術化」(reenchantment)と呼んだ。基本的には、僕もこの方向で考えている。


以上を踏まえ、創造社会においては、創造に没頭することによる「参加」が頻繁に起きることになること、そしてそれに伴って、静的な「参加」についても見直されるということ、それが僕の現段階での予想である。
創造社会論 | - | -

アントレプレナー寄付講座「起業と経営」の実況・感想ツイートのまとめ

2012年度春学期に開講されている授業「起業と経営」(担当:竹中平蔵, 井庭崇)では、SFCを卒業した後さまざまな分野で起業され、活躍されている方々をゲストスピーカーとしてお呼びし、講演をしていただきました。

EntManGuest.jpg

この授業の講演の特徴は、授業時間の半分以上を質疑応答にあてるということです。ゲストスピーカーの方には、どのようなことをやってきたのかということを30分強お話ししていただき、残りの多くの時間を、質問とその応答の時間にしました(初回の佐野さんは、なんと、講演無しですべて質疑応答でした)。

このスタイルで行ってよかったのは、活動の背景にある考え方や、当時の悩み、大学時代のことと現在のつながりなど、ふだんの講演ではあまり聞くことができないお話を聞くことができたことです。

あともうひとつ、この授業の特徴をあげるとすると、それは、履修者(参加者)がツイッターで実況や感想を流していることです。自然発生的にできたこの授業用のハッシュタグ「#起業と経営」は、毎週金曜日の夕方(授業がある時間)になるとtwitterトレンドにランクインするというほど、たくさんのツイートがありました。

それらのツイートを、ボランタリーに毎回 togetterでまとめてくれたのが、この春入学した1年生だというのも、実にSFCらしい感じがします。まとめてくれた土肥さん( @RIEKO_D )、ありがとう!(最初のまとめは、SFC入学して最初の授業日でしたね。)


以下が、その実況・感想ツイートのまとめの一覧です。

● 佐野 陽光さん(クックパッド株式会社 代表執行役社長兼取締役, SFC 1997年卒)
http://togetter.com/li/284239

● 竹中 平蔵(グローバルセキュリティ研究所所長、総合政策学部教授) × 井庭 崇(総合政策学部准教授, SFC 1997年卒)講義
http://togetter.com/li/287478

● 小林 正忠さん(楽天株式会社 取締役 常務執行役員, SFC 1994年卒)
http://togetter.com/li/290672

● 山口 絵理子さん(株式会社マザーハウス 代表取締役社長 兼デザイナー, SFC 2004年卒)+山崎 大祐さん(株式会社マザーハウス 取締役副社長, SFC 2003年卒)
http://togetter.com/li/294215

● 宮治 勇輔さん(株式会社みやじ豚 代表取締役社長、NPO法人 農家のこせがれネットワーク 代表理事CEO, SFC 2001年卒)
http://togetter.com/li/301740

● 青柳 直樹さん(グリー株式会社 取締役執行役員CFO 国際事業本部長, SFC 2002年卒)
http://togetter.com/li/305653

● 駒崎 弘樹さん(NPO法人フローレンス 代表理事, SFC 2003年卒)
http://togetter.com/li/309667

● 今村 久美さん(NPO法人 カタリバ 代表理事, SFC 2002年卒)
http://togetter.com/li/313378

● 佐藤 輝英さん(株式会社ネットプライスドットコム 代表取締役社長兼グループCEO, SFC 1997年卒)
http://togetter.com/li/317428

※以上、所属・肩書きは講演当時のもの。


授業はまだ続きますが、ゲスト講演のシリーズは終わったので、ここで一度まとめておきます。
授業関連 | - | -

NHK Eテレ「スーパープレゼンテーション」の収録に行ってきました!

今日は、NHK Eテレ「スーパープレゼンテーション」の収録に行ってきました。

今回の収録からスタイルが変わり、Kyleeと僕との会話形式ではなく、それぞれが解説をすることになりました。

Kyleeは英語の表現について振り返り、僕は「アイデアの伝え方」について解説します。


以下では、「スーパープレゼンテーション」の撮影現場がどんな感じなのか、写真を交えて紹介しましょう。

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これが今回の撮影現場。木がたくさん用いられている、いい感じの空間でした。

僕は、まずは自分の台本のチェック。事前に打ち合わせていた内容を文字に起こしてまとめていただいたものをベースに、現場でもさらに修正を加えていきます。尺の長さや映像の挿入などを考慮しながら調整していきます。

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これまでの解説では、1回のTEDトークにつき1つの「プレゼンテーション・パターン」を用いていましたが、今回からは2、3パターン用いて、より多面的に、深く解説します。


今日は、Kyleeのパートを先に撮りました。

Shibuya2_420.jpg

撮影終了後、Kyleeと記念撮影。

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その後、僕の解説部分を撮影しました。

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いやぁ、噛みまくったり、言うこと忘れたりで、何度もNGを出しまくりました。(スタッフのみなさん、すみませんでした!)

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カメラが複数台周り、専用の照明に照らされて熱い熱い。頭のなかが真っ白になる条件がばっちり揃っています。

そんな状況で、「本番行きます、5、4、3、…」と声がかかると……汗・汗・汗

なんとも大変だったのですが、スタッフのみなさんの励ましのなかで、解説部分の収録がようやく終わりました。


ちなみに、僕の視点からだとこういう感じです。カメラと目が合います。なかなか恐いでしょう(笑)。

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ほんと、テレビで話すのって、大変。テレビでスラスラしゃべっている人というのは、それだけでもうすごいことなんだな、と実感しました。


そんなこんなで、撮影も終了。

撮影後、スタッフのみなさんにお願いして、集合写真をとらせていただきました。プロデューサーやディレクターの方を始め、みなさんにとてもお世話になりました!ありがとうございました。

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これを読んでいるみなさん。ぜひ今後とも、「スーパープレゼンテーション」をよろしくお願いします!

NHK Eテレ「スーパープレゼンテーション」
毎週月曜 夜11時〜11時25分

(再放送 毎週日曜の深夜の0時45分〜1時10分)
CAST: 伊藤 穣一、Kylee、井庭 崇


あと、そうだ。Kyleeの新しいシングルが出るそうです。

Kylee 6th single 「未来」
2012年6月13日発売!
オフィシャルサイト http://www.kylee.jp/

こちらも、ぜひチェックしてみてくださいね!
このブログについて/近況 | - | -

ルール/制度/やり方の再設計のメディアとしてのパターン・ランゲージ

僕が最近感じている、新しいパターン・ランゲージの意義は、(組織/コミュニティ/社会 における)「これまでの ルール/制度/やり方/こだわり を踏まえて再設計するための方法論」として使えるということ。


ある組織/コミュニティ/社会 において、既存のルール/制度/やり方/こだわり は、ふつうそれだけが継承されるが、その結果、後に(引き継いだ世代で)形骸化し、改変もできなくなることが多い。

世代を超えるときに形骸化しやすいのは、なぜそのような ルール/制度/やり方/こだわり になったのかという「設計意図」が、忘れ去られてしまうからである。

ルール/制度/やり方/こだわり は、本来コンティンジェントなものであり(別様でもあり得た)、そのなかのあるひとつの形(具体的なルール/制度/やり方/こだわり)になるのかは、なんらかの意思決定や経緯によって「選択」された結果である。

その選択に関わった人(意思決定をした人やその経緯を知っている人)が、その組織/コミュニティ/社会からいなくなってしまうと、ルール/制度/やり方/こだわり の設計意図がわからなくなる。こうやって、あとは、ただただそれらを継承するということになりがちになる。

そういう状況になると、その形骸化が問題だと考える人が出てきても、それを「捨てるか/残し続けるか」という二者択一になりがちで、実際には捨てることはできずに身動きがとれなくなる。そうして、形骸化した過去の ルール/制度/やり方/こだわり が残り続ける。

こういうことが、いま、日本でも広く起こっていることなのではないか。戦後、高度経済成長時代につくられてきたあらゆる ルール/制度/やり方/こだわり が形骸化し、おかしくなって、軋んでいるのに、それを変えるための適切な方法がない状態 のように思える。


このような現状において、組織/コミュニティ/社会 における ルール/制度/やり方/こだわり を、パターン・ランゲージとして書いていくと、これまでを踏まえた再設計ができるようになるのではないか。これが、最近僕が感じている、パターン・ランゲージの新しい意義。

つまり、ルール/制度/やり方/こだわり ごとに、それらが解決しようとしている「問題」を明文化し、そしてその問題が生じる「状況」や、問題の背後に働く力「フォース」を明らかにする(これらはパターン・ランゲージの主要要素)。

そうやって、パターン・ランゲージの形式で書いていくことによって、個々の ルール/制度/やり方/こだわり が何のためのものであるのか(設計意図)が明らかになり、それらについて議論したり、扱ったりするのが容易になる。

特に、パターン・ランゲージの強みである「記述単位の小ささ」(モジュール性)が重要で、再設計をする際に、これは捨てて、これを残し、この部分のここを変える、というような取捨選択が可能になる。また、個別の検証を並行してい行うことも可能になる。

日本社会、そしてあらゆる組織が、今後さらに、これまでの ルール/制度/やり方/こだわり を踏まえながらも、新しい ルール/制度/やり方/こだわり のデザイン(再設計)をするということに取り組まなければならなくなるだろう。それを、パターン・ランゲージという方法で支援したい。

それが、僕の考える(組織/コミュニティ/社会 における)「これまでの ルール/制度/やり方/こだわり を踏まえて再設計するための方法論」としてのパターン・ランゲージということ。


なお、これまでの話は、誰かが意図的に設計したもの(ルールや制度など)でなくても、自然発生的にそうなったもの(文化)も対象となり得る。つまり、結果としてうまくいっているから共有され、残ってきたものでも構わないということ。

そういった(組織/コミュニティ/社会)の「文化」についても、それがどのような機能を果たしているのか、ということを考えることで、パターン・ランゲージとして書くことができるはず。

建築家であり、アレグザンダーに師事した中埜博さんも、ルース・ベネディクトの『菊と刀』はパターン・ランゲージ的である、と言っている(パターン・ランゲージの形式やパターン名がついていないのでパターン・ランゲージではないが)。そして、パターン・ランゲージは、文化を記述するのに適している、とも。

このように、誰かが意図的に設計したものであっても、自生的に形成され残ってきたものであれ、パターン・ランゲージとして書き起すことができ、それらを並べて、今後どのように行くべきかを考える(再設計する)ことができるのではないか。


これらはすべて仮説だけれども、現在、動き始めているいくつかのプロジェクトで、このような発想の取り組みをし始めているので、そこでの実践を踏まえて、さらに考えていきたい。

このような発想は、現場との共同研究のための話し合いで生まれてきた。そして、あちこちで似たような感触を感じる。今後も、いろんな人と、話し、考え、つくっていきたい。
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