井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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Creative Reading:『レイモンド・カーヴァー:作家としての人生』

今、この本に出会えてよかった。『レイモンド・カーヴァー:作家としての人生』という本のことである。

Carver.jpg『レイモンド・カーヴァー:作家としての人生』(キャロル・スクレナカ, 中央公論新社, 2013)
Carol Sklenicka, "RAYMOND CARVER: A Writer's Life," Reprint edition, Scribner, 2010


本書は小説家レイモンド・カーヴァーの評伝である。巻末には、レイモンド・カーヴァーの本を翻訳してきた村上春樹が解説を寄せている。村上春樹はカーヴァーのことを「疑いなく、僕にとってもっとも価値ある教師であり、最高の文学的同志である」(p.627)と述べている。「その翻訳作業は小説家としての僕にとっても、得がたい勉強になった」(p.729)という。村上春樹は三十五歳のとき(『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を書く直前)に、カーヴァーのもとを訪れている。そのエピソードも本編のなかで紹介されている。

村上春樹の解説部分もすごくよいのだが、それについては後で触れるとして、まずは本編のなかで気になった部分を取り上げていきたい。


まず、個人的に興味深かったのは、創作のための「ライターズ・ワークショップ」についての記述があったことだ。パターン・ランゲージの国際学会では、書いてきたパターン(の論文)をみんなでコメントし合う「ライターズ・ワークショップ」が行われている。このライターズ・ワークショプという仕組みは、約20年前に、ソフトウェア・パターンのカンファレンスを実施するにあたり、ソフトウェア・エンジニアであり詩人でもある Richard Gabrielが創作分野から取り入れ、導入したものだ。以来、ソフトウェア・パターンの国際学会PLoPでは、毎年行われてきた。「行われている」というよりも、それがメインのアクティビティとなっている。

PLoPにおけるライターズ・ワークショップは、ポジティブで建設的なコメントをし合うという場である。特徴的なのは、著者は何も話してはならず、その場では沈黙しなければならない。モデレーターのゆるやかな進行のなかで、著者以外の参加者たちがそのパターンや論文をよりよくするために考え、話し合う。著者はそれを聞きながら、誤解されていることも含めて受け入れなければならない。というのは、その誤解を生んだのは、自分の書いた文章だからである。その誤解が生まれる状況を目の当たりにすることで、著者はその部分を書き直さなければならないということを知るのである。

おそらく、このことは、フリーカルチャーやオープンソース文化が生まれるようなソフトウェア分野の土壌に合っていた。フラットでフランクに語り合い、お互いに相手のためにコメントし合うというよい雰囲気がある。これが、20年間、PLoPで行われてきたタイプのライターズ・ワークショプである。

これに対して、昨年、Richard Gabrielが、「20年経ったことだし、そろそろ違うやり方も試してみてよい頃だと思う」と言い、違うタイプのライターズ・ワークショップをやり始めた(僕はそのワークショップの参加者だった)。違うタイプといっても、別の新しいやり方というわけではなく、創作の分野で行われてきたやり方により近いやり方である。それは、教師が、学生たちに学んでほしいことを抱きながら、学生たちの作品を使ってみんなで議論するというものである。これまでのモデレーターは(原則的には)より中立的で、参加者とかなりフラットな関係があった。これに対し、Richardが創作分野でもともとやられていたワークショップとして始めたものは、モデレーターがかなり議論の流れをつくり、参加者がこの論文やパターンで考え・議論することの水路付けを行う。必要に応じて著者も質問を受けたり、意見を述べたり、一緒に議論したりする。終わってみると、フラット型のライターズ・ワークショップよりも、深い議論ができ、著者としても参加者としても得るものも多かった。

ちょうど昨年のPLoP2014で、そのようなライターズ・ワークショップの体験をしたばかりだったので、カーヴァーの評伝のなかに彼が参加したライターズ・ワークショップの話が出てきて、思わず「わお!」とうれしくなった。やはり、創作の世界のライターズ・ワークショップはそれを担当する教員(作家)の色がかなり強く出るようで、参加者(作家の卵たち)にかなり恐れられている場だったようだ。

伝説的だというアイオワシティのライターズ・ワークショップについての記述を少し見てみよう。


カーヴァーがライターズ・ワークショップについて知っていたことは、教師たちから聞いたことのほかは、高級雑誌から得た知識だけで、その雑誌のほとんどに地元アイオワの出身でワークショップのディレクターを務めていた詩人ポール・エングルの写真が載っていた。このような記事には、「学識のある者たちのあいだでは、豚だけでなく、詩もまたアイオワの名物として知られるようになった」というようなキャッチフレーズが書かれていた。また、「アメリカの選りすぐりの作家を輩出」というフレーズもよく見られた。一九六七年七月の「エスクァイア」誌は、「アメリカ文学界の組織図」を掲載した。そこには、かつてアイオワの学生や教授だった四十二人の名が記されていたが、これはリストに挙げられた名前の三分の一を占めていた。またべつの記事は、ワークショップに参加するための必要条件は「才能」である、と簡潔に説明していた。(p.134)

毎年、百人以上の学生を世界中から引き寄せたワークショップの魅力とは、エングルによれば、それが「ハリウッドとニューヨークの中間に位置する選択肢であり<中略>そこでは、作家は自分自身で立ち向かい、それと同時に、ほかの大勢の者と自分の能力を比較できる」ことだった。一九六一年時点では、少なくとも六十作以上の重要なフィクションの作品が、それまでの二十五年間でワークショップ出身の作家によって出版されていた。(p.135)

カーヴァーがアイオワに来たとき、ワークショップは成長期にあり、アイオワの卒業生が開設する創作講座が全国で花開こうとしていた。(p.139)

当時の様子が想像できる。しかし、華々しい実績の背後には厳しい面もある。

アイオワで教鞭を執ったフィリップ・ロスは、「私たちの役目の一つは、十分な才能を持たない学生に、作家になることをあきらめさせるおとだ。自己表現のため、あるいはセラピーのためにやってくる人も大勢いる」と述べた。(p.135)

だからこそ、ライターズ・ワークショップの場は、必死な場となる。ライターズ・ワークショップは何のために行われ、どう実施されたのだろうか。

創作というものを学校で教えられるかどうかについては、盛んに議論が重ねられてきた。これは今でも答えが出ていない問題だが、「ワークショップ」と呼ばれる形式の授業は、この課題に取り組むために進化してきた。アイオワ大学でワークショップが制度化されたのは、ヴァンス・ボアジェイリーの説明によれば、「創作的な作文を教える方法を発明しなければならなかった」からだという。授業の題材となるのは、主として学生の原稿だ。教授とほかの学生の批評が道具となり、教室という工房で原稿が磨きあげられていく。(p.136)

この記述にあるように、明らかに教育としての場であったことがわかる。

一九六〇年代初めのワークショップは、まだかたちが定まらない集まりで、その年に集まった教授陣や学生の個性によって決まる要素が多かった。(p.139)

レイモンド・カーヴァーが入ったR・V・キャシルのワークショップは、次のような感じだったようだ。

キャシルは非常に雄弁で学究的な人物で、知的な議論を好んだ。彼のワークショップは、「誰かが書いた小説を料理する場所だった。気に入った作品があると、食いついて徹底的に分析した」(p.137)

ワークショップにおける講評会は以下のような感じだったという。講評会は、「ワークショップで週に一回、二時間にわたって開催」されたという。

月曜に行われるこの会をドハーティはいつも心待ちにしていたという。「その日は、本物の作家のような気分になれるから、みんな気合いが入っていたよ。ほかの日は、実際に文章を書かなきゃいけないからね」。学生たちが事前にタイプライターで打った短編や詩を教授に提出すると、彼らにはよくわからないプロセスによって教授が作品を選び、学部の秘書にタイプライターで打たせる。その後、選ばれた作品は、青焼き機で複写され、まだ湿って現像液のにおいがする紙の束が、ホッチキスでとめた「ワークシート」と呼ばれる冊子になって学生に配られる。それからの数日間、学生たちはワークシートを読み、それぞれの作品の著者は誰だろうと考える。そして、必然的に、自分の作品と比べて、どちらが優れているだろうと自問自答することになる。また、どうすれば作品を改善できるかについて考える。配られたのが自分の作品だった場合は、ほかの学生がそれを気に入るだろうか、自分の作品だと気づくだろうかと思いを巡らせる。(p.141)

これは自分に才能があると自信を持っている者にも、不安を感じている者にもきつい環境だったようだ。

作家のジェイ・ウィリアムズは、そこは「毒蛇の巣窟」であったと語っている。

そこで彼女は、「自信がなく、麻痺した状態」で学生時代の二年間を過ごしたという。それもすべて、エングルが意図した状況だった。「私たちは、学生を叩き、または説得し、震え上がらせて、駆け出しの作家が自分の作品に対して抱く幻想を振り払う。そこから知恵というものが生まれるからだ」とエングルは語っている。(p.141)

ワークショップの講評会では、「作家たちは集中砲火を浴びている兵士のように頭を下げ、黙って話を聞いてから、その場を立ち去った。自分自身と、自分の作品が、集中砲火を浴びるんだ。強烈だったよ」とドハーティは語る。(p.141)

これらの話からもわかるように、かなり強烈な場だったようだ。僕らがパターン・ランゲージで行っているライターズ・ワークショップも、もちろん初心者にはドキドキして緊張する場ではあるが、ここまで厳しい雰囲気ではない。このあたりは、ソフトウェア分野の明るくオープンな雰囲気がうまい具合にブレンドされて進化したと言えるかもしれない。

今回初めて創作の世界でのライターズ・ワークショップの話を読んだのだが、非常に興味深かった。もっと歴史と形態について知りたいと思った。


そして、この本の重要な部分としてやはり触れなければならないのは、「身を粉にして小説を書く」人生を送ったカーヴァーの創作人生についてである。

カーヴァーは、一九八三年に「パリス・レビュー」のインタビューで、自分の人生の物語をフィクションに変換するためには、「並外れた大胆さと、非常に高い技術と豊かな想像力をそなえていなければならない。そして、自分の秘密をばらす覚悟が必要だ。自分の知っていることについて書けとくりかえし言われてきたけど、たしかに自分の秘密ほどよく知っていることはない」と語った。(p.269)

レナード・マイケルズは、カーヴァー(レイ)が妻のメアリアンとの生活のなかでいかにして小説を生み出してきたのかについて、次のように語っている。

カーヴァーの小説を真似して書くことはできるけど、彼と同じところで生まれ育って、彼の身近な人たちの話をずっと聞いていたのでなければ、本当の意味でカーヴァーのような小説を書くことはできない。彼がかかわり、一緒に暮らしている人々はみんな、ある意味では彼の小説への参加者だった。メアリアンはものすごく大量の題材を彼とともにくぐり抜けてきたんだと思う。そして彼女とレイは、それらの小説のための代価として、彼らの人生そのものを支払ったのだろうと僕は思う (p.294)

この言葉は、僕にとって非常に発見的だった。「彼がかかわり、一緒に暮らしている人々はみんな、ある意味では彼の小説への参加者だった」という部分と、「それらの小説のための代価として、彼らの人生そのものを支払った」という部分が、である。普通とは異なる見方であるが、それは真実であると思った。そして、僕も同じように、僕のつくり出すもののために、僕とかかわりのある人たちは「参加」し、僕らはその「人生」を対価として差し出している。対価として支払う度合いの違いこそあれ、人はそうやってつくっている。そうやって生きている。

この視点の転換は、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んだときと同じような衝撃があった。ドーキンスは、生物が遺伝子をもっているのではなく、遺伝子が生物をヴィークルとして自らが残るようにさせているのだ、という視点の転換をもたらした。もちろん遺伝子が意思や知能を持っているという意味ではなく、物事の主と従の関係は、僕らが当たり前と思っているほど単純には決められないのだ、という話だ。

これまでも、僕は、作品をつくる人が作品につくらされているという関係になるという話を、宮崎駿の言葉などを引用しながら語ってきたが、それはひとつひとつの作品に対してのことであった。上述のマイケルズの言葉は、それを超える範囲においても、同様のことが言えるのだ、ということである。これはすごい。

レイモンド・カーヴァーは、のちにアイオワでワークショップをもつことになるのだけれども、そのときの学生ダン・ドメネクは、「レイが書くことを愛していることが、僕には魅力的だった」(p.386)と語っている。そして、「書くことについて語るときは、彼は情熱的で、独断的だった」(p.387)と。この部分は、自分の経験に照らしてもよくわかる。


作品集『ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』の前書きで、カーヴァーは「幸運」について語っている。

ごくまれに、雷が落ちる。<中略>雷に打たれるのは、あなたの友人であるか、かつて友人だった男性または女性かもしれない。その人は酒を飲み過ぎているかもしれないし、まったく飲まないかもしれない。その人は、あなたといっしょに出席したパーティーのあとで、誰かの奥さんと、あるいは旦那さんと、あるいは姉か妹と姿を消したかもしれない。教室の後ろのほうに座って、何かについてひとことも意見を述べなかった若い作家かもしれない。とろいやつだ、とあなたは思っただろう。その作家がトップテンの候補者に選ばれる日が来るとは、誰も想像しなかっただろう。(p.653)

ここで書かれている「酒飲み、禁酒家、女たらし、とろいやつ」というのは、レイ自身が一度はなったことがあった。重要なのは、このあとに続く「雷に打たれる人」についての部分である。カーヴァーは言う。

だがそれは、一生懸命に努力して、書くという行為が人生のほとんどすべてのものより重要で、呼吸をすること、衣食住、愛と神に並ぶほど大事だと思っている人にしか起こらないことだ(p.653)

その通りだと思う。この指摘は真実を射抜いている。常にそれに取り組み、考え、悩み、もがいている人にしか雷は落ちないのである。

まえがきの結びにカーヴァーは、ここにあるのは、「短編小説にしかできないやり方で、かたちを与えられ、目に見えるようになった美にほかならない」ことを読者が発見するように願っている、と書いた。(p.654)

「○○にしかできないやり方で、かたちを与えられ、目に見えるようになった美」!なんてかっこいい考え・言い方だろうか。僕もそういうものを自分の分野でつくりたい、そう思った。


最後に本書の最後に寄せられている村上春樹の「解説――身を粉にして小説を書くこと」のなかの言葉を少し取り上げたい。

カーヴァーはいわば「自分の身を粉にして」小説を書いた人だ。その挽き臼にかけるマテリアルのひとつひとつを、彼は自分の身の内からもぎとっていった。そこにはもちろん痛みがあった。時にはまわりの人々を痛めつけることもあったが、その痛みはだいたいにおいて彼自身に戻ってきた。彼にとって生きるということはそのまま小説を書くことであり、小説を書くというのはそのまま人生を生きることだった。(p.735)

レイモンド・カーヴァーの「生きざま」(あまり好きではない言葉だが、ここにはたぶん相応しい)には、小説家であるというのが本質的にどういうことなのかが、きわめて率直に示唆されていると僕には思える。それは、「何かを書き続けるというのは、自分から何かを削り取り続けるということなのだ」という事実である。僕らはその削り取られたぶんを、どこかからもってきた何かで必死に埋めていかなければならない。(p.736)

ここで語られていることは、僕には、村上春樹自身のことにも重なって見える。ただしひとつ違うのは、カーヴァーは様々なものに依存することでそれを埋めようとしたが、村上はそれを自分なりの方法で心身を鍛え、書き続けようとしているということではないだろうか。村上春樹が日々走り、心身を鍛えながら、創作と重ねて行くのは、まさにそのためだろう。僕も自分なりのスタイルを確立していきたい。それがあっとうい間に擦り減ってしまわずに、つくり続けるために必要なことなのだ。

そして、人生というものは死との関係のなかで考えられなければならない。人の生は誰でも限られており、作家も同様に、つくり続ける人生にも終わりが来る。レイモンド・カーヴァーが亡くなったのは、五十歳のときだった。そのとき、四十歳を目前にしていた村上は次のように感じたという。

彼をこうして失ったことは本当に残念な、悲しい出来事ではあるけれど、五十歳まで生きて、これだけ多くの価値ある作品を書き上げ、それをあとに残して静かに世を去るというのは、ひとつの素晴らしい達成であり、美しい人生のあり方かもしれない、と。そのときの僕には―――実に愚かしいことだが―――五十歳というのはずっと先の方に控えている人生の立派な節目のように思えたのだ。(p.726)

しかし、実際に自分が五十歳になったときに、そのように考えたことを反省したという。

僕自身のことを語らせていただければ、五十歳を迎えた時点では僕は小説家として、自分が書きたいことの―――あるいは書けるはずだと感じていることの―――まだ半分も書いていなかった。「もしこんなところで自分が病を得て、死ななくてはならないのだとしたら、悔しくてたまらないだろうな」とつくづく思った。文字通り死んでも死にきれない気持ちだ。
 僕は五十歳というポイントを越えてから、長編小説だけに限っても『海辺のカフカ』を書き、『1Q84』を書き、『色彩を持たない多﨑つくると、彼の巡礼の年』を書いた。その他にもいくつかの短編小説集と中編小説を書いた。もし作品目録からそれらの作品群がまとめて削除されるとしたら、それは(他の人がどのように考えるかはもちろんわからないが)僕としてはとても耐えがたいことだ。それらの作品は今では僕という人間の、欠くことのできない血肉の一部になっているのだから。一人の作家が死ぬというのは、ひとつの命のみならず、来るべき作品目録を抱えたままこの世から消えて行くことを意味するのだ。(p.727)

いま四十歳という位置にいる僕にとって、この村上春樹の言葉から得られるものは大きい。

僕も目の前のことに必死になりながらも、このことを常に考えながら生きていきたい。

自分が限りある人生のなかで、世界にどのような作品・成果をどれだけ残せるだろうか、と。
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Creative Reading:『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志)

今回は、保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作の最終巻である『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2012)を取り上げたい。

Hosaka3.jpg『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2012)


この三部作を通じて、小説家・小島信夫さんの話がたくさん出てくるのであるが、次のエピソードで語られていることは、実に興味深い。

そのとき話がはじまってすぐに私がちょうどそのときに読んでいたメルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』のページを開いて、
「ソナタ奏者の演奏がソナタたりえるのはソナタに奉仕しているからだ。」
という意味のことが書いてある箇所を小島さんに見せて、
「小島先生の小説が小説たりえているのは、先生が小説に奉仕しているからなんだと思う。」
と言ったら、
「そんなことを誰の前でも軽々しく言ったらいけない。みんな小説を自分一人の力で書いていると思っているんだから。」
と小島さんが答えた (p.121)

この部分を読んで、もしかしたら僕のつくるパターン・ランゲージがパターン・ランゲージたりえるのは、パターン・ランゲージに奉仕しているから、と言えるのではないか、と感じた。そして、よいパターン・ランゲージを書けないで悩んでいる人は、もしかしたら、自分がつくっているものをどうするかに頭を悩ませているばかりで、パターン・ランゲージというもの・方法に奉仕していないからかもしれない。

僕は、そのときどきのテーマのパターン・ランゲージをつくりながら、同時に、パターン・ランゲージとは何なのか、どのようにパターン・ランゲージをつくることができるのかについて絶えず考えている。そして、パターン・ランゲージをより知ってもらったり、活用されたりするためにはどうすればいいかも考えている。これを先ほどの「奉仕」という言葉で表現するならば、奉仕していると言うことができるのではないか。

成果だけでなく、同時にそのつくり方もつくることの重要性は、僕もこれまで考えていたけれども、「奉仕」ということは考えていなかった。でも、これ、とても大切なことだと思う。


ハイデガーを取り上げた章で、次のようなことが書かれている。

人間が芸術を作るのではなく、芸術によって人間が作るようにしむけられる。とはいっても、ただ子どもが大人に言われるままにわけもわからず何かをするような仕方ではなく、覚悟をもってその困難に進み入ってゆく (p.248)

このことは、宮崎駿が、映画をつくっているはずが映画の奴隷になってつくらされる、ということを言っているのと重なるし、僕自身が本気で何かをつくっているときの経験とも重なる。パターン・ランゲージをつくっているときも、パターン・ランゲージの記述が、まるでパズルのピースがぴったりはまるように、適切かつ生成力をもつようにつくっていく。

別の箇所で紹介されているモーツァルトの話も興味深い。

モーツァルトのてがみは言う―――構想は心の中に全体として姿をみせる。(p.301)


全体のイメージがどこからかやってくる。ある瞬間に気がつくと、それはすでにそこにある。全体をさまざまな角度からしらべ、必要なディテールを発見するのは、ゆっくり進行するプロセスであるのがふつうである。時間をかけることが問題なのではない。ディテールが全体の機械的な分割にとどまらず、相対的に独立した運動をもつことによって、逆に全体はディテールの集合から独立した次元を獲得する。こうして、はじめにあらわれた全体のイメージを超えることが必要なのだ。このことなしには、作曲は実行にあたいしない、ゆめみるだけで充分なものになってしまう。(p.301)

ここには、全体と部分の関係がつくる過程でどのように変容していくのかが書かれていると思う。全体は部分の寄せ集めではない。部分は全体によって規定されるのだ。しかし、最初からそのすべてがどこかからやってくるのではない。全体がまず先にあり、それが実際に存在できるように部分(上述の言葉でいうと「ディテール」)をつくり込んでいく。完成のイメージはあいまいであるが全体が先にあるのであるが、実際につくることができるのは部分=ディテールでしかない。しかし、部分=ディテールを集めたものが全体なのではなく、全体は全体として存在する。まだ正式なかたちを伴っていない段階から、それは全体なのである。

そして、そのようにつくられた小説にはリアリティが宿る。ただし、現在の事実にもとづくというよりも、それはもっともらしく、自分の未来に実際に起きそうであると感じるという意味でのリアリティである。

小説はリアリティがあるからおもしろいのではなく、おもしろい小説には何らかのリアリティがある。この関係を間違ってはいけない。(p.84)

パターン・ランゲージも、似たようなことを言えるだろう。リアリティがあるから「共感」できるのではなく、「共感」できるからリアリティがでる(を感じることができる)、と。

そして、それは新しい価値を提示する。


小説を書くということは社会全体に流布している価値とは別の価値による領土を作ることだ。(p.328)

これはパターン・ランゲージにも言える。パターン・ランゲージをつくるということは社会全体にすでにあるような価値とは別の価値の領土をつくることなのだ。例えば、プレゼンテーションが伝達だと思われているときに、伝達ではなく創造である、と捉えることや、認知症になるということは、家族と過ごす時間が増えたり、いろいろな挑戦をする機会を思い切って増やすことができるという意味で、「新しい旅」だと捉えることができる、というような、普通と異なる価値の領土をつくるということである。

そして、この別の価値というものを、作家はあらかじめ明確に理解しているわけではない。書く・つくることで、それが見えてくるのである。いや、それを見るために書く・つくるのである。

小説家は「いま書きはじめてこの話が小説として成立するのか」という先が保証されない時間の中で文章を書いている。
家を建てるのだったら、まず土台をしっかり作り、次に柱を立てて、その次に屋根を骨組みを作って、という順番があるけれど、小説を書くというのはとりあえず柱を一本立て、その柱を一本立てたことが同時に土台を少し作ることにも屋根を少し作ることにもなるような、手順が保証されていない作業であって、とりあえず立ててみた柱がダメそうなら、別のところに柱を立てるか、それより短い柱にしてみるかというような試行錯誤なのだ (p.412)

これは、創造的な過程の本質だと思う。そして、それが井庭研でやっていることや、SFCで僕らが教えられ・実際にやってきたことはまさにこういうことである。いわゆる一般教養から始めて基礎から積み上げる大学教育ではなく、いきなり柱を立て、その柱の下の基礎だけを同時につくっていくような学び方。これがSFCが25年間やってきたことだと思う。

そして、おそらく、パターン・ランゲージが支援しようとしているのも、そういうことだろう。アレグザンダーが、住民が建築生産のプロセスに参加できるようになるための方法としてパターン・ランゲージを考案したことからもわかるように、しっかりした基礎と自分自身の膨大な経験に基づくのとは異なるやり方で、いきなり柱をつくろうとしても全体として高い質が実現できるような方法を目指して、パターン・ランゲージがつくられたのである。

パターン・ランゲージを読むことによって全体性を感じとり、その上で部分=ディテールをつくるために個々のパターンが寄与する。アレグザンダーの実践は道半ばで終わってしまった感があるのは事実であり、その試みの続きは、僕ら後継者が続けるべきことだろう。
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Creative Reading:『小説の誕生』(保坂 和志)

前回に続き、保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作の二作目にあたる『小説の誕生』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2011)から気になる部分を抜き出して考えたい。

Hosaka2.jpg『小説の誕生』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2011)


本書でも、「小説的思考とは何か? 小説が生成する瞬間とはどういうものか? 小説的に世界を考えるとどうなるのか?」ということが問われている。

評論的思考は俯瞰し一望するタイプのものだけれど、小説的思考は森の奥へ奥へと勇気を持って突き進むものだ。その先に何があるのか?なんて関係ない。突き進むという行為自体に意味がある。というか、小説を書くとはひたすら突き進む行為そのもので、それは人生であり、この世界に生きることに等しい。人生や世界は決してその外に出て俯瞰することはできない。(p.14)

興味深いのは、この小説論自体が、小説的に奥へ奥へと進むように書かれているということだ。

小説論は評論でなく小説の変種だから、私は毎回、最初の数行を書いたらその運動に任せて、考えを前に進めることだけを実践した。(p.4)

そのような小説的な書き方で、小説について考えているのが、この『小説の誕生』という本、そして、この「小説をめぐって」の三部作なのである。このような再帰的なかたちの取り組みは、まさに僕らがパターン・ランゲージをつくるためのパターン・ランゲージをつくっているのと同じような構造になっている。

前回取り上げた『小説の自由』でも書かれていたことだが、文体は文章の表面的な特徴を言うのではなく、それを生み出す奥にあるものである。

小説における文体とは書かれる要素の種類と量とその順番などのことであって、センテンスの長-短、言葉使いの硬-軟などの表面的なことではない。それら表面的なことだけにとらわれる文体観は、小説を形式と内容に分ける考え方に基づいた発想なのだが、小説においては形式と内容という二分法は意味がない。表面的なものだけをみて文体と考える発想は詩から移入されたものだろう。散文は韻文ではない。散文は韻文と別のメカニズムによって作られていくこのだから、小説は散文としての独自の意識を持つ必要がある。小説にとって必要なのはひたすら散文という意識だけなのではないかと私は思う。(p.34)

この詩の捉え方が、詩人の側から見てどう思うのかは僕はわからないが、「形式」と「内容」に分けるという発想がそもそも違うという指摘は興味深い。(小説・散文における)文体というのはそれらの二分法的な区分では捉えられないというわけである。そして、散文であるパターン・ランゲージの文章もまた、「形式」と「内容」は不可分だということになる。

それでは改めて、小説を書くということは、どういうことなのだろうか。

小説とは小説家の中にあるイメージというか何か言葉にならないものを、人物の動きや情景や出来事の連鎖によって読者の中に作り出そうとする表現行為のことだ。だから小説は言葉によって書かれているものではあるけれど、音楽や絵画と同じように、言葉によっては再現することができない。(p.66)

小説は、音楽や絵画と異なり、言葉で表現されるので、まるで「言葉にならない何か」を言葉で記述できたかのように思えてしまう。しかし、それは誤解であって、音楽や絵画と同じように、そこに文字として書かれていることが、表現したかったそのものではない。その文字を追うことで立ち現れてくる世界こそが、小説によって表現したいことなのだ。だから、現前性ということが問題になるのである。

文章は事実を書けばそれが事実としてそのまま読者に伝わるようなものではない。(p.303)

書かれた文字を逐一追っていく読者の行為にとって、書かれていることが読みながら生起するように書かなければならない・・・そうしなければ読者はそれを経験せず、ただ事後報告として読むだけだ。(p.303)

同様のことが、パターンの文章を仕上げるときにも言える、と僕は思う。パターンには、よりよい方向に進むための秘訣のようなものが言葉で表現される。しかし、そこに書いてある言葉そのものを共有したいというよりは、その記述が生むより感覚的なものを共有したいために文章にしている。

いま引用した部分の書き方を踏襲するならば、「事後報告としてのパターン」は、読んでいて、過去にあったことを文字として読んでいるに過ぎない。しかし、パターンを読んだときに自分のことであると感じさせたり、今もしくはこれから起きると感じさせる(思わせるのというよりも感じさせる)ことができるかどうかが、パターンの文章の命である。この違いを意識しているか、それを書き分けることができるのかが、パターンを仕上げたときのクオリティに大きく違いを生む。

だからこそ、パターン・ランゲージを読むということは、ある面では小説や哲学を読むということに近いのである。

哲学とは結論を読むものではなくて思考のプロセスを読むものだ。結論というのはプロセスそのものの中にあるとしか言えない。小説になるともっとプロセスしかない。音楽を聞くときに「結論は何か?」と考えないのと同じようなものだとでも言えばいいだろうか。音楽でも絵でもそれをいいと思っている人は言葉を必要としていない。音楽や絵の前で言葉を必要とする人はそれをどう受容していいかわからない人たちだ。(p.61)

音楽を聴くときに「結論は何か?」を考えない、というたとえは実にわかりやすい。パターン・ランゲージもそれを「感じる」ときには、小説や哲学を読み、音楽を聴くようなことに近い。そうやって読むことで、パターン・ランゲージが生成しようとする世界を感じて味わうことができる。(パターン・ランゲージは、その上で、後から個々のパターンを実践に活かすことができるような形態でまとめられている。)

それぞれの小説は、世界を立ち上げるという意味で、ひとつのまとまりをもった(閉じている)ものであるが、他方で、現実世界に対して「開かれている」。

小説は現実の世界に対して閉じてはいけない。それは考えることを放棄して【ただ作品を書く】ことでしかない。世界がどういうものであるかを考えるための方法や道具を作り出すのが小説で、世界とは自分の働きかけに応えてくれないものであるという前提で生き、それでも世界に働きつづけるにはどうしたらいいのかを考えるために小説がある、というのが私の小説観だ。(p.40)

フィクションのリアリティとは、現実でそれが説明されることでなく、それが現実を説明する原型になることだ。
現実の中にそれを置いてみて、どんなに荒唐無稽に見えることであっても、フィクションの中で読者の気持ちを掻き立てられればそれは何らかのリアリティを持っているはずで、そのリアリティが現実をそれまでと違った風に見えるようにする。(p.481)

つまり、小説は現実世界とは関係のない架空の世界の話として終わるわけではなく、それが現実世界の見方をも変容させていく。小説家が小説を書きながら自分自身が変わっていくように、読者もまた、小説を読みながら変わっていくのである。

文学というのはどれだけ絶望的な状況を書いても、この世界を肯定しようとしていなければならない、というのが私の文学観だ。息苦しい状況をひたすら息苦しく書いたり、悲惨なことをただ悲惨に書いたりするのは、文学を文学たらしめる何かが欠けている。私は「世界はいいものだ」「人間は素晴らしい」と書かなければいけないと言っているのではない。・・・『音の静寂 静寂の音』で高橋悠治が書いている、
「人間であることのくるしみをくるしみとしながらも
くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽」
という意味で、世界を肯定しようとする強い意志がなければならない。小説―――広く芸術一般――ーを世界に向かって開くことができるのは、この意志なのだと思う。(p.317)

世界を肯定する。その気持ち、よくわかる。パターン・ランゲージは現在よりもよりよい状況を生もうとして書かれる。しかし、それは世界の否定ではない。世界を肯定しているからこそ、パターン・ランゲージを書き、よりよい状況になると信じているのである。もし世界を肯定しようという意志がないのであれば、パターン・ランゲージなど書くこともなく、絶望に打ちひがれたり、やけになって破滅的な行動をとるかもしれない。パターン・ランゲージをつくるというのは、世界を肯定しようという意志の表れなのである。
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Creative Reading:『小説の自由』(保坂 和志)

年末年始に保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作、『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』を読んだ。とても面白かった。

もちろんそのままの内容も面白いのだが、僕の場合は「パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている」ということを、なんとか言葉にしたいと思いながら読んでいたので、その意味での面白さもある。絶えず小説の話をパターン・ランゲージのこととして読み替えながら読んだのだ。

重要な箇所がたくさんありすぎてすべては取り上げられないが、そのなかでも、パターン・ランゲージをつくるということを考えるときに、とても重要だと思う部分を引用しながら考えていきたい(保坂さんも、これらの三部作では、とにかくたくさん文献を引用しまくり、そこで考えることをどんどん展開していくという書き方をしているので、その本をさらに引用しながら僕の考えを進めることも、ある意味正当化されるだろう)。

まず、今回は『小説の自由』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2010)から始めたい。

Hosaka1.jpg『小説の自由』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2010)


この本では(そして三部作全体でも)、小説とは何なのかということが問われている。

小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ。作者の意見・思想・感慨の類いはどうなるのかといえば、その運動の中にある。(p.73-74)

言葉遣いやセンテンスの長短やテンポは、いったん書き上げた段階でいくらでも直すことができるけれど、文章に込められた要素 ――― つまり情景に込められた要素 ――― はそういうわけにはいかない。小説にはいったん書き上げたあとに修正可能な要素と不可能な要素があり、修正不可能な要素が小説世界を作る、というか作者の意図をこえて小説を【どこかに連れていく】。それが小説における表現=現前性で、文字とは抽象化されたものなのだから、見た目の印象は小説にとっての現前性ではなく、韻文にあるような響きも小説にとっての現前性ではなく、文字によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて現前性が起こる。(p.88)


それゆえ、

小説は読んでいる時間の中にしかない。(p.89)

のである。しかも、作者も読者と同じように、初めて文字になったものを読むことでその現前性に触れることになるという。

あたり前のことを言うようだが、文章というのは実際に文字で書いた状態を目で読まないかぎり感触が確かめられない。それは書いた一行一行から来る現前性の問題で、直前に書いた文を読むとき作者は読者と同じく、はじめてその文を読む。文がまだ頭の中にしかないときには、そこにある要素の現前性の感触を作者自身得られていない。(p.287)

だからこそ、自分で書いた論文やパターンを、何度も読み直して、そこに確かな手応えがあるかどうかを何度も確認しなければならないのである。他の人の書いた論文を何度も赤入れするとき、よく感じる疑問は、その書き手が本当にそれを「読み直して」いるだろうか、ということだ。

こういうと、「もちろん何度も読み直していますよ」と答えるだろうが、ここで問うているのは、本当の意味で「読み直している」のかということである。ただ文字面を目で追い、なでるように見ているだけで、そこで気にしているのは文章が表現として成り立っているか、頭のなかで考えていたことと一致しているか、ということではないか。「読み直す」ということは、それでは足りないのである。

小説とは書き手と文字として書かれたものとの休みないかけひきの産物なのだ。(p.152)

書かれた文章は書き手のイメージの写しではない。(p.153)

書かれた文章は書き手のイメージの写しではなくて、書き手は半分は書かれた文章からその先を書くヒントを得る。という意味での「かけひき」だ。(p.154)

自分が書いたものは、自分の頭のなかにそこに書かれたことに対応する内容がすでにある。ところが、読者のように「読み直す」ということは、その頭にある内容を知らない振りをして、初めて読む人になりきって文章を読むということである。そして、その内容を飲み込み、理解し、味わうということを実際に行うことである。これは、単に文字面を表現のレベルでなでているのとは違う。その文章に初めて出会い、初めて読み、初めて理解するということなのである。自分で書いた文章であるにもかかわらず!

小説とは、絵画や彫刻や音楽や映画や演劇やダンスや詩や……それらと同じく芸術なのだから、運動が不可欠な要素としてある。ただ、詩も含めてここに列挙したすべてと小説が違っているのは、小説の運動が、字面という視覚的なものや言葉の響きという聴覚的なものなど、感覚的身体的な、即物的な次元を頼りと刷ることができず、すべての文字が頭の中で処理されるその過程で生まれるということだ。(p.319-320)

小説家が頭のなかにイメージをもっていて、そしてそれに対応するものを書いたとしても、言葉は言葉の運動性があるので、単なるイメージのコピーにはならない。そのイメージと無関係であるとは言わないが、文章の側には文章の側の流れや質感が生じる。そうなると、作者は、書いたあとに、それを読み直すことで初めてその文章から立ち上がる情景や世界を感じられるのである。そして、読み直したときに初めて、その言葉たちに世界を立ち上げる力があるのか、質を感じさせる力があるのかが実感されるのである。

小説を書くことは、自分がいま書いている小説を注意深く読むことなのだ。小説家はどんな読者よりも注意深く、自分がいま書いている小説を読んでいる。(p.191)

しかも、「読み直す」ということは、実際にすでに書いた部分の文章を読んでいるだけでなく、その内容・展開を何度も「読む」。

小説家には、自分がいま書いている小説のことだけが頭にある。だから仮に小説家Aが一日二時間しか机に向かわないとしても、小説家Bが二日に一度しか机に向かわないとしても、小説家は小説を書いているかぎり、いま書いている小説のことを考え続けている。机から離れていても最近何日間かで書いた分 ――― だいたい二〇〜三〇枚だろうか ――― の情景や会話が頭の中にあって、それゆえ小説家は自分が書いた原稿を【繰り返し読んでいる】。(p.192)

何度もその世界がリピートされる。絶えずその世界を何度も何度も頭のなかで「読み直す」。これは、パターン・ランゲージを編み上げているときに、僕が必ずやっていることでもある。

私が小説家であることを知ると、純朴な人たちは「自分が考えていることを人に伝わるように書くって難しいですよね」と言うのだけれど、自分が考えていることがすでに形となっているのなら書くことはたいして難しくない。そうではなくて、「自分が考えようとしていることが、どういうことなのか自分自身でもよくわかっていない」ことを書くから、書くことは難しい。(p.358)

パターン・ランゲージをつくるのが大変なのも同じ理由だ。個々のパターンが何を言うべきかが、よくわかっていないからこそ、それを書くことで理解しようとしている。そして、パターン・ランゲージ全体で何を表そうとしているのかも、つくっている段階ではよくわからない。よくわからないからこそ、何度も読み直し、何度も書き直すなかで、それをつかもうと努力するのである。

「書く」というのは「文字を使って書く」ことだ。文字というのは人間の外にあって人間と別の原理によって動く体系であって、火を使ったり、道具を製作して使ったり、楽器を演奏したり、動物を飼育したり、植物を育てたり、数学を使ったり、三段論法などの論理的思考法を持ったり、家を建てたり、船で海に乗り出したり、車輪を持ったり、水車という動力を使うようになったり、蒸気機関を発明したり、電話を発明したり、パソコンを使うようになったりするのと同じように、人間と別の原理によって動くものによって人間もまた動かされることで、それらひとつひとつを自分のものとするたびに人間はそれ以前の人間とは別の思考の仕方や世界との別の関わり方をするようになった。(p.359)

この「人間と別の原理で動く」ということが大切だ。

考えることは文字なしで頭の中だけでもできる。しかし頭の中だけでは論旨をゆっくりと進めることしかできない。頭の中だけの考える作業としてたぶん最も向いているのは、要素を記憶しておいて、それらが思わぬ結合をして、大転換でも小さな転換でもいいが、とにかく“転換”をともなったインスピレーションが生まれるのを待つことだ。
それに対して書くことは転換はあまり期待できないが、論を短時間に進めることができる。頭の中で訪れるインスピレーションが、「頭の中」といいつつ、風が窓を叩く音など、案外、ちょっとした外からの刺激が必要なのに対して、書いて考えるときには外からの刺激なしに進めていくことができる。断片だった考えや、書かなければ頭をよぎっただけでそれが熟すのはまだしばらく先になったようなことが、書くことで集められ、留め置かれて、それらが先に進められる。(p.362)

保坂さんのかっこいい表現でいうならば、「書くことは前に進むこと」(p.375)なのである。

文字を使って確認するように書いていくことで、自然と先が用意されたり、確認のつもりで書いていることが・・・すでに先のこと、一種の答えのようなものだったりする。書くというのはそういうことだ。あたり前のように感じる人が多いかもしれないが、これは書くことの大変な特性で、小説と哲学はこの特性によって小説が小説たりえ、哲学が哲学たりえることになる。小説も哲学も、数学の計算のように最後の答えだけが問題なわけではなくて、答えようとする道筋、もっと言ってしまえば、世界に対する不可解さを問いの形にまでするところにしかその仕事はない。不可解さが、整った問いの形をとることができたとしたら、たぶんもうあんまり答える必要はないのだ。(p.362-263)

このことをパターン・ランゲージで考えるとどうなるだろうか。パターン・ランゲージの目的は、そのパターン・ランゲージで記述されているデザイン・実践をすることによって実現できる「質」(名づけ得ぬ質)を生み出すことである。個々のパターンは、そのための手段に過ぎない。なので、パターン・ランゲージを状況における問題に陥らないための解決策(秘訣・ヒント)を単に共有・示唆するためのものだと思っていては、大切なことを見落としているということになる。パターン・ランゲージ(全体)が目指していることは、それらのパターンで示されている解決策たちを実践することによって生成される「質」を実現することである。

そう考えると、個々のパターンの記述を読むということは、その質へと至る道を進んでいくようなものである。つまり、個々のパターンを理解しながら、理想的な状態の質を感じることが重要であるといえる。その意味で、小説同様に、パターン・ランゲージも「答え」を得るために読むのではなく、そのプロセスこそが大切だと言えるのかもしれない。

小説は、・・・その小説の中で特異な思考の組み立ての手順が実現されることであって、それによって、その小説が書かれる前には読者が考えていなかった問いやこの世界に対する不可解さが浮かび上がってくる。それらは【小説を通じて】実現されるのであって、【小説の外から】持ち込んでくるのではない。(p.393)

ある小説が、その小説が書かれる前から社会の中でじゅうぶんに認知されている問題を、社会と同じ視点から書いても、問題の質的転換は起こらず、すでに用意されている問題が強化されたり、固定されたりするだけだ。(p.393)

僕がパターン・ランゲージをつくるときにも同じようなことを考える。僕らがつくった学びのパターン・ランゲージ「ラーニング・パターン」は、つくることによる学びである「Creative Learning」という視点を生んだし、プレゼンテーション・パターンは、「プレゼンテーションは伝達ではなく創造である」という「Creative Presentation」という捉え方を生んだ。認知症のパターン・ランゲージは、認知症になった後の生活を「新しい旅」だと捉えよう、という視点を生み出した。

これらは、始めからそう考えてつくっていったわけではなく、パターンを書き、パターン・ランゲージを編み上げていく段階で見えてきたものである。つくるなかで生まれたのである。こういう質的転換が起きたパターン・ランゲージは、やはり、僕からするとよいパターン・ランゲージであると感じる。

小説が外から持ち込むのは、意味や問いではなくて、風景や音や人物の口調や動作の方法だ。(p.394)

まさに、個々のパターンにおける解決やアクションは、インタビューや自分たちの経験から得たものたちで、いわば「外から」持ち込まれる。しかし、それらのパターンが集まって、パターン・ランゲージ全体としてどのような質を生むのか、ということは、外から持ち込まれるのではない(強引に持ち込むことができないわけではないが、それをやると全体の”生命”を殺してしまい、記号にはなっても質にはならない)。

小説、音楽、絵画、彫刻、写真、芝居、映画……これらすべての表現形態は、手段として、文字とか音とか色とか線とか具体的なものしか使えないのだけれど、それを作る側にも受けとめる側にも具体性をこえたものが開かれ、それが開かれなければ何も生まれない。
その抽象性だけを強調してしまうと、安易な宗教性に陥ってしまうだろうし、作る側は作品にただ“念をこめる”わけでは全然なくて、具体的な作業をつづけてひたすら具体的な物を作るわけだけれど、その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている。(p.232)

この「その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている」というのは、実にかっこいい表現であるが、単に表現がかっこいいだけでなく、本質を捉えている。パターン・ランゲージの内容をただ理解するだけというのは残念なことであって、それが生成する質に向かっていく力を込めることが重要なのである。では、それはどのように「力」を生むのだろうか。

「文体」について書かれている以下の部分が、関係するかもしれない。

小説における文体とは、センテンスの長-短、言葉づかいの硬-軟など、物理的に簡単に測定できるようなもののことではない。(p.334)

散文は韻文とは違うのだ。

韻文は、言葉のリズムであったり響きであったり、言葉の音楽的=物質的な要素を基盤にしていて、意味は音楽性のあとからくるか、音楽性と同時に音楽性に乗って生まれてくるのだが、散文は音楽的要素を基盤としない。(p.334)

それでは散文では何が文体=語り口になるのだろうか。

小説と哲学書は散文で書かれているといってもやっぱりある密度を持っている。その密度によって、読み進めるうちに作品固有のテンポを読者が共有するようになって、読みはじめの段階よりも著者が書いていることの輪郭がはっきりして理解が容易になったり、昂揚したりするわけだけれど、散文における“固有のテンポ”とは音楽性でなく、”思考の癖”とか、”思考を組み立てていく手順のパターン”のようなもののことだ。(p.335)

このことは、実によくわかる。例えば、ルーマンにはルーマンらしい”思考を組み立てていく手順のパターン”があり、アレグザンダーならアレグアンダーらしい”思考を組み立てていく手順のパターン”がある。そしてそれが文章に表れている。彼らに影響を受けて、彼らのような「文体」で論考を書こうと思っても、言葉づかいなどを真似るだけでは、似たようなものにはならないだろう。そうではなく、文章の表現に裏で関係している”思考を組み立てていく手順のパターン”を真似なければならないのである。

このように、表面的な表現ではなく、その表現を生む(生成する)背後にある「パターン」を抽出し、そこを真似できるようにする。これがパターン・ランゲージで目指していることである。単に、結果としての表現を真似するためのものではない。人間行為のパターン・ランゲージ(パターン・ランゲージ3.0)では、ここでいう「表現」というのは「行為」(action)と置き換えられる。つまり、パターン・ランゲージ3.0は、結果としての行為を真似するためのものではなく、その行為を生む(生成する)背後にある「パターン」を抽出し、そこのレベルから参考にできるようにすることが目指されているのだ。

全体を読み終わってから書くのが筋だと思われるかもしれないが、読み終わると遠のいてしまう高揚感が小説にはある。
小説でも哲学書でも、それを楽しんだり理解したりするために、読んでいるあいだにいろいろなことを自然と思い出したり強引に思い出したりしているもので、読み終わるとそれの何分の一かしか残っていない。(p.109)

こういうことがパターン・ランゲージを読むときにもある。ただし、小説と違うのは、パターン・ランゲージにはパターン名というインデックスが残る。読んだときに一度通過した部分部分を、パターン名というインデックスで思い出すことができる。パターン名の重要性は、この点にあるといえる。

パターン・ランゲージ全体のなかに個々のパターンがある。そして、それに名前がついている。これは決して、逆ではない。つまり、バラバラのパターンが集まってパターン・ランゲージになるのではない。それではバラバラなものが寄せ集められたにすぎないのであって、全体性を生むことはない。パターン・ランゲージ全体が、パターンをもつのである。この点はとても重要である。

パターン・ランゲージをつくっているとき、個々のパターンを書いていた段階から、あるとき、視点を変えて、(未だ見ぬ)パターン・ランゲージ全体からの視点に切り替えて、それに合うように個々のパターンを書き換えたり並べ替えたりするときが来る。これが僕が仕上げるとき「魔法がかかる」といわれる作業で起きている視点の変化である。部分を見ていた段階から、全体をみて、それに合うように部分を用意する、という視点の切り替えである。これができないと、パターンはバラバラのままで編み上げたようにはならず、寄せ集めにしかならないのである。

この本でも、「小説は部分の集積ではない」という節で、この点について述べられている。

小説というものを部分の集積だと考えている人がいるけれど、小説は部分の集積ではなくて何よりもまず全体として小説家に与えられる。もっと実感に即していうと、“全体”でなく、“全体の予感”とか“全体の気配”とかそういう、おぼつかなくておぼろげな感じなのだが、それでもやっぱり全体であって、絶対に部分ではない。これはもちろん、音楽、絵画、彫刻、映画……すべての表現にあてはまること…(p.237)

小説家本人としてもよくわかっていない何かが浮かんできて、それは小説家本人もまったく全体像をつかめてはいないのだけど、それはなんだか動かしがたいものであって、人物も物語も時代も場所も選択の余地があるものではない。構想の段階でも書きはじめてからでも、小説家は人物、物語、時代、場所……等をいろいろいじって書き直すわけだけれど、それは作り手の自由裁量として、「より面白くする」ためにいじったり置き換えたりしているのではなくて、「それしかない」と感じられるものが見えていないから、いじらざるをえないということなのだ。実際の作業としては、一行一行文字を埋めていくことだから、部分の「積み上げ」をしているように見えてしまいがちだけれど、“全体”がさきにあったうえでの”部分”であって、それは、積み上げられたり足し算されたりしていく“部分”とは全然違う。(p.237)

まさにこのあたりが、パターン・ランゲージを編み上げることが、小説を書くことに似ているという部分である。ここで、「パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている」ということは、パターン・ランゲージが小説と同じであることを主張しているのではない。しかも、パターン・ランゲージをつくる全行程が、小説を書く全行程と同じであると言っているのでもない。そうではなく、パターン・ランゲージをつくる全行程のなかの「編み上げる」ことで仕上げる部分が、小説を書くことに似ていると言っているのだ。

僕がパターン・ランゲージ編み上げるときの感覚は、小説家が小説を書くときに、「こうしてやろう」という作為ではなく、小説世界のなかで自然に流れるように動くのをイメージして、それを書いてく感覚に近い。

たとえば小説と小説家の関係は、羊の群れと牧羊犬のようなものだ。何十頭かの羊たちが気ままに草を食べながら移動しているその群れを、評論家は能力が高い牧羊犬がきちんと誘導しているように読むのだが、小説家自身は出来の悪い牧羊犬でいたいと思っている。(p.190)

小説家の能力を優秀な牧羊犬のように群れを制御する能力と思っているかぎり、小説の外枠しかわからない。羊の群れを制御=抑制する能力で小説が書けるのなら、小説家は一日一〇枚、一年で三〇〇〇枚は書ける。羊の群れの気ままな移動に身を任せようとするからこそ、小説家は一年で一〇〇〇枚が書けない。(p.193)

小説家が小説を書くときに確かなものがあるとしたらそれは何を指すのか。それは、事前の構想にしたがって羊の群れを制御=抑制することではなくて、羊の群れの気ままな動きに身を任せることなのだ。それは【一見】最も不確かなやり方に思われるが、小説家と小説の関係ではそれが最も確かなやり方となる。(p.207)

これと同じことは、村上春樹やスティーヴン・キング、宮崎駿など、多くの作家が同様のことを言っている。自分の作為で物語が進むのではなく、物語が自ら展開しようとする、それを私は追っているだけだ、と。はたしてそれは、どういうことなのだろうか。本書は、そのあたりについて重要な指摘がなされている、本書のタイトルにもなっている「小説の自由」、つまり、小説を書くときにおける「自由」とはどういうことか、という話である。

羊の群れに任せて書いて、うまくいかないと思ったら破り捨てて書き直せばいいのだ。小説は人前でするコンサートではないのだから、何度でも書き直してうまくいったテイクだけを残していけばいい。
ここで「うまくいく」というのは、登場人物たちがそれぞれの個性をじゅうぶんに発揮することであり、その情景にある風景や物などの要素が小説の流れを事前の青写真をこえて引っぱっていくことだ。小説がうまくいかないのは、登場人物たちが勝手なことをやったり言ったりするからではなく、お行儀よく作者の青写真の範囲内で振る舞ってしまうからだ。
作者に必要なことは登場人物たちが勝手に振る舞える場を与えることなのだ。それは大変なことだからしょっちゅう失敗する。しかし失敗したら書き直せばいい。小説を書くことは工場労働と違うのだから、時間も労力もいくら無駄にしても誰からも文句は言われない。(p.209)

登場人物たちに思いっきり勝手なことをさせると言っても、一番大まかな輪郭なり流れなり ――― これはそれぞれの小説家に固有のイメージのような体感のような何とも言葉にしがたいものなのだが ――― 小説の全体を決めている何かがあって、それが非常に緩やかなレベルで、人物や出来事や風景という書かれるすべてを統制しているから、本当の本当に収拾がつかない滅茶苦茶バラバラにはならないものなのだ。(p.211)

「勝手」という言葉にはすでに悪い響きがこめられてしまっているが・・・「勝手なこと」をしていいとなると、人間は悪いこと、ろくでもないことをすると決まっているのだろうか。小学校で「勝手にしていいよ」と言ったら、その途端にワーッと大騒ぎになるだろう。けれど、その状態は一時間かせいぜい二時間しかつづかないだろう。そこにファーブルがいたら、彼は騒ぎから抜け出して校庭の隅で虫を見ているだろう。本が好きな子は本を読み出し。ほとんどの男の子はきっとサッカーか野球をはじめるだろう。(p.212)

だから「小説の中で登場人物たちに思いっきり勝手なことをさせる」というのは、小学校の教室で子どもたちがワーッと大騒ぎすることではなく、その次にくるファーブルが虫の観察に没頭している状態のことなのだから、きっと小説は【何か】に向かって進むだろう。その【何か】とは作品ごとに個別にあらわれるもののことだから、いまここで具体的にこういうものだと言うことはできない。その【何か】は作品を書きはじめる前に作者として考えていることをこえる広がりを持っている。(p.213)

また、このことを、保坂さんは本書の別のところで、次のように端的にまとめている。

小説の中で登場人物たちに「勝手なこと」をやらせたり言わせたりすることを私は“悪”を為さしめることだと思っていない。それはサッカー選手がフィールドで【自由に】動き回るというときの「自由」と同じ意味だと思っている。「自由」とは最大に力を発揮することだ。それは無秩序な動きでは実現しない。(p.248)

登場人物は、それぞれ、自分のパターンに従って、自由に行為する。

作者は、何かの行為を登場人物に「させる」のではなく、登場人物自体が自ずからそう行為する。

自由であるから、そう行為することが可能なのだ。

これが「小説(を書くとき)の自由」なのである。


『小説の自由』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2010)
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パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている。

なぜここ数年「小説を書く」ということにずっと興味がある。それは、僕もそろそろ小説を書きたいなぁと思っているからではない。そうではなく、パターン・ランゲージを編み上げることが、小説を書くことに似ていると感じているからである。いくつものパターンを組み合わせ、ひとつの全体としてのパターン・ランゲージを仕上げるときにやっていることが、小説を書くことに似ていると感じるのである。これは、直観的に感じているということであって、まだ論理的に説明できるレベルにはないが。

僕は小説を書いたことがあるわけではないし(自作映画のストーリーのようなものはいくつか書いたことがあるけれども、それらは小説ではない)、パターン・ランゲージは小説ではない。しかしながら、小説家が「小説を書く」ということについて語っているものを読むと、自分がパターン・ランゲージを仕上げるときに行っていることに近いと感じるのである。


井庭研でパターン・ランゲージをつくるとき、僕は、映画で言う「プロデューサー」(製作総指揮)のような立場をとる場合と、「ディレクター」(監督)のような立場をとる場合の二種類がある。

プロデューサーとして関わったのは、Generative Beauty Patternsやチェンジ・メイキング・パターン、パーソナル・カルチャー・パターンなどである。プロデューサー的に関わるというのは、あくまでも、作品としてのパターン・ランゲージは、学生メンバーのリーダーのセンスでまとめあげてもらい、僕はその環境を整えたり、それを世の中に出す手助けをすることを行う。

ディレクターとしてつくった、ラーニング・パターン、プレゼンテーション・パターン、コラボレーション・パターン、旅のことば(認知症とともによりよく生きるためのヒント)である。パターン・ランゲージ作成プロジェクトでにディレクターをするときには、チームでつくってきた作品の細部に至るまで、しっかりと自分のセンスに照らして仕上げていく。具体的に言うと、すべての文章に手を入れ、すべてのイラストに手を入れる。もちろん、それまでにもずっと指示や要望を伝えてきてはいるけれども、すべてのパターンのすべての項目のすべての文を自分の手で書き直す。

この段階で、それまでのものから一気にクオリティが上がる。単にパターンの集まりであることを超え、ひとつのランゲージとして世界観をもつものになる。井庭研メンバーはそれを「先生が魔法をかけた」という言い方で表現をしている。たしかに、僕の感覚としても、ひとつひとつのパターンに命を吹き込んでいくという感じなので、「魔法」という表現はまんざら間違った表現ではないと思う。


さて、パターン・ランゲージを編み上げることと、小説を書くことはどう似ているのか。

パターン・ランゲージには小説の主人公のような登場人物はいないし、話の展開もない。パターンごとに区切られた秘訣の記述が集まったものだ。それがどう小説を書くことに似ているのだろうか。

まず最初に断っておきたいのは、「パターン・ランゲージが小説に似ている」と言っているのではない、ということだ。パターン・ランゲージと小説はまったく異なる表現である。パターン・ランゲージは小説ではないし、小説はパターン・ランゲージではない。そうではなく、「パターン・ランゲージを編み上げる」ということが「小説を書く」ということに似ていると言っているのである。

また、「(個々の)パターンを書く」ことが小説を書くことと似ていると言っているのでもない。個々のパターンは、インタビューや自分たちの経験から掘り起こして書いていく。なので、個々のパターンを書くことは小説を書くこととは異なるプロセスで行われる。ここで言いたいのは、「(個々の)パターンを書く」ことがではなく、「パターン・ランゲージを編み上げる」ということが「小説を書く」ということに似ているということである。

「パターン・ランゲージを編み上げる」というのは、すでに、個々のパターンの状況・問題・解決の記述があり、パターン名があり、それらがたくさん書き上がった状態から、互いに関係し合うひとつの全体にまとめ上げる作業のことである。このとき、パターン・ランゲージのパターンが冊子に収録されるということが重要になる。

僕らは、パターン・ランゲージを冊子に収録するときに、前から読んで読めるような順番でパターンを並べる。前から読み進めたときに、「飛んだ」感じがせず自然な流れになるように、それぞれのパターンの内容を踏まえながら収録順番を決めていく。そして、その収録順番に応じて、パターンの通し番号がつけられる。そのため、パターンとパターンがどのような関係にあるのかを見定め、そういう順番に並べていく。そして、その順番に合うように、パターンの内容を修正する。

パターン群をパターン・ランゲージに編み上げるというのは、部分を単に連結して組み立てるという作業ではなく、全体を想定しながら部分をつないでいき、そしてそれらがつくる全体を確認しながら、個々の部分を修正・調整していく、という、往ったり来たりのプロセスとなる。

そのとき、自然な感じというのは何かというと、そのパターンの「奥」にある世界で出来事がうまく流れるかどうか、ということである。パターン・ランゲージというものは、読者がパターンを読んで、自分の世界(生活)で実践してみることが期待されてつくられている。つまり、読者がパターンの冊子を前から読んでいくなかで、自分の世界の流れに照らして、イメージしやすいように書かれなければならない。もちろん、読者は多様な状況のなかでパターンを適用するので、その状況や流れを一意には決めることができない。そうであったとしても、より多くの人が自然な流れであると感じる並べ方はあるのであって、それを模索するわけである。

パターンの「奥」というのは、僕がパターンの順番を考えているときの感覚は、パターンの記述の「奥」に照射された世界での流れをつかもうとしていることから、そう表現した。ここでの「奥」の世界では、おぼろげながら登場人物がいて、その人たちが、そのパターンを読んでいたり、実践していたりする。『旅のことば』であれば、認知症のご本人や、家族が、そこには登場する。そして、日々の生活をしている状況を思い描く。

パターンの「奥」の世界の登場人物たちは、僕の意図を超えて、自由に動き回っている。そして、このパターンを読んだとき、どう感じるだろうか、どういう行動をとるだろうか、このパターンを実践した人が、次にこのパターンを実践しているのというのは、自然な流れだろうか。このパターンの次にこのパターンを読んだとして、まさにこれが必要だと思うだろうか。そういうことを何度も何度もシミュレーションする。これは、まさにパターンの奥にある世界の「物語」をつくり動かしているということである。

このときの感覚が、小説家が「小説を書く」ということについて語っていることにかなり近いと感じるのである。最終的に僕らは、パターン・ランゲージを作品とし、思い描いた物語たちはすべて背景に退いてしまう。というよりは、物語世界は最終的に消えゆく運命にあり、パターン・ランゲージにはその痕跡や残り香のようなものしか残らない。ここが、作品としてのパターン・ランゲージと小説の大きな違いとなる。


このような感覚は、コラボレーション・パターンで少し感じ始め、『旅のことば』でかなり実感し、意識できた。その意味で、僕のこれまでのパターン・ランゲージ作成の経験のなかで、『旅のことば』は別格というか、新しい展開の始まりであると思っている。


そのようなわけで、ここ数年、「小説を書く」ということについて本を読みまくっている。なんとかこの感覚を言葉にしたいと考え、読みながら考え、読みながら考えを繰り返している。これからも、Creative Reading(創造的読書)でいろいろな本を取り上げ、その力を借りながら、なんとか言葉で表現することを試みたい。
パターン・ランゲージ | - | -

Creative Reading:『ナチュラル・ナビゲーション』(T・グーリー)

昨年、書店でたまたま見つけた本がとても素敵で、素晴らしい出会いとなった。そこに書いてあることが魅力的なだけでなく、僕がパターン・ランゲージについて感じていたことや、しっかり語っていかなければならないと感じていたことを、見事に言語化してくれていた。

NaturalNavi.jpg『ナチュラル・ナビゲーション:道具を使わずに旅をする方法』(トリスタン・グーリー, 紀伊國屋書店, 2013)

Tristan Gooley, The Natural Navigator: The Art of Reading Nature’s Own Signposts, Virgin Books, 2010/2014


道具を使わずに、自然を感じ、そこに潜む意味を読んで旅をする。それがナチュラル・ナビゲーションであり、そうやって旅をする人をナチュラル・ナビゲーターという。

本書の多くの部分が、具体的に太陽や夜空、植物や地形の読み方に費やされているのだが、僕は特にプロローグから始まる冒頭部分にすごく共感し、とても気に入った。

著者は、ナチュラル・ナビゲーションに対して、単なる実践的な手段ということを超える意味を見出している。自然と関わり、自然を味わうためのものだと捉えているのだ。「ナチュラル・ナビゲーションの技能は、絶滅の危機にあるのに加え、現代社会でははなはだしく誤解されていることに気づいた」という。

かつては人々にとって生きていくための実践的な道具だったとしても、いまこの技能を現代にも通じる芸術的技法だと考える者は見当たらない。しかしそれこそが私の考えだった。ナチュラル・ナビゲーションは、芸術として扱われたときに最も美しく、力強く輝きを放つ ――― 人間の根源的な能力であって、単なる歴史のひとこまだとか、サバイバル知識と片付けていいものではない。

ここで「芸術」と書かれているが、おそらく「art」のことであり「技芸」と訳してよいだろう。

「ナチュラル・ナビゲーションが陥りがちなのは、サバイバル技術と同一視されることだ」と言い、「サバイバルテクニックとして自然事象を使って方位を定める方法からは、本来ナチュラル・ナビゲーションが持っている豊かな魅力のほとんどがそぎおとされてしまっている」。

そうではなく、ナチュラル・ナビゲーションはもっと豊かなものなのだ。著者は自らの経験を振り返りこう言う。

旅のなかでわたしが一番熱くなれるのは、つながっているという感覚、自分を取り巻く世界との触れ合いの部分だった

旅を続ける自分を取り巻く自然を理解すること、わたしの未来はむしろそのほうにあった。

「方角を知る方法が、いくつかの『コツ』という形で教えられることもあるが、自然の事象を使ってお手軽に方位を割り出そうとすると、自然との確かな絆を感じる機会を失う恐れがある。方位を知ることと、方位を解ることとは微妙に異なるーーー自然界を深く理解せずとも、自然の事物を手がかりにものの数秒で方位を見つけだすことは可能なのだ。方位を解るためには、自分たちが移動している世界を根源から理解しなければならない。自然の事象を利用して方位を導き出そうとする目的が、自分の経験を深めることであるなら、方法を駆使するよりも、その方法がなぜ使えるのかを理解する方が重要だ。それがサバイバル・ナビゲーションとナチュラル・ナビゲーションのそもそもの違いなのである。」

つまり、著者が大切だと言っているのは、目的を達成するために自然界の情報を利用するということではなく、自然を深く理解するということ、そして自然とのつながりを感じることなのである。

パターン・ランゲージをつくるときにも、僕も同じことを大切だと考えている。僕らの経験や知識を言語化するというよりも、いま捉えようとしている物事をより深く理解し、その世界を味わっているという感覚がある。つくるときには、確実にそうだ。

そして、そうやってつくられたパターン・ランゲージをどうやって「使う」というときも、単になにかのアクションを実践できる、ということではなく(それはきっかけとして重要だとしても)、そのパターン・ランゲージが捉えている世界観(物事の捉え方)で、世界を見てみること、体験してみることの方が重要なのだ。

『旅のことば』で「認知症とともによりよく生きる」ためのパターン・ランゲージをつくったが、あの本に書かれている個々の工夫を共有することは重要だが、それよりももっと大切なのは、あのパターン・ランゲージで捉えた世界観を共有するということなのだ。

その意味で、僕は中埜博さんが「パターン・ランゲージは物語である」ということを言った意味を今はよく理解できるし(以前はその真意をつかめていなかったと今となっては思う)、ひとつの世界観の表現・提示なのだ。

この点が、個々のパターンを実践してみるデザイン・ワークショップではなく、パターンを用いた対話ワークショップの方に僕が惹かれている理由でもある。

ナチュラル・ナビゲーションについて読みながら、すべてパターン・ランゲージの話として共感した。『The Nature of Order』にも通じるものがあると思う。

素敵な本との出会いに感謝!


『ナチュラル・ナビゲーション:道具を使わずに旅をする方法』(トリスタン・グーリー, 紀伊國屋書店, 2013)
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「パターン・ランゲージの魅力は?」 井庭研メンバーそれぞれの思い

パターン・ランゲージとはどのようなものか、そして、その魅力は何かということについて、井庭研メンバーそれぞれが語ってくれた。それぞれに自分なりの思い入れがあって、とても興味深い。全員学部生で、1年生〜4年生たちです。


「あなたが思うパターン・ランゲージの魅力は? パターン・ランゲージを一言で言うと?」

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誰もが、様々な分野で活躍し理想の姿を実際に創造できたら…素敵ですよね。一気に大きな成果を出すことが難しくとも、パターンの単位のような、小さな達成が積み重なっていくことで、着実に理想の姿に近づいていくと思います。パターン・ランゲージは、そんな個人や団体の活動を優しく後押ししてくれる存在だと思います。一言で言うならば「人を幸せにすることば」ですね!

40年前に提唱された方法なのに、今もまだ新しい応用・活用方法が見出されていることが一番の魅力だと思います。そういう意味で、パターン・ラン ゲージは「パターン・ランゲージとは何か」ということを、まだまだ考えていける奥の深い方法・思想だと思います。

個人の意思、そして個性を最大限に尊重している方法がパターン・ランゲージであり、その背景にある思想はすごく優しいものです。ありのままを受け入れてくれ、ありのままを肯定してくれるのが、パターン・ランゲージという方法の魅力です。

言葉にできないような良さ・質感を、それでも表現しようという努力と、そのランゲージが人の創造行為に影響を与えること。

自分が感じる小さくとも”良い”を、定義しようとするのではなくて想像して表現するのがいいなと思っています。あと、読む人によって全然違うものになるところ。パターン・ランゲージを一言で言うと、「質を感じることのできるちっちゃな物語」です。

言葉で表現しにくい所を言葉で表現できるところ。また、創造行為の支援に関して、主体者に自由をもたせて支援できるところ。

人間の知の構造を明らかにしようとしていると思うところ。思考するのに適度な型を与えてくれること。人間が持っているもうひとつの言語。

「センスの記述」や「共通言語」など、パターン・ランゲージはいろいろな側面から説明されますが、私は「つくることでわかる」のがパターン・ランゲージの最大の魅力だと思っています。「このことについて書きたい!」と思ってパターンを書き始めても、書き上げたときには自分も知らなかったことが記述されている。この快感は一度味わうと忘れられません。

パターン・ランゲージをつくると、その分野について新しい発見が必ずあります。また、パターンがあれば"理想"のようなフワフワとしたものについても語り合うことができます。自分が関心があったり研究したい対象について深く理解し、さらにその未来をつくっていくことを支援できるのがパターン・ランゲージの魅力だと思いました。

こうなったらいいな、という世界観をみせられること、そして、それを押し付けるのではなく、パターンを見た人の解釈に委ねられるのが魅力に感じます。生活にパターンを取り入れることによって、少しでもその人の考え方や生き方にプ ラスの変化が生まれたらいいなと思います。一言で表すと、人々の中に新しい考え方や価値観を生むツールだと思います。

「いい」と思っているのにそれが言葉にできないモヤモヤが、パターンにすることでキラキラすること。細分化することで分かりやすく、かつ、編み込 まれることで魅力的になります。一言でいうと精巧に編み込まれた物語だと思います。

コミュニケーションにおいて、必要不可欠である言葉の曖昧な表現や認識のずれを失くし、個々人が表現したい本質を捉えることが出来る有用なツールだと思います。

人間としてより本質的なところに近づけることが、魅力だと思います。一言で言うと、当たり前を再確認・共有すること。

パターン・ランゲージのテーマは限定されていなくて、様々なテーマで研究することができます。このように研究の限界がないというこ とがパターン・ランゲージの一つの魅力ではないかと思っています。パターン・ランゲージはより良い自分を作るための「ガイドブック」だと思います。

 私たちにとってパターン・ランゲージが貢献し得る一番の価値としては、「暗黙知を明らかにしてくれること」だと思います。パターンは簡単に言うと、これまでの先人が経験してきた状況・問題・解決を記したものであり、それはインタビューや著書をもとに作成されています。つまり、人の 「生の言葉」であって、だからこそ頭の中に入り易く、気軽に実践しやすいというのが大きな魅力です。
 井庭研では人間行為のパターン・ランゲージを作成しています。自分たちで「新しくつくる」「つくり直す」社会を目指しています。これからの世 の中はどうなっていくんだろう、誰が世界を変えるんだろうかなあと「自分の人生をも客観的に見てしまいそうな現代の人たち」に向けた、「自分を変える・自分の世界を変える、身近で手軽な手段」だと思います。

個人の秘訣が組織や、悩んでいる他の人に分かりやすく共有されるところです。パターンランゲージは、悩んでいる、また何かを突き抜けたいと感じている個人や組織を後押ししてくれる存在だと思います。パターン・ランゲージを一言でいうと、「前進を生むもの」だと思います。

個々が持っている知識、経験が他者の学びや成長を創発するというところに魅力があると思います。自分の中にある何気ない経験が、他者から見たら悩みをブレイクスルーするための鍵になったり、そういったことの連鎖を引き起こせる可能性があるメディアだと思います。

パターン・ランゲージの最大の魅力は、他の分野の人とコラボレーションをするため出来たということです。まさに私が実現したいことでした!

ひとつのパターンだけでも、そのパターンを読んだ人の分だけ物語があるくらい、個人に寄り添っている様々な人間活動のためのコツやヒントであることが面白いなと思います。

パターン・ランゲージをつくったり、ひとつひとつのパターンを理解することで自分の世界観が広がることです。
ひとつのパターン・ランゲージには、ひとつの世界観があります。自分の触れたことのない分野であっても、そのパターン・ランゲージを知ることによって自分の思考の中にそこで描かれている世界観が入り込んできます。そうすると、そのパターンを知る前とは自分の見える世界や社会が違って認識でき、また違う景色を見ることが出来るのです。そして、新たな角度で物事を考えることができると思います。

地域活性化の研究でも感じますが、「なぜかわからないけど活性化に成功した地域」、「なんとなく魅力的な地域」など、数字などはっきり見ることができない部分が存在しています。そういうあいまいな部分を、「言葉」として可視化しているところが魅力です。パターン・ランゲージは、「見えないコツを浮き上がらせてくれるもの」です。

「上手く言葉にできないけれど大切なこと」を認識したり、共有したりできるようになるところ。モヤモヤしたものと向き合い続けることはとても 大変だけど、それを明らかにすることで助けられたり、勇気をもらえる人がいるはずです。パターン・ランゲージをつくることは自分自身の学びに もなりますが、誰かをサポートすることにも繋がると思います。

井庭研に入ったきっかけにもつながるのですが、何かをデザインするときの「センス」を言語化できる部分に魅力を感じています。それが小さな単位としてわかりやすい名前がついているので覚えやすく、パターン・ランゲージは大きな可能性をひめた「ヒケツ共有言語」だと思います!

「行動」として頭のなかに取り込まれるのではなく、「言葉」として取り込まれるところが良い所だと思います。それによって普段の生活のなかでも共通言語として使うことができたり、意識することができるようになります。また、自分の理想の状態・ こうありたいという姿を浮かべやすくなるのもよいなぁと思います。
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「井庭研に入ったきっかけは何ですか?」 現役メンバーに聞いてみた。

SFC生にとって、研究会はひとつのhomeのような存在。その研究会にみんなどうやって巡り会うのだろう。井庭研の現役メンバーがそれぞれどういうきっかけで井庭研に入ることになったのかを、メンバーが聞いてまとめてくれた。

「井庭研に入ったきっかけは何ですか?」

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まず最も多いのが、僕の授業を受けて井庭研に興味をもった人である。1年生のはじめに、総合政策学部と環境情報学部の全員必修の科目で、ラーニング・パターンを用いた対話ワークショップを経験するので、そこでパターン・ランゲージや井庭研のことを知ることになる人が多い。

環境情報学の授業での対話ワークショップを通じて、パターン・ランゲージに興味を持ち始めました。パターン・ランゲージは一つの分野ではなく、様々な分野で使用できることを知り、自分も有用なパターン・ランゲージを作ってみたいと思って井庭研に入りました。

入学してすぐに「総合政策学」の授業で、ラーニング・パターンを使った対話ワークショップを経験したのがきっかけでした。そこからパターンをつくってみたいと思い、1年生の秋学期に「パターン・ランゲージ」の講義でパターンをつくり、もっと本格的につくってみたいと思い井庭研のコラボレーション・パターンプロジェクトに参加しました。

「総合政策学の創造」という授業で、社会起業家精神育成のためのパターン・ランゲージ作成を計画していた井庭研OG のえりーさんとお話をしたことがきっかけでした。入学当時の私は社会起業家の研究を希望していたので、自分の研究をスタートさせるためにも、井庭研究室に入りたいと思いました。


僕の「パターンランゲージ」の授業で一度パターン・ランゲージづくりを経験した上で、もっと本格的にやりたいと思う人もいました。

井庭研に入ったきっかけは、「パターンランゲージ」の授業を履修したことです。授業を通して、大好きなファッションをテーマに、コーディネートの入門パターンを作成しました。そこで経験した「つくることによる学び」に感銘を受け、人のためになるモノをつくるだけでなく、私自身も研究活動を通してより素敵な人間になりたいと思い、所属を決めました。

2年生の時に「パターンランゲージ」の授業を履修していて、デザインの領域をソフトな面から支えられるところに魅力を感じました。また井庭研にいた友人の話を聞き、研究会外でのつながりを大切にしている姿勢などにも惹かれ、面接を受けることを決めました。

授業でパターン・ランゲージを作ってはみたものの、満足できずにもっと本格的に作りたいと思うようになりました。決定打は研究計画発表会での先生の「Generative Beauty Projectの活動を日本、アメリカ、韓国に広げたい」というお話。アメリカと韓国に関わってはいたのですが、なかなか点と点が繋がらなくて。それが線になると直感し、「やるしかない!」と思いました。

たくさんの人が知っほうがいいはずなのに、上手く言葉にできないことで伝えられないモヤモヤしたものが社会にはたくさんあると感じていた 1年生の頃、「パターンランゲージ」の授業を履修して「これは使えるかも!」とピンときました。そこで、研究会に入ってより深く学ぶことに決めました。


ほかにも、一昨年まで担当していた「社会システム理論」や「シミュレーションデザイン」という授業をきっかけに来たメンバーもいます。

一つに絞れないくらい、実はいろんな偶然が重なっています。浪人時代にシステム理論の考え方に出会ったこと、1年春で受けた先生の「社会システム理論」の授業で隣になった子(のちの井庭研同期)と仲良くなったこと、ラーニング・パターンのイラストに惹かれたこと、先生と出身高校が同じだったこと、、挙げたらきりがありません!

貧困や差別などの社会問題に興味があったので、社会がひとつの全体として回っていくその仕組みに興味を持ちました。授業(社会システム理論)でたまたま隣に座った女の子と仲良くなり、お互いに井庭研に入るつもりだったこともあって一緒に研究会を頑張れる人をみつけられたのも、きっかけの一つです。

井庭先生の授業を履修していて、ルーマンのシステム理論や複雑系の存在を知り、それらを踏まえた先生の社会学の視点に興味をもちました。それから研究会の説明会にいき、学生が先生とともに最先端を開拓して、様々な分野のパターン・ランゲージをつくっていることを知りました。そこで、ここでなら面白い研究ができそうだと感じ、以前から興味のあったWebシステムの開発をしているプロジェクトに参加しました。

きっかけは2年生の春に受講した井庭先生の「シュミレーションデザイン」の授業です。複雑系の考え方と状況に応じた問題解決について考え、とても印象に残りました。1年生の秋からベイズ統計を学ぶ研究会に入っていて、主観と客観の混じったシュミレーションや分析に興味を持っていました。2年生の秋にベイズの理論と春に受講したシュミレーションデザインで学んだことが自分の中で繋がって、3年生の春に井庭研究会に入ろうと決意しました。


また、SFCが11月に六本木で行っている研究発表のOpen Research Forum (ORF)で井庭研のブースをみたことがきっかけの人もいます。

去年のORFで、井庭研のブースにてパターンランゲージについての説明を受け、その可能性を感じたことです。個人の経験が組織に共有されたり、共通言語となりえるというところに魅力を感じました。研究会のフランクな雰囲気や、プロジェクトと個人的興味が合ったこともきっかけとなり、入ることを決めました。

当時、子どもの社会問題に関する研究がしたいと考え、社会学系の教育の研究が出来る研究会を探していました。その時、偶然、井庭研で教育のプロジェクトのメンバーの募集をしていたことと、1年の時に行ったORFで井庭研のブースでパターンランゲージの考え方が面白いと感じていたこともあり、入ることを決めました。


なんと、SFC入学前の高校生のときにORFに来て、そこから興味をもち、入学後に井庭研に来てくれた人もいます。

高校2年生の時に、友達に連れられて訪れたORFでたまたま、「パターン・ランゲージ」というものを知り、どこの研究会が研究しているのかなどを調べていくうちに興味をもちました。そして、研究会に入るに至ります。

高校生のときにORF2011で学びの対話ワークショップを体験、ORF2012で自作パターンを持ち込み、2013年春から井庭研に所属させていただいています。


そして、パターン・ランゲージと井庭研の考え方に出会ってしまい、他の大学を辞めてSFCに来た人も。

以前通っていた大学でパターン・ランゲージを知り、自分が研究しようと思っていた介護学や超々高齢社会とうまくコラボレーションをして問題解決できるかもしれない、と考えたことがきっかけです。その後SFCに入学し、旅のことばプロジェクト(認知症プロジェクト)に参加して、井庭研に所属させていただきました。


パターン・ランゲージに興味をもっていたというよりも、井庭研が取り組んでいるテーマに興味をもって来た人も多くいます。

教育に関心があったため、教育に関するプロジェクトが立ち上がるということを聞いて2年前に井庭研に入りました。井庭研で活動する中で、人がより良く生きるためにはどのようにすれば良いかを考えるようになり、教育という分野にかぎらず、興味・関心領域は広がっていきました。

今まで、私は、フォトグラファーとして被写体、スタートアップをしてる時は優秀なエンジニアたちと、そしてラジオ番組をやっているときは様々な業種のゲストと関わらせて頂きました。今後も、私は多角的な知識を持った人と仕事をすることになっていくと強く確信しています。特に、起業してから、シリコンバレーに行ったとき、世界を変える法則がマニュアル化されていて、それを惜しみなく次世代にシェアされるスピードが加速する仕組みが出来ていたことに驚きました。世界中の優秀な人材が集まるところには、皆が目の前の利益をもとめず、未来をみて産業拡大と世界を変えることを視野に動いている所でした。
 これは、IT業界だけでなく、様々な場所にも応用できるのではないかなと考えていたところ、井庭崇先生が提唱する、日常生活におけるパターン・ランゲージというもの出会いました。井庭先生が多くの分野の専門家や、様々な立場と、対話をするように、パタンランゲージを通して、新しい世界が見えてくるのかと思い、今期から、入らせていただきました。

わたしは正規履修しているのが飯盛研なので、井庭研では聴講生です。飯盛研で、「住民主体の地域活性化」について研究しています。井庭研で研究している方法論が飯盛研での自分の研究に活かせると思い、入りました!

元は人間の創造性とか、組織の創造性を高めるということに興味があり、そういった研究を行っている井庭研、組織プロジェクトを志望し ました。あと、SFCならではの研究会だと思い、真剣に研究に取り組みたいと思ったのも入ったきっかっけです。

当時の僕は経営コンサルタントに興味がありました。そして井庭研究室では、パターン・ランゲージによって組織のコラボレーションの活性化を試みているプロジェクトがありました。その時はパターン・ランゲージのことはあまりわからなかったのですが、自分の興味分野との一致、そして井庭先生が創造社会について熱く語っている姿から、パターン・ランゲージの可能性を目の当たりにすることで、井庭研究室に入る決意をしました。


また、ホームページやポスターを見て、説明会に来たことがきっかけの人もいます。やはり、ポスターなども出してみるものです。

SFCのHPでたまたま見つけた「ラーニング・パターン」でパターン・ランゲージというものを知り興味を持ちました。1年の春学期に履修していた建築の授業の参考の為にクリストファー・アレグザンダーの本を読み、その考え方や方法をもっと学んでみたいと思いました。

井庭研のマスコットキャラクター、まなぶくんが新規生説明会を宣伝してるポスターを見つけたのが一番のきっかけですね。1年生の初めのときに先生の学びのワークショップを経験して、当時からこの試みは面白いなあと思っていたのですが、まなぶくんを見た瞬間にその感情が呼び覚まされました。

井庭研の説明会で「グローバルライフプロジェクト」に惹かれて入りました。もともと文章を考えることが好きだったので、暗黙知やコツを言語化していく、というプロセスにも興味がありました。


ということで、みんなそれぞれに井庭研との出会いがあることがわかりました。

ちょっと興味が出て来たという人、まずは井庭研説明会に来てみてください。
2015年 1月7日(水)5限に行います(ε21教室)。少しでも興味をもったら、来てみてください(もしこの5限に授業があるという人は、授業後すぐに来てくれれば追加の説明をします)。

そして、シラバスは、こちら。
井庭崇研究室 Creative Media Studio
創造社会をつくるチェンジ・メイカーになる

[創造的な生き方,子育て,料理,ファッション,ビューティー,文化,認知症,防災,農業,ワークショップ,コミュニティ,場づくり,ものづくり]
井庭研だより | - | -

Iba Lab: How to Entry (2015) for GIGA Students

Here is an information about how to entry into Iba Lab for GIGA students who does not read Japanese book. If you can read Japanese, please see our complete syllabus written in Japanese.

We basically use Japanese in our lab, but we don't want to close our door to GIGA students. Let's think and talk how to collaborate with you.


Creative Media Studio - Change Makers Toward the Creative Society

[Requirement for Reading]
Before sending the entry e-mail, it is required to read the following papers. These papers are selected for students who does not read Japanese book. *

*日本語が読める人は、ぜひとも『パターン・ランゲージ: 創造的な未来をつくるための言語』(井庭 崇 編著, 中埜 博, 江渡 浩一郎, 中西 泰人, 竹中 平蔵, 羽生田 栄一, 慶應義塾大学出版会, 2013)の方を読んでください。

You can get the PDF files of the following papers from here.


  • Takashi Iba, "Using pattern languages as media for mining, analysing, and visualizing experiences", International Journal of Organisational Design and Engineering (IJODE), 2014 Vol. 3 No. 3/4, 2014, pp.278-301

  • Takashi Iba, “Pattern Languages as Media for Creative Dialogue: Functional Analysis of Dialogue Workshops,” Pursuit of Pattern Languages for Societal Change (PURPLSOC) Workshop, Krems, Austria, Nov., 2014

  • Takashi Iba, “A Journey on the Way to Pattern Writing: Designing the Pattern Writing Sheet,“ Conference on Pattern Languages of Programs, IL, USA, Sep., 2014

  • Takashi Iba, et al., Future Language papers, including "Future Language as a Collaborative Design Method" and other 4 papers.


    [How to Entry]

    Deadline: Jan. 18th, Sun, 2015
    Submitting address: ilab-entry [at] sfc.keio.ac.jp
    Set the title as follows: IbaLab2015 Spring Entry
    To the mail, please attach the file (PDF or Word format) including the following information.

    IbaLab2015 Spring Entry

    (1) Your name, faculty, grade, student ID number, login ID, photo of your face*
     *Snap shots allowed. We just want to make sure that we remember you from any information session or classes.
    (2) Self introduction (please use photos and pictures if needed)
    (3) Reason for the entry & your enthusiasm to join Iba Lab
    (4) What part of Pattern Language you’re attracted in (please answer based on the papers that was assigned for reading. )
    (5) Special skills/what you are good at (graphic design, film editing, foreign language, programming, music, sports, etc.)
    (6) Prof. Iba's classes you have taken (if any)
    (7) Favorite classes you have taken at SFC
    (8) Laboratories the you have joined before at SFC (if any)
    (9) Other laboratories you are considering to join next semester (if any)


    Based on your submission, we'll have interview session on Jan. 26th and 27th.
    Also, attend the presentation day of Iba Lab at SFC on Jan. 31st, Sat, 2015.

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    Creative Reading:『物書きのたしなみ』(吉行淳之介)

    年末に読んだ本のなかに、『物書きのたしなみ』(吉行淳之介, 実業之日本社, 2014, 原著1988)がある。

    その本に収録されている「私の文章修業」というエッセイに、次のような文章が登場する。

    言うまでもないことだろうが、文章というものはそれだけが宙に浮いて存在しているわけではなく、内容があっての文章である。地面の下に根があって、茎が出て、それから花が咲くようなものである。その花を文章にたとえれば、根と茎の問題が片付かなくては、花は存在できないわけである。
     そこが厄介なところで、おまけに一つの作品ができ上ると、いったんすべてが取り払われて、地面だけになってしまい、またゼロからはじめなくてはならない。その上、その土地の養分はすべて前に咲いた花が使い切ってしまっているので、まず肥料の工夫からはじまる(土壌と根と茎が十分なかたちで揃えば、おのずから立派な花が咲くとおもっていいのだが、やはりその花の様相を整えることが必要である。ここではじめていわゆる「文章」が独立した問題として出てくる。・・・下部構造がしっかりさえしていれば、花の整え方はその人の個性に属することで、かなり歪んだ花のかたちでもその人にとってはそれでいいわけである)。(p.36)


    何かをつくるということを、植物をメタファーとして捉えるということは、しばしばある。それでも、この文章に僕が惹かれたのは、まさに最近、庭でいろいろな植物を育てているからだろう。ひとつ作品ができあがると、すべてが取り払われて養分のない地面だけになるという感覚は、作品をつくる(本や論文を書く)という経験にも、植物を育てる経験にも完全に当てはまる。

    もっと言えば、一緒に研究をしてきた学生たちが力をつけたころに巣立っていく、というのも同じような感覚だ。なんだ、結局、僕がやっていることは同じようなことなのだな、とこの文章を読んで、はたと気がついた。

    そして、学問の潮流、いま生きている時代、ひとつひとつの研究テーマの探究期間、大学の年度、プロジェクトの活動期間、季節、毎週の授業 ――― このような幾重にもなる重層的なリズムのなかで、絶えず自分と周囲が更新されていく、そういう生活・人生を生きているのだなと感じた。


    現在、このような仕事・生活をしているのは、20年前は想像もしていなかった。大学院の修士に上がるときにも、修飾するつもりでいたので、博士に進学することも、ましてや大学で研究・教育をすることになることは想定していなかったからである。大学生のころから「学問を究めたい」と考えて勉強をしてきたわけではないのだ。

    そのあたりは、本書の「文学を志す」というエッセイに書かれていることと重なる。吉行は次のように始めた。

    文学を志すという明確な姿勢を取ったことがあったかどうか思い出してみると、少なくともいわゆる作家になる以前にはなかったようだ。(p.71)


    そして、自身の遍歴を語った上で、次のようにまとめている。

    いろいろの偶然が重なって、現在作家というものになっている。そして、そのことに、このごろでは宿命のようなものを感じている。これまでは滓が沈殿して自然発生的に作品を書いていた傾向が強かったが、ようやくいくぶん自分の方向というものが分かりかかってきた。作家として死ぬまで書いてゆくほかなさそうだ、という抜きさきならなぬ気持ちもでてきた。ここで、あらためて、文学を志したいとおもう。(p.78)


    この気持ち、なんだかわかる。しかし、おそらく10年前には、この気持ちは今ほどはわからなかっただろう。でも、今はよくわかる。

    そして、この後に続いて「方向が分かると同時に、自分の限界も分かってきた」ということが書かれているが、それも最近実感するところだ。自分に限界の枠をはめたくはないと常々思っているが、現実問題として「自分の限界」を感じることがしばしばある。35歳を過ぎるというのはそういうことだ、と昔誰かが言っていたのを思い出す。


    あらためて、(新しい)学問を志したいとおもう。



    Monokaki.jpg『物書きのたしなみ』(吉行淳之介, 実業之日本社, 2014, 原著1988)
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