井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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別様でもあり得たことへの眼差し (機能分析とは何か? 後編)

社会学者ニクラス・ルーマンは、ロバート・マートンの機能分析の議論を継承しつつ発展させた。ルーマンは、機能分析の意義を二つ指摘している。まず第一の意義は、マートンと同様、潜在的な機能への気づきを促すということである。

「『潜在的な』構造や機能について解明することができる。つまり、対象システムにとって可視的ではない諸関係、つまりその潜在性それ自体がなんらかの機能を果たしているがゆえにおそらくは可視的になりえない諸関係を、取り上げることができる」(Luhmann, 1984:p.88)


次いで、ルーマンが指摘する機能分析の第二の意義は、対象の比較可能性が開かれ、その機能を理解するときに、同じ機能を果たすが「現にあるもの」とは別のもの、について考えるきっかけとなるということだ。

ルーマンの貢献は、機能の概念を、「複合性」、「コンティンジェンシー」、「選択」という概念と関係づけて明確化した点にある。これまでの機能分析の捉え方では、機能概念の明確さが欠けていたというわけだ。ルーマンの理解では、「現にあるもの」は別様である可能性を持っているという意味において、「偶発的」(コンティンジェント) なものである。つまり、「現にあるもの」は、可能なもののひとつの現れに過ぎず、必然的にそうなったのではない、という捉え方をするのだ。

以上のことらもわかるように、機能分析では、その機能を満たす「現にあるもの」がなぜそれであったのか、という理由づけは行わない。「機能は決定するのではなくて、さまざまな可能性の同値性・等価性を規制するにすぎない。機能の機能は決定にあるのではなくて、ある前提されたパースペクティブとの関連で諸可能性の交換を規制することにある」(長岡, 2006, p.51) のである。なお、他でもありえた諸可能性の総体のことを、ルーマンは「複合性」(complexity) と呼んでおり、社会における現象を「複合性の拡大」と「複合性の縮減」という観点から捉えている。

まとめると、機能分析の第一の意義は、顕在的機能だけでなく潜在的機能にも目を向けて考えることができること、第二の意義は、対象となる機能を満たす「現にあるもの」を、別様でもあり得た偶発的(コンティンジェント)なものとして捉え、機能的等価物を考えるきっかけを与えるということなのだ。


【References】
『社会システム理論〈上〉』(N.ルーマン, 恒星社厚生閣, 1993, 原著1984)
『ルーマン/社会の理論の革命』(長岡 克行, 勁草書房, 2006)
『新社会学辞典』(森岡清美, 塩原勉, 本間康平 (編集代表), 有斐閣, 1993)
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「顕在的機能」と「潜在的機能」 (機能分析とは何か? 前編)

社会学者ニクラス・ルーマンは、自らの拠って立つ「方法」を「機能分析」(functional analysis)だとしている。主著の『社会システム理論』のなかでも、「機能的方法は、結局のところある種の比較の方法なのであり、現実へそれをあてはめることは、現存しているものの別様のあり方の可能性を考慮して現存しているものを把握することに役立つのである」(Luhmann, 1984:p.84)として、機能分析の説明に多くのページを割いている。「機能分析」とは、もともと文化人類学で生まれ、その後、社会学において精緻化されていった方法であり、一種の理論技術だ。機能分析の基本的な考え方は、物事の「構造」ではなく、「機能」に着目して分析を行うというもの。

僕は、クリストファー・アレグザンダーのパターン・ランゲージも、複雑系科学で行われるモデリング・シミュレーションも、「まぼろしのコンセプト」の話も、根底の部分では、この機能分析とつながりがあると考えている。それがどのようなつながりなのかを説明するために、まずは「機能分析とは何か?」について解説しておくことにしたい。


ここでは、社会学における機能分析の整理を行ったロバート・マートン(Robert Merton, 1910~2003)の話から始めることにしよう。

かつてマートンは、「機能分析は、社会学的解釈の諸問題を扱う現代の研究方針のなかで、もっとも有望である反面、おそらくもっとも系統立って整理されていない」(Merton, 1964: p.16) として、手法としての機能分析の要件を整理した。マートンの主張のなかで最も示唆的だったのは、機能分析によって「顕在的機能」だけでなく、「潜在的機能」について理解することが重要だという点だ。

マートンは、機能分析について、雨乞いの儀式を例に説明する。ある部族が「雨乞い」の儀式を慣習的に行っているとしよう。この雨乞いの機能として考えられるのは、この儀式によって天候に影響を及ぼすという機能だろう。これを「顕在的機能」(manifest function)という。しかし、この機能の効果は、現代の私たちの知識をもってすると、期待できるものではないことがわかる。雨乞いをしたからといって、実際に天候が変わるわけではないのだ。それでは、この「雨乞い」の儀式は、非合理で無意味なものなのだろうか?

RainMaking200.jpgここでマートンは、機能分析は「顕在的機能」を明らかにすることが目的ではない、と指摘する。その背後に隠された機能に注目することが重要だというのだ。雨乞いの儀式の場合、よくよく観察してみると、実はこの儀式にも隠れた機能が存在していることがわかってくる。その隠れた機能とは、部族が一体となって儀式を行うことで、部族内の連帯意識を強めるという機能だ。このような隠れた機能のことを、「潜在的機能」(latent function)という。この儀式の機能を「雨を降らす」という顕在的機能のみで判断すると、「合理的ではない」と判断せざるを得ないが、潜在的機能も考慮に入れると、その部族にとってきわめて合理的な儀式であることがわかってくる。

今の話は、以前取り上げた「ストーン・スープ」の話と通じるものがある。石(ストーン)を煮ることは、表面的には意味がないが、それによって多くの村人が寄ってきて、協力しあうことになる。ストーン・スープの顕在的機能は「石のスープをつくる」ということだが、潜在的機能は「それによって多くの村人が協力しあうきっかけをつくる」ということである。潜在的機能は、あくまでも顕在的機能の背後で、潜在的に存在しなければならない。潜在的機能を表に出してみたところで、それだけでは機能しないのである。このことは、雨乞いの儀式と構図が似ているので、わかりやすいと思う。社会的な仕組みをデザインするときには、顕在的機能と潜在的機能の両方を考えることが重要となる。

このように、機能分析では、顕在的機能のみならず、潜在的機能も併せて理解することが重要だ。これがマートンの主張した重要なポイントなのだ。

【References】
『社会システム理論〈上〉』(N.ルーマン, 恒星社厚生閣, 1993, 原著1984)
『社会理論と社会構造』(ロバート・K. マートン, みすず書房, 1961)
『社会理論と機能分析』 (マートン, 青木書店, 1969, 原著1964)
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まとまった時間と寄り道

在外研究でボストンに行っている土屋さんが、ブログで次のようなことを書いていた。

「先週はかなり研究をした。東京にいるときは一つのことに3時間まとまって使えれば良いほうだったが、こちらでは用事がないので、集中すると一日中ずっとできる。」

じっくり時間をとれるなんて、なんともうらやましい話である。

でも、実は僕も最近ようやく、まとまった時間がとれるようになってうれしく思っていたところだ。もちろん、土屋さんのように丸一日というわけにはいかない。「3時間まとまって使えれば良いほう」という「3時間」がようやくとれるようになったのだ。

僕ら大学教員は、研究、教育、学事など、複合的に仕事をしている。また、仕事以外でも人との関わりのなかで、自分の都合を優先できず、時間が減ったり、コマ切れになることもある。結果として、研究に割ける時間が削られていく。特に仲間がいない個人研究の場合は、重要であっても後回しにせざるを得なくなることが多い。短期的には仕方のないことかもしれないが、これが長く続くと研究者として致命的になる。特に30代で自分の道を切り開かねば、先はない。頭ではわかっているが、なかなか生活が変わらない。このまま、いったい僕はどうなってしまうのだろうか? そういう状況が、ここ2、3年ほど続いていた。

そんななか、この春からある程度まとまった時間をとれるようになった。3時間あると一仕事できるので、非常にありがたく思う。一人で過ごす時間も増えたし、場の流れで「飲み」に行く、というような自由も久々に味わえている。真剣に研究に取り組む時間がとれているからこそ、ちょっとした寄り道を味わうことが可能なのだ。このような状況がいつまで続くかはわからないが、いまのうちにどんどん研究を進めていきたいと思う。
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「べき乗分布」のインプリケーション (『歴史の方程式』, マーク・ブキャナン)

Book-Buchanan.jpg今週のインターリアリティプロジェクトの輪読では、『歴史の方程式』の前半を読んだ。

この本は、「べき乗分布」に関する研究の歴史を振り返り、「非平衡物理学」(nonequilibrium physics)―――著者の言葉でいうと「歴史物理学」(historical physics)―――の考え方を紹介してくれる、とても刺激的で重要な本だ。ここまで「べき乗分布」の研究について詳しく書いてくれている本は他にはない。

今日は、この本のなかから僕が特に面白いと思う部分を紹介することにしたい。

■べき乗分布にはスケール不変性がある → 「典型的」「一般的」な出来事はない。

凍ったジャガイモを壁や床に叩きつけると砕け散るが、そのとき様々なサイズの破片ができる。粉々になった小さな破片は非常に多く、大きな塊は少ないだろう。ここで、この破片の大きさと数を詳しく調べてみると、実は規則正しいということがわかってくる。「重ささが二倍になるごとに、破片の数は約六分の一になっていく」(p.59)というのだ。これは、数学的にいうならば、「べき乗分布」になっているということだ。

「べき乗分布」には、スケール不変的(scale-invariant)な性質がある。つまり、どのスケール(尺度)で拡大してみても、同じような状況が見えるのである。このことをわかりやすくいうと、次のようになる。

「今あなたが、好きなように自分の体の大きさを変えられる存在だったとしよう。・・・どんな大きさでもまわりの景色はまったく同じに見えるので、もし自分を何回縮めたか忘れてしまうと、まわりを見ただけでは自分の大きさがまったく分からなくなってしまうのである。これが、冪乗則の意味するところである。破片の山は必ず、「スケール不変性」や自己相似性と呼ばれる特別な性質をもっているからである。破片が広がった様子はどの大きさにおいても同じに見え、まるで各部分が全体の縮小像であるかのように見えるということだ。」(p.61)

つまり、どのスケールで見ても、同じような秩序が見うけられるということだ。バラバシたちが、リンク数の順位分布がべき乗分布になるネットワークを「スケールフリー・ネットワーク」と呼んだのは、このためだ。

LinearGraph-Ave200.jpgべき乗分布においては、「典型的な」もしくは「一般的な」サイズというものは存在しない。あらゆるスケールのものが同じようなかたちで存在するからである。正規分布では重要な指標であった「平均」や「分散」というものが意味をなさなくなる。というのは、平均をとると、テールに引っ張られて平均値は限りなく小さくなってしまう。また、分散を調べると、ヘッドの値とテールの値にかなりの差があるため、かぎりなく大きな分散値になってしまう。このように、平均や分散という指標は、正規分布でなければ意味をなさないのだ。そのため、対象の分布が正規分布なのかべき乗分布なのかということはとても重要なことになる。

さらに、サンプリングの考え方も、正規分布を前提とする場合とは話が違ってくる。正規分布であれば、サンプリング数を増やすことで、より精度の高い近似ができるが、べき乗分布の場合は、サンプリング数を増やすほど、テール部分を拾ってしまい、値は小さくなってしまう。ここでも、対象となる現象が正規分布なのかべき乗分布なのかは、重要な違いだといえる。


■べき乗分布にはスケール不変性がある → 大きな出来事に特別な理由はない。

べき乗分布のスケール不変性は、大きな出来事が何か特別な理由によるものではない、ということも意味している。それは、大きな出来事も小さな出来事も、同じメカニズムで生成されるからだ。

「ジャガイモの破片の山におけるスケール不変性は、大きい破片は小さい破片を拡大したものにすぎないということを示している。すべての大きさの破片は、あらゆる大きさで同じように働く崩壊過程の結果として生じる。グーテンベルク=リヒターの法則は、地震や、地震を発生させる地殻で起こる過程についても、同様のことが言えるということを示している。地震のエネルギーは冪乗則に従うので、その分布はスケール不変的になる。大きな地震が小さな地震とは違う原因で起こると示唆するものは、まったく何もないのである。大きな地震が特別なものである理由がないという事実は、小さな地震を引き起こすものと大きな地震を引き起こすものはまったく同じであるという、逆説的な結果を示唆している。この考え方にもとづけば、大地震に対する特別な説明を探しても意味がないことになる。」(p.63)

このことを印象的に示すために、コロンビア大学の地震の専門家クリストファー・ショルツの言葉が紹介されている。「地震は、起こりはじめたときには、自分がどれほど大きくなっていくか知らない。」(p.98)。大地震というのは、地震の連鎖の雪崩によって結果として大地震になったのであり、その背後にあるメカニズムは、小規模の地震や中規模の地震と同じメカニズムによるということだ。


以上のことを、僕らの商品市場の研究成果と絡めて考えてみることにしたい。すでに紹介したように(「書籍販売市場における隠れた法則性」)、井庭研では、書籍販売市場などの実データ解析をしているが、そこでもべき乗分布が発見されている。このことは何を意味するのだろうか。

まず最初に、書籍販売市場において「典型的な」あるいは「一般的な」商品というものは存在しないということである。平均と分散で商品を見ることはできない、ということである。これはおそらく現場レベルではずいぶんまえからわかっていたことだと思う。販売冊数-順位のべき乗分布は、それが統計的にも言えるということを示している。

さらに、販売冊数-順位のべき乗分布は、大ヒットをした商品が売れた理由は、何か特別な理由があるからではない、ということ示唆している。このことは、大地震がスケールに依存しない普遍的なメカニズムによって、地震の連鎖の雪崩によって結果として生まれたというのと同じように、商品の大ヒットも市場の普遍的なメカニズムによって、「売れるものがますます売れる」という連鎖の雪崩によって、結果として生まれるのかもしれない。そうすると、僕らはマーケティングや市場戦略というものをどう考えればよいのだろうか………とても興味深い。(この点については、また別の機会に議論することにしたい。)

このように、べき乗分布について考えるときには、商品市場の例がわかりやすく、想像力豊かに考えることができる。そう思って、僕はべき乗分布のインプリケーションについて考えるときはいつも、市場のべき乗分布で考えている。なかなかおすすめの方法だ。
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書籍販売市場における隠れた法則性

MarketPowerLaw-Linear200.jpgMarketPowerLaw-Log200.jpg以前の僕らの研究(※)で、全国に分布する2,000以上の書店のPOS(販売時点情報管理)システムの実データを解析したところ、販売冊数-順位の関係が、月間・年間のどちらの場合も「べき乗分布」になっていることがわかった。

例えば、2005年度における販売冊数と順位の関係を示すと、左図のようになる。縦軸が、販売冊数の割合(そのタイトルの販売冊数を書籍全体の販売冊数で割ったもの)、横軸が順位である。つまり、グラフの左から右に向かって、販売冊数が多いタイトル(銘柄)から低いタイトルまでが並んでいる。もし販売冊数が同じものがあっても、同位とはせず、順に順位を振っていく。例えば、まったく同じ販売冊数のタイトルが2つあったとしても、100位が2つあるというふうにするのではなく、100位と101位に分けてプロットする。ここで示したグラフは、上が線形グラフ、下が両対数グラフである。上の線形グラフをみると、「ロングテール」である(「しっぽ」の部分が長い)ことがよくわかると思う。

LinearLogGraph200.jpgここで、「線形グラフ」と「両対数グラフ」について、少し解説しておくことにしよう。線形グラフ(linear graph)というのは、一般的によく用いられている普通のグラフだ。線形グラフでは、目盛りごとに100、200、300というような感じで「線形」に数が増えていく。両対数グラフ(double logarithmic graph)では、目盛が増えると、1、10、100、1000というように対応する値が増えていくグラフである。このグラフでは、実は10の「何乗か」という指数の部分が、0、1、2、3と増えているのだ。べき乗分布のデータは、線形グラフでは、軸に限りなく近くて、その特徴が理解できないため、両対数グラフで見ることが多い。べき乗分布は、両対数グラフでは直線上に並んでプロットされる。

販売量-順位分布のべき乗が示しているのは、「破格に売れているタイトルがごく稀にあり,ほとんど多くのタイトルはあまり売れていない」という事実である。テール部分が近似線から乖離しているのは、書店や棚の規模が有限であるために生じる「カットオフ」だと考えられる。書籍販売市場がウィナー・テイク・オール市場だということは、以前から知られていたが、この分析結果の面白い点は、売れ行きの規模に関係なく、順位が下がれば販売量が規則正しく減少していくということである。べき乗分布は、単に「20:80の法則」(ニッパチの法則)が示しているような「ほんの一部のタイトル(銘柄)がとても売れている」ということだけを示しているのではない。また、ロングテール論がいうような「テールが長く、集めるとかなりの量になる」ということだけを示しているわけでもない。べき乗分布が示しているのは、それら二つの特徴を含みながら、最上位や最下位の間に存在するすべての書籍が、べき乗則という法則に従っているという驚くべき事実なのだ。これは、本当に不思議なことだ。

SystemLayerEmergence-power200.jpgまた、月間のデータでも、どの月もほぼ同じべき乗分布を示しているというのも興味深い。市場で販売されているタイトルは日々入れ替わっており(現在日本で発行される新刊タイトル数は年間7万7千点にのぼる)、そこで購入している人たちも日々入れ替わっているにもかかわらず、べき乗分布という市場レベルの法則性は維持されている。それゆえ、この法則性は、個々の要素には還元することができない市場レベルの「創発的秩序」だといえる。

「べき乗分布」は、実は、都市、社会ネットワーク、価格変動、所得など様々な領域で発見されている。都市人口の規模と順位は、べき乗分布になることが知られている。このことは、1890年以降のアメリカの都市についても、日本の都市についても当てはまる。また、社会ネットワークにおけるノードの次数(そのノードがもつリンク数)と順位の関係にも、べき乗分布があることが知られている。そのほか、所得分布の一部がべき乗になることが知られており、「パレートの法則」と呼ばれている。企業の所得分布もべき乗分布に従うことがわかっており、業種ごとの比較研究などもある。さらに、価格変動の規模と頻度の関係をべき乗分布が見出されている。これらのべき乗分布の生成メカニズムについては、少しずつわかってきてはいるものの、まだまだ解明されていないホットイシューだ。

商品市場においてどのようなメカニズムでべき乗分布が生成されるのかについては、まだわかっていない。僕らは今まさにそのメカニズムの解明に取り組んでいるところだ。


※この研究成果は、以下のジャーナル論文、学会研究会で報告している。

●井庭 崇, 深見 嘉明, 斉藤 優, 「書籍販売市場における隠れた法則性」, 情報処理学会論文誌:数理モデル化と応用, Vol.48, No.SIG6 (TOM17), 2007年3月発行, pp.128-136 [CiNiiのページへ]

●井庭 崇, 深見 嘉明, 斉藤 優, 「書籍販売市場における隠れた法則性」, 情報処理学会 第61回数理モデル化と問題解決研究会, 大阪, 2006年9月 [PDF]

●井庭 崇, 深見 嘉明, 吉田 真理子, 山下 耕平, 斉藤 優, 「書籍販売市場における上位タイトルの売上分析」, 情報処理学会 第64回 数理モデル化と問題解決研究会, 大阪大学, 2007年5月 [PDF]
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説明がうまくなるコツ (『シンプリシティの法則』, ジョン・マエダ)

『シンプリシティの法則』(ジョン・マエダ, 東洋経済新報社, 2008)を読んで考えたことの続編だ。

僕が今回、この本のなかで特にビビっと来たのは、以下の部分。「繰り返し」によってシンプリシティを獲得するという話だ。

「数年前、私はスイスのタイポグラフィックデザインの大家、ヴォルフガング・ヴァインガルトをメイン州に訪ねた。当時彼が受け持っていた正規の夏期講座で講義をするためである。驚かされたのは、ヴァインガルトが毎年まったく同じ入門講義をすることだった。私の考えでは、同じことを繰り返し言うのは、価値のないことだった。そのため正直言うと、この大家に対する私の評価は下がりはじめていた。ところが、確か3度目の訪問の際に、こう気づいた。ヴァインガルトはまったく同じことを言っているにもかかわらず、言うたびにシンプルになっていると。基本の基本に焦点を合わせることによって、彼は自分が知っている何もかもを、伝えたいことの核心にまで煎じ詰めることができたのである。」(p.36)

この点はとても同感であり、多くの人に伝えたいと思う点でもある。

僕は基本的に話すことが苦手で下手なのだが、それでも内容によっては「説明がわかりやすい」といわれることがある。例えば、ルーマンの社会システム理論やカオスの説明などは、なかなか好評のようだ。実は、そのような説明は、何度も何度も説明しまくることによって得られたものだ。最初は言葉が足りなくてうまく説明できなかったり、冗長だったりした話が、徐々に洗練されていく。どのような言葉を選び、どのような順番で話し、どのような例を出せばよいのか。そして、どうすればその話題を面白く聞いてもらえるのか。そういうことを考えながら、何度も何度も話す。その最初のオーディエンス(被害者!?笑)になるのは、僕の近くにいるゼミ生だ。

あるホットトピックについて何度も話していると、誰に話したのかがわからなくなり、すでに一度話している人にも、再び話してしまうということが起きる。その結果、「その話、このまえも聞きました。」といわれることが多い。また、直接その人に向かって話していなくても、同じ場所にいる他の人に話しているのを聞いて、「(また同じ話だ・・・)」と内心思いながら、その話を何度も耳にするなんてこともあるだろう。でも、一度、次のことを考えてみてほしい。僕は、誰に話したかを忘れるほど多くの人に、何度も何度もその話をしているのだ。 もちろん僕が忘れっぽいというのも関係しているが、それを割り引いても、考える価値がある事実だと思う。

学生の場合、先生の近くにいる人ほど、先生のそのときのホットなトピックを何度も聞くことになる。もし、先生が熱くなっている話を1度しか聞いたことがないという場合は、それくらいの密度でしか接していないという表れでもある。僕も学生時代に竹中先生や武藤先生の同じ話を何度も何度も聞いたものだ。きっとこのように何度も聞くことで、ようやく先生の言いたいことの真意に近づいていけるのだと思う。人間は繰り返しインプットしないと、頭にきちんと入らないのだから。

もし同じ話を聞くチャンスがあったら、今度は意識して聞いてみるとよい。よくよく聞いてみると、説明の仕方が微妙に違っているはずだ。相手によって説明のレベルや例示を変えている場合もあるし、説明が若干進化しているはずだ。うまくいっていれば、余計な部分を省き、新しい言葉に置き換えられたりして、徐々にシンプルになっているはずだ。これはまさに、上記の引用の部分の話にほかならない。


さて、ここで言いたいのは、「だから、僕の話を何度も我慢して聞きなさい!」ということではない。話すことが仕事の僕らも、何度も何度も話すことで話が洗練されていく、ということを知ってほしいのだ。みんなだって、もっともっと話さないといけない。それが言いたい。

ゼミで研究発表をすると、内容や言葉があいまいなまま発表がなされることがある。これはおそらく、誰にも話していない状態で発表しているに違いない。自分で話していることを自分でもあまり深く理解できていないし、その説明がどのように伝わるのかがイメージできていない。言葉の選び方に迷いがあり、それゆえ曖昧でわかりにくものになってしまう。これでは研究内容の議論にまで至らず、聞いている方も内容の理解をすることで精一杯になってしまう。そういう発表はいただけない。先にほかのゼミ生に何度も話し、話を洗練させてから、発表の場に臨むべきだ。

話すことが得意な人も苦手な人も、どんどん相手をみつけて、何度も何度も話をしてみる。ゼミ生はそのための仲間なのだから、活用しない手はない。僕の個人指導を受けているわけではなく、研究のコミュニティに所属しているわけなので、何度も自分の研究について話すチャンスがあるわけだ。

この鉄則は、文章を書く際にも同じだ。論文や計画書を書くときには、そこに書く予定の内容を何度も何度も話すことが重要だ。準備段階でひきこもっていては、本番でうまく話せるわけがない。完全主義者は、ひとりで完全なところまでもっていこうとするかもしれないが、真の完全主義者は、事前にたくさん話し、本番で完全な話をする人のことかもしれない。

同じことを繰り返し言うのはばつが悪いこともある。あなたが人目を気にするならなおさらだ―――たいていの人は人目を気にするものだが。しかし、恥ずかしがる必要はない。反復はうまく機能するし、みんなそうしているのだから。合衆国大統領をはじめとする指導者たちも例外ではない。・・・」(p.37)

恥ずかしがらずに、何度も何度も話してみよう!
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シンプルに生きる (『シンプリシティの法則』, ジョン・マエダ)

Book-Maeda.jpg『シンプリシティの法則』(ジョン・マエダ, 東洋経済新報社, 2008)を読んだ。

情報が溢れ、複雑化する現代においては「シンプリシティ」(単純さ)が重要であるということ、そしてそれをどうすれば実現できるのか、ということがこの本のテーマである。John Maedaといえば、『Design by Numbers』などで有名なMITメディアラボの教授だ。著者紹介の情報によると、今年2008年6月には、米国有数の芸術大学であるRhode Island School of Design (RISD)の学長に就任するようだ。

ちょうど10年前、科学や芸術において「複雑性」=「コンプレクシティ」が注目され、単純な法則から複雑な世界がどのように生まれるのかが話題となった。そして10年たった今、複雑な状況においてシンプリシティをどのように獲得するかが話題となっているというのは、興味深い。Webといえば、htmlのベタ書きによるシンプルなページからなる世界だったが、いまや動的なコンテンツが載り、膨大な情報量が詰め込まれた「騒々しい」世界へと変化した。それゆえ、Googleのトップページのシンプルなデザインが効いているのである。同じように、iPodのシンプルなデザインも、そのシンプルさゆえに、相当なインパクトをもつことになる。GoogleもiPodも、どちらもこの「コンプレクシティの時代のシンプリシティ」を先取りした事例なのだ。

ジョン・マエダは、シンプリシティに関する「10の法則」と「3つの鍵」を提示する。

【10の法則】

1. 削除 シンプリシティを実現する最もシンプルな方法は、考え抜かれた削除を通じて手に入る。
2. 組織化 組織化は、システムを構成する多くの要素を少なく見せる。
3. 時間 時間を節約することでシンプリシティを感じられる。
4. 学習 知識はすべてをシンプルにする。
5. 相違 シンプリシティとコンプレクシティはたがいを必要とする。
6. コンテクスト シンプリシティの周辺にあるものは、決して周辺的ではない。
7. 感情 感情は乏しいより豊かなほうがいい。
8. 信頼 私たちはシンプリシティを信じる。
9. 失敗 決してシンプルにできないこともある。
10. 1 シンプリシティは、明白なものを取り除き、有意義なものを加えることにかかわる。

【3つの鍵】

1. アウェイ 遠く引き離すだけで、多いものが少なく見える。
2. オープン オープンにすればコンプレクシティはシンプルになる。
3. パワー 使うものは少なく、得るものは多く。

それぞれがどのような含意をもつかについては、実際に本を読んでもらうことにしたい(これが上記の内容を知るための一番シンプルな方法だ!)。文章は読みやすく、分量も少なめなので、さっと読むことができる。


まず、この本で取り上げたいのは、「シンプル」というキーワードだ。

個人的なことを言うと、ここ1ヶ月ほど、「シンプルにする」というのが、僕の基本方針であった。この本を読んだからというわけではなく、阿川さん(総合政策学部長)がいつも、大学の制度や説明に対して「複雑すぎる。シンプルに。」ということを言い続けているのを見ていた影響だ。なるほど、たしかに、物事はシンプルにしたほうがいい。

ここ1、2年の間、僕の仕事や生活はどんどん複雑になり、この冬、ついに破綻した。心も身体もついていけなかった。なので、なるべくシンプルにしようと心がける。もちろん、完全にシンプルにすることはできないし、したいとは思っていない。突き進むべきフロンティアは、未知の「コンプレクシティ」に満ちている。やっていること、考えていることが複雑な分、環境はシンプルでなければ破綻する。これを身をもって体感したのだ。

「シンプリシティとコンプレクシティはたがいを必要とする」(p.45)

シンプリシティだけでは飽きてしまう、だが、複雑すぎても破綻する。その両方が必要なのだ。現代社会では、複雑さは自ずと増大していく。そのなかで交通整理をするのであれば、基本方針としては「なるべくシンプルに」を心がけるとよさそうだ。

(次回につづく)
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コラボレーションの原理(コラボレーション技法ワークショップ第2回)

今日は、僕の担当する授業「コラボレーション技法ワークショップ」の第2回目であった。今日のテーマは、コラボレーションの原理についてである。

CollaborationImage200.jpg最初の問いは、「コラボレーション」とは何だろうか?ということだ。僕なりの説明をすると、コラボレーションとは、複数の人々が、ひとりでは決して到達できないような付加価値を生み出す協同作業(協働作業)のことだ。有効なコラボレーションが行われている組織やグループでは、単なるコミュニケーションや分担ではなく、発見や創造の「勢い」がメンバーの間で共鳴し、増幅する。その結果、飛躍的なアイデアやイノベーションを生み出すことができ、メンバーの満足感も高まることになる。

コラボレーションは、「分業」とは異なる。分業というのは、タスクを分けてそれぞれががんばり、調整・集約するものである。その結果、1+1+1が3になる。そうではなく、コラボレーションでは、コミュニケーションの連鎖が起き、相乗効果があり、1+1+1が、10とか100になってしまうようなことをいう。グループワークというのは、分業的にもなり得るし、コラボ的にもなり得る。

それでは、どうしたらグループワークにおいてコラボレーションを行うことができるのだろうか。言い換えると、どうしたら複数人で新しい付加価値を創造することができるのだろうか。この点を考えるために、「創造する」ということについて、一歩踏み込んで考えてみることにしたい。

ふつう私たちは、何かを「創造する」(つくる)というとき、「思考」や「行為」による創造について考えるのが一般的だ。この考え方は、個人による創造を考える場合には十分であるが、複数人で行うコラボレーションについて考える場合には、すぐさま困難に行き当たる。もし創造性が、個人の思考や行為にのみ宿るのであれば、コラボレーションの結果というものは、個々人の思考・行為の結果を足し合わせたものに過ぎなくなる。そのような捉え方では、コラボレーションの本質である相互作用のダイナミズムが抜け落ちてしまう。もしコラボレーションが、目標を分割して各人に振り分ける「分業」とは異なるものであるならば、「思考・行為を寄せ集めた集合」ではない捉え方が必要になる。

WhatIsCreation100.jpgそこで、「創造」というものを「創造的思考」、「創造的行為」、「創造的コミュニケーション」の3つに分けて考えてみることにしたい ※。そのうえで、「コラボレーションによる創造」では、創造的思考、創造的行為だけでなく、創造的コミュニケーションが不可欠である、ということを主張したい。

まず、創造的思考とは、心的システムにおける意識の連鎖によって、創造が行われることを意味している。例えば、いろいろなイメージを思い描いたり、アイデアを考えたりすることである。創造的行為とは、行為として創造が行われるということである。例えば、絵を描いたり彫刻を掘ったり、文章を書き記したりするのが、これにあたる。これら創造的思考と創造的行為は、基本的には、ひとりで行う個人レベルの話である。これに対し、創造的コミュニケーションとは、コミュニケーションを行うことで創造が行われるということである。例えば、複数の人で、アイデアや企画、デザインを議論・検討しながら練り上げていくということが、これにあたる。

以上のように「創造」を分類すると、「コラボレーション」と「分業」の違いは、創造的思考や創造的行為の存在の有無ではなく、創造的コミュニケーションの連鎖があるかないか、という違いだということがわかる。コラボレーションでは、創造的コミュニケーションが連鎖しなければならない。そのための工夫が、コラボレーション技法の本質なのだ。


※ 創造的思考/創造的行為/創造的コミュニケーションという分類については、以下の論文が初出。「コミュニケーションの連鎖による創造とパターン・ランゲージ」(井庭 崇, 社会・経済システム, Vol.28, 社会・経済システム学会, 2007年)。
「創造性」の探究 | - | -

「学習パターン」の制作に携わる学生メンバー募集!

学習パターンポスターCS150.jpg今月から、大学における学びのヒントを「パターン・ランゲージ」の手法を用いて言語化し、共有するというプロジェクトを開始する。

学びのためのヒントを「学習パターン」(Learning Pattern)と呼び、それを多数収録したカタログを制作するのが目的だ。このカタログは、来年度、『SFCガイド』や『講義案内』とともに、オフィシャルな冊子として学部生全員に配布される予定だ。

この制作に携わる有志学生メンバーの募集を、以下のように開始した。

「学習パターン」制作ワーキンググループ
学生メンバー募集!!


◆ワーキンググループの目標
SFCでは、2007年度より「未来創造カリキュラム」が始まりました。この新カリキュラムのもと、学生が「自分自身で “SFCでの学び” をデザインしながら、実際に学んでいく」ことを支援するため、来年度(2009年度)から新しいタイプのハンドブックが配布されることになりました。それが、「学習パターン・カタログ」です。

そこで、この「学習パターン・カタログ」を制作する学生メンバーを募集します。活動内容は、教員や学生へのインタビュー、議論などを通して、SFCでの学びについて考え、「パターン」(考えるためのヒント)としてまとめていくことです。

ぜひ、学習パターン・カタログを一緒につくりませんか? 学年・専門は問いません。SFCの全分野を網羅したいので、いろいろな分野の人の参加が必要です。やる気がある人歓迎です。参加希望の人は、下記のメールアドレスに連絡をお願いします。 SFCでの学びについて考えながら、世界初の試みに一緒にチャレンジしましょう!

◆学習パターンとは
学習パターンとは、SFCで学ぶにあたって「身につけたい知識と能力」と「そのための学習計画のヒント」をまとめたものです。これにより、学生が自分自身の学習計画を作成する支援を行うとともに、学生同士/学生・教員間のコミュニケーションを支援することを目指します。 なお、学習パターンは、建築家のクリストファー・アレグザンダーが提唱した「パターン・ランゲージ」という考え方/方法にもとづいています。大学における学びの支援に用いられるのは、世界で初めての試みになります。

◆活動
定例ミーティング・作業は、水曜日の午後を中心に行います。
(インタビュー等はそれ以外の時間に行います。)

◆連絡先
Learning Pattern WG
教員担当: 井庭 崇(総合政策学部)
学生代表: 仲 里和(総合政策学部2年)

参加希望・質問等は、 LPmail.jpgに、メールでお願いします。
パターン・ランゲージ | - | -

「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」(井関利明)

Book-Izeki1.jpg今日のゼミ輪読で読んだ文献のうち、まず、井関さんの「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」を紹介したい。

「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」(井関 利明, 『創発するマーケティング』, DNP創発マーケティング研究会 編著, 日経BP企画, 2008, p.11~p.82)

この論文は、魅力的な概念・文献を次々と取り上げ、現代社会と知の潮流について論じているものだ。井関さんの話は魅力的だと思うとともに、僕や井庭研が、いかに影響を受け、また同じ方向性を向いているかということを実感する。ここでは、この文献を読んで考えたことをいくつか紹介したい。

「まぼろしのコンセプト」
冒頭で、ジョン・J・ミュースの"Stone Soup"の童話絵本の話が紹介されている。これは、お互いに交流しない閉塞的な村に来た僧侶が、村の中心で、石を入れた鍋「ストーン・スープ」を煮はじめる。すると、それに興味をもった村人が現れ、何をしているのか尋ねては、持っている食材を持ってきて、その繰り返しで、最後には美味しそうなスープができあがる、という話だ。お互いに協力しようとは思っていなくても、「ストーン・スープをつくる」ということをきっかけに、コラボレーションが実現し、成果が生まれる。そして、この話をうけて、井関さんは次の点に注目する。

「『ストーン・スープ』(Stone Soup)という言葉は、まさにマジカル・ワード、あるいはコンセプトである。誰にも具体的なイメージを与えない。それでいて、不思議と好奇心をかき立て、やってみたい、つくってみたいと思わせ、人びとを動機づける。どうやら人びとに、参加してやってみたいと思わせるのは、魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉であるようだ。」(p.14)

この「ストーン・スープ」の話が面白いのは、スープに最初に入れているものが、ただの石だということだ。最終的には、石はスープの具になるわけでもなく、ダシがとれるわけでもない。むしろ、石は変化しないものの象徴であるといえる。しかし、この話の展開にとっては不可欠なものだ。石を入れずに、ただお湯を沸かしているだけでは、この話は成り立たない。「ストーン・スープ」という耳慣れない不思議な言葉が登場するからこそ、その後の村人の行動の連鎖につながっていくのだ。その点が、非常に示唆に富み、興味深い。

僕がこの話を聞いて思い出したのは、シナリオ・プランニングの話だ。シナリオ・プランニングでは、みんなで自分たちの組織の未来シナリオをつくるのであるが、最終的に得られたシナリオは最重要なものではない。それが当たるかはずれるかはあまり問題とはならない。最も重要なのは、シナリオをつくる段階で、いろいろな情報や考え方が共有され、自分たちについての理解が深まることにある。メンタルモデルがすり合わせられることにこそ意味があるのだ。つまり、シナリオ・プランニングでは、シナリオをつくるという目標のもとに、組織学習が行われる。このことは、まったく一緒ではないが、「ストーン・スープ」を目指すと掲げながら、実はストーンは重要でない、というのに、どこか似ている。

また、井関さんがいう「魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉」というのは、僕も意識して使うことがある。例えば、僕の「コラボレーション技法ワークシップ」の授業では、グループワークのテーマを、「見えないものが見える装置を提案する」とか「新しいテーマパークをつくる」というような抽象的かつ魅力的な言葉で設定する。すると、それが何を意味するのかという具体化は、各グループに任されることになる。すると、そこに創造力を発揮するチャンスがあり、独自性が生み出されるきっかけとなる。それを見守る僕としては、みんなが面白い発表をしてくれるのかは不確実であるのだが、それがまた楽しみでもある。何かが(何らかのスープが)できることはわかっているが、どういうもの(どういう味のどういう具のスープ)に仕上がるのかは事前にはわからない。そして、それに参加する人(村人)は、何かの制約や強制されているわけではないので、自分で具体化の内容(具材)を考えることができ、そこにモチベーションが高まる仕掛けがある。このようにして、創発の間接的なデザインを行うことができるのだ。

「魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉」というのは、明確な将来イメージとしてのヴィジョンとは異なる。それに向かって突き進むと、そこが実はゴールではなく、すでにその過程で問題が解決してしまっている、体現してしまっている、というような、いわば「まぼろしのコンセプト」なのだ(この言い方は、井関さんではなく、僕のネーミングによるもの)。人はそれなしでは、動き始めることはできない。そして、コラボすることはできない。しかし、「まぼろしのコンセプト」は、最終的には自然と本質・重要ではなくなり、忘れられていくのだ。

「Becoming」として捉える
散逸構造で有名な物理学者 I・プリゴジンを取り上げ、「Being」と「Becoming」の考え方が紹介されている。井関さんが好んでよく使う考え方だ。僕もこの考え方は普段から話で取り上げるし、僕のなかではかなり定着している考え方だ。

「"Being"(存在)の原義は『…がある。…である』という『一定の存在や状態』を意味している。したがって「確固たる、確立した、動かしがたい存在や状態」が含意されている。つまり、決定論的機械論の世界である。それに対して、"Becoming"の原義は『…になる』ことで、『たえざるプロセス』を意味している。したがって『生成する状態、形成していくプロセス、発展する形』を含意している。それは、生命体、生命進化、あるいは流動体の世界である。人間現象や社会現象をBecomingとしてみることは、それらを変動する環境のなかで、たえず新しい要素を取り入れながら生成し、形成され、自己再組織化していく動的なプロセスとして把えることである。万事を変化の相の下に理解することでもある。」(p.25)

このbecomingの考え方は、まさに井庭研の根幹であり、SFCの本質だ。井庭研は絶えずBecomingであり、SFCもBecomingである。これは、理想の完成形に満たなく形成「途中」にあるということではなく、そのときそのときの実現された理想的な形が、絶えず変化しつづけていくということだ。理想形が変わるのは、自分は変わり、世界・環境が変わっていくからだ。私たちは走り続けなければならない。世界は進みつづけるから。これは、不思議の国のアリスに出てくる「レッドクイーンの法則」に通じるものがある。

「ここではだね、同じ場所にとどまるだけで、もう必死で走らなきゃいけないんだよ。そしてどっかよそに行くつもりなら、せめてその倍の速さで走らないとね!」
ルイス・キャロル(山形浩生訳)『鏡の国のアリス』(2000)

数年前、SFCのオープン・リサーチ・フォーラムのテーマがまさにこれだった(ORF2005『レッドクイーンの法則-知の遺伝子変化を加速せよ-』)。SFCは走り続けるという宣言をしたわけだ。

新しいメディアは、人びとの「意識」と「社会」を変える
井関さんは、「プリント・メディアの知」と「デジタル・メディアの知」の違いについて次のように区別する。

「何よりも、プリント・メディアの世界は、『閉ざされた知の世界』である。印刷物は簡単に書き換えることはできない。・・・・また、書物の書き手は、限られた専門家であるのが普通であり、著者と読者の立場ははっきりと別れていた。その意味でも『閉ざされた知の世界』だ、といえるだろう。それに対して、『デジタル・メディアの知』は、誰もが参加し、いつでも修正、発展させることができる。つまり、確定した知の結果ではなく、プロセスの知だからである。いつ誰によって修正され、組み合わされ、発展させられ、新しい知識を生みだすか分からない。自由な参加と相互作用が前提なのである。しかも、プリント・メディアの世界では受け手であった読者が、デジタル・メディアの世界では『書き込む人たち』に変わり、共同して新しい意味を創造する、『開かれた知の世界』なのである。」(p.42)

「デジタル・メディアの知は、たえざる発見と創造のプロセスの知なのである。こうして、新しいメディアの登場と普及は、新しい知のパタンをつくりだし、人びとのコミュニケーションと社会関係の形を変えていく力をもつのである。」(p.44)


もちろん、これはよく言われることではあるが、この点を押さえておくことはとても重要だ。メディア論は、メディアそのものを論じるだけでなく、それがもたらす意識の変化と社会の変化までを含めて考えなければならない。そういうことだ。

ちなみに、井庭研の今後の輪読文献との関係でいくと、文字メディアの登場と普及による変化は『声の文化、文字の文化』(オング)、印刷メディアの登場と普及による変化は『想像の共同体』(アンダーソン)のところで考えることになる。デジタル・メディアの登場と普及による変化については、『リキッド・モダニティ』(バウマン)や、過去に読んだ『フラット化する世界』(フリードマン)、『ウィキノミクス』(タプスコット)などが論じている。

ここで、意識と社会と書いたが、これはルーマン理論でいうと「心的システム」と「社会システム」ということだ。新しいメディアが生まれると、「心的システム」と「社会システム」における連鎖の流れが変化する。その点を分析しなければならない。

中間層を上げる
デジタル・メディア時代における創発の担い手について、以下のような記述があった。

「かなりの知的程度をもち、メディア・リテラシーを備えた多数多様な人びとが、伝統的なテクノクラートや専門家とは異なる地平に、新しい「知的中間層」として登場してきたように思われる。この意味での「知的中間層」こそが、「創発社会」の新しい担い手となり、またビジネスのミライをも大きく左右する新しいパワーなのだろう。」(p.39)

この点はまさに、以前の宮台さんとの対談で僕が主張していた点だ。エリートを伸ばす必要があるという宮台さんに対し、僕はそれも重要だが、中間をいかに上げるかがポイントだ、ということを主張した。僕は、やはり、新しい「方法」と「道具」を中間層に普及させ、その人たちの支援をしたいと考えている。PlatBoxのシミュレーション・プラットフォームも、パターン・ランゲージも、社会システム理論も、僕にとっては、中間層が新しい発想・方法によって飛躍するためのツールなのである。そこを狙って、僕はその方法・道具の研究をしている。それを、新しいタイプの「知と方法」の探究として、学問分野に縛られることなく行っていく。まさにそういうことを目指しているのだ。

以上、面白い部分のほんの一部だけを取り上げたが、この論文ではさらに「クリエイティブ・クラス」や「ハイコンセプト」、「リキッド・モダニティ」、「マルチチュード」、「クラウドの知恵」など、最近話題となっているキーワードはほぼ網羅している。この魅力的な編集の仕方が井関さんらしい。井関先生は、非常に興味深い文献をむすびつけて、新しい「知と方法」については、「メディア」について論じてくれる。この一歩引いてとらえる視点と力量にはいつも関心させられる。とても魅力的なのだ。ただ、よくも悪くも井関先生は思想の方なので、僕らの役目というのは、その思想を受け継ぎ、具体化して実践することなのだと思う。その役目を楽しみながら、がんばりたいと思う。
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